第12話 弘司の企て
10キロ地点の給水所は、紙コップをテーブルに並べ、あとは選手が来るのを待つだけとなっていた。
ここのボランティアスタッフは4人で、そのうち50代らしき男性は、無線で頻繁に本部と連絡を取り合っている。給水テーブルから少し離れ、
あとの2人は、手よりも口がよく動くおばさんだ。
カイロを体のどこに貼ってあるかという話から、ご近所さんの悪口、シミやシワが増えたという老化自慢のあとは、決まってお肌のお手入れ法と、病院の格付け。次から次へと話題に事欠かない。
その斜め後ろの歩道の端で、残りのスタッフである林弘司は、1人ポツンと立っていた。
銀縁眼鏡の奥に、17歳という若さが持つハツラツとした輝きはない。英気を奪われた若年老人のような高校生は、実年齢より10歳は老けて見えた。
薄い唇は、くすんだ肌と同じで血色がない。ほかのスタッフたちと、気安く会話を交わす愛想もなかった。
ボランティアスタッフは、白い帽子とコートをはおっている。
弘司は、コートの上から脇腹を押さえた。
下に着ているジャケットの両ポケットには、それぞれ500ミリリットルのペットボトルが入っている。
自分が飲むために、持ってきたものではない。
「おい、今のうちにトイレ行っとけよ」
責任者が、レシーバーを耳から下ろして言った。
その言葉を待っていたかのように、弘司は珍しく、
「先に行ってきてください」
自分からおばさん2人に声をかけ、給水テーブルに1人残った。
責任者はレシーバーを耳に当て、ゆっくりと歩道を歩いている。ありがたいことに、背を向けていた。
おばさん2人も、背後にあるスーパーマーケットへ入るのを見届けた。
幸い、近くの沿道で応援する人はいない。
レースはスタートしたばかりで、ここまで選手がやって来るには、もう少し時間がかかる。
外でジッと待つほど、暖かい気温ではない。天気はよくても、冷たい風が体温を奪っていく。
弘司は、ポケットからペットボトルを取り出し、キャップを開けた。すでに水の入った紙コップに、透明な液体を足していく。
最初はわずかに手元が震え、液体がテーブルにこぼれた。
心の迷いは、失敗を呼ぶだけだと自分に言い聞かせ、軽く呼吸を整えると、あとは冷静に注いでいった。
ためらわず、2本目のペットボトルを握る。
念のため、眼球だけを左右に動かし、周囲を観察した。
すると、右手後方から、何となく視線を感じた。
ペットボトルを持つ手に力が入る。わざと振り返ってみた。
スーパーの駐車場と、歩道を仕切るアーチスタンドに、若い男が腰を下ろしている。やんわりと煙草を吸っていた。
(マラソンの応援か・・?)
うつむいてはいるけれど、明らかに、人の秘密を握ってほくそ笑んでいるような口元だった。
「チッ・・」
弘司はペットボトルをテーブルに置いた。
わざわざボランティアに入ったのは、給水所で細工をするためだ。
出場する父親に、スペシャルドリンクを渡して、応援するだけではない。
借金を返して、1日も早く楽になりたい。
ただ、それだけだ。
父親が連帯保証人となって背負った借金は、積もり積もって1000万円になる。
人生マラソンの賞金総額と同じだ。
連帯保証人は高校時代の友人に頼まれたそうだが、その友人とやらは、去年の12月に夜逃げして、未だに行方がわからない。
弘司は眼鏡を外し、目頭を揉みほぐした。
頭上で、スズメがチュンチュンと鳴く。
臨時の交通規制で、車の往来が少ないせいか、まるで早朝のような静けさだった。
そんなとき、急にスマホの着信音が鳴り響き、弘司はビクッと身を固くした。
反射的に、身構える癖がついている。電話と玄関チャイムが特にそうだ。
最近は、外でガサッと草木が揺れただけで、
取り立てに追われる毎日は、まるで、戦国時代を生きているかのようだ。
なにせ、身も心も、休まるときがない。
父親は急激に白髪が増え、目の下にどす黒いクマをこしらえている。
弘司は体重が10キロも落ちた。割り箸のような細さでは、父の代わりにマラソンを走る体力もない。
奴らは、羽を一本も残らずむしり取っていく。痛みを最小限に抑える優しさは
怯えれば怯えるほど、口角を引き上げフッと笑うのだ。
そして、つくづく思う。
(不幸な人間は、もっと不幸な人間を見たいのだ)
と・・。
「人生、騙すより、騙されるほうがいいやろ」
そんな寝ぼけたことを言う父親に、何度、
「騙されるほうが悪い!」
と、叫んだことか。
弘司は拳を握りしめた。
(優勝しなければ・・)
できれば、完走者は父親1人だけにしたい。そうすれば、1000万円がすべて手に入る。
カネのためなら、手段は選ばない。
堂々と不正をすれば、逆に怪しまれることはないだろう。そう思った弘司は、再びペットボトルの中身を、紙コップに注いでいく。
肩を叩かれたのは、一列分の6個が終わったときだった。
顔が強張った。
右から視界に入り込んできた男は、さっきまで煙草を吸っていた奴だ。
手に持っていた最新モデルのスマホを、革ジャンのポケットにしまい、代わりに封の切れた梅のチューインガムを、給水テーブルに置く。
相手はかすかに笑ったが、弘司は笑えなかった。
目の周りに、青いアザがあったからだ。
手が震えていることに気がつき、慌ててペットボトルをテーブルに置く。
おばさん2人が戻ってきたのは、その直後だった。
「どいね、車上荒らしってこと?」
相変わらず話に途切れはない。
「カップホルダーに置いてあった5000円が、なくなってんと」
「カギかけんからや」
「あと、梅のガムもないって・・」
「梅のガム? ふうん・・」
2人はスーパーを振り返った。
「あれっ・・? 警察に連絡せんのや」
駐車場を出ていく黒のヴィッツを、目で追っていく。
「5000円ぐらい、いいと思ったんかね?」
「でかいよ、5000円も・・」
そして、弘司に声をかけようとしたとき、テーブルにある梅ガムを見て、
「あっ・・!」
同時に声を上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます