第6話 道後温泉と歌舞伎役者
朝食を終えると、乗客たちは思い、思いに松山観光に出かける。
今日は、ショーのリハーサルは、昼間はなくて、夕方の四時からだった。
エリカ達も後片付けを終えると、一斉に船を出て行く。
「先輩、観光に出かけましょうよ」
桃子は、陽子に声をかけた。
「私はいいの。行って来なさい」
「先輩は、出かけないのですか」
「もう、私は何度も松山観光してるから、いいの」
「そうですか。じゃあ行って来ます」
「あまり、羽目を外さないでね」
「大丈夫です」
勢いよく胸を張って桃子は答えた。
「あんたは、いいとしても、同室のエリカが問題なのよね」
この話を桃子は、エリカにした。
「何云ってるのよ、あの変人女」
「どこが変人なのよ」
「陽子さんね、航海出ても、寄港地には絶対に降りないのよ」
「もったいない」
「でしょう」
「じゃあ、船の中で籠って何をしてるのよ」
「それがね、ここだけの話」
ここまで云って、エリカは、辺りをキョロキョロ見渡した。
今、二人は、伊予鉄道高浜線、市内のチンチン電車を乗り継いで、道後温泉本館までやって来た。
そして、奮発して、最上階のと云っても、三階だけど個室に入った。
「ガエス様に祈っているらしいのよ」
一段と声を潜めて、エリカはささやいた。
「船の神様に?」
「そう。私の友人が、ある時、忘れ物取りに部屋に戻った時偶然、陽子さんの部屋の前を通ったの。そしたら聞こえて来たのよ」
「陽子さんの声が」
「それも唸る感じで」
「最初、それを聞いた友人は、陽子さんが身体の調子がおかしくなって、唸ってると思ったのよ」
さらえにエリカの話は続く。
中々、結論を出さないエリカに、ついに辛抱しきれずに
「もう結論だけ云って!」
「会わせて下さいって、何度も唱えていたのよ
「誰によ」
「知らない。知りたければ、本人に直接聞きなよ」
口が裂けてもそれだけは、聞けない。
お喋りは、一時中断して、浴衣に着替えて温泉に入る事にした。
エリカは、温泉が大好きなようだ。
「日本人が羨ましいよ。国土のどこでも温泉が湧き出てて」
「フィリピンの人は、入らないの」
「入らない。年中暑いから、ほとんど、シャワーオンリー」
二人は、浴衣で涼み、坊ちゃん団子を食べた。
「陽子さんも来ればよかったのに、ほっこりしてお肌も綺麗になるのになあ」
と心底桃子は、思った事を口に出した。
道後温泉は、有馬温泉と並ぶ日本古湯の一つだ。
聖徳太子も入ったと云う由緒ある温泉だ。
「聖徳太子さんが入ったとこ、誰か見たのかなあ」
素朴な疑問を、桃子はつぶやいた。
「誰も見るわけないでしょう。伝説」
温泉に入ったあとは、二人は、道後温泉界隈を散策する。
「平安」に乗船した大半の観光客も、ここをうろついていた。
多くの観光客は、土産品を大量買いしていた。
しかし、エリカは、商品を見るだけで、決して買おうとしなかった。
「一つぐらい、買ったら。折角松山まで来てるのだから」
たまりかねて、桃子がつぶやいた。
「ううん、見るだけでいいから」
少し考えながら
「でもいいの。見るだけで満足。満腹」
精いっぱいの強がりと、ウインクをエリカは、して見せた。
その言葉とは、裏腹に今までエリカが手を取り。じっと見つめていた商品を桃子は、手際よく選んでレジに持って行く。
「だから、もういいって」
「エリカ、勘違いしないで。これは、私が欲しいものなの」
「そうだったの」
かなり落胆の表情を見せる。
「うーそ。ほら欲しいんでしょう。どうぞ」
「有難う」
率直にエリカはうなづいた。
エリカが欲しかったのは、表と裏に「道後温泉」と書かれたTシャツだった。
「日本の漢字が、フィリピンでブームなの。漢字、恰好いいもんね」
「漢字のどこが、恰好いいのよ」
「何て云うのかなあ。アートなの。英文字にはない魅力」
「ふーん」
「漢字って一文字で、色々意味があるでしょう。例えば、(木)。三つあわさって(森)になる。最初習った時、さすがは、日本人って思った」
「エリカ、漢字は、中国から来たのよ」
「わかってる。でもひらがな、カタカナは、日本発祥でしょう」
そのあと、桃子は、エリカの要望で、伊予鉄高浜線に乗り、梅津寺に向かった。
松山は、俳句の町でもある。
一両のチンチン電車の乗り口には、俳句応募箱がある。
また毎年、高校生が俳句で競う、「俳句甲子園」も松山で開催されている。
梅津寺と書いて、「ばいしんじ」と読む。
駅前には、お寺ではなくて、浅瀬の砂浜が広がる。
ここは、昔から松山市民の憩いの海水浴場でもある。
今は、五月なので、さすがに泳ぐ人はいない。
「日本の恋愛ドラマが、フィリピンで放映されてて、ここが撮影場所なの。だから来てみたかったんだ」
「ドラマの聖地を巡る旅ねえ。最近日本のドラマが、海外で放映されてるからねえ」
ふと二人の視線は、海に注ぐ。
まだ、泳ぐ季節でもないのに、どんどん沖に向かう人がいる。
「あれ、おかしいよねえ」
「おかしい」
「ひょっとして」
「ひょっとするかも」
二人は顔を見合わせた。
「やばいよね」
「やばいかも」
二人が駈け出そうとした瞬間、後ろから
「おっさん、何やってるの」
上岡が、ダッシュで海に飛び込み、沖へ向かう人を後ろから羽交い締めした。
若さの力に観念したのか、男はぐったりとして反抗しなくなった。
引き上げて来た上岡とその男を迎えた。
「一体何を考えているんですか」
「何も考えてなんかいない」
男は、硬直した身体だった。
「あなたは、世間では何と呼ばれているか知ってるんですか」
矢継ぎ早に、上岡は質問をたたみかけた。
男はうなだれて、沈黙を貫く。
「世間を代表して、私が云います」
ここで、上岡は大きく息を吸った。
「生きる星と呼ばれているんですよ」
うんうんと男は、黙ってうなづく。
「星は無数にある。一つぐらい消えても何と云う事もあるまい」
そこまで云うと男は、唇の端に笑みを弱々しく浮かべた。
「上岡さん、この人は」
「君たち、知らないのか!先程東京歌舞伎座で引退興行された、歌舞伎役者の森川浩蔵さんなんだ」
「どうも。私も君らと同じ(平安)に乗ってるよ。最も私は、乗客だけどもね」
驚愕の渦が、あちこちで生まれた。
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