第10話 有紀の不安

 そんな位置取りで、勝算はあるのだろうか。

 有紀はバックスタンドの片隅で、不安げに隼人を眺めた。


 招待選手は、スタートラインの先頭に並ぶのは当然としても、一般選手だって、気合が入っている者は、先を争ってまで、前の方に並ぼうとする。


 それなのに、隼人ときたら、一番後ろで十分なスペースを取り、ウォーミングアップをするでもなく、前に並ぶ選手を冷ややかな目で観察している。


「せいぜい気合を入れてがんばれ。俺は余裕で抜かしていくぜ」

と、言わんばかりに、両手を腰に当てている。


 かと思えば、メインスタンドを見渡しながら、格好をつけて髪をかき上げる。

「俺の走りを見ておけよ、奇跡の3499人抜きをしてやるぜ」


 そう心の中で、呟いているに違いない。口元に、不敵な笑みを浮かべていた。

 弟でなければ、嫌いなタイプの筆頭にくる。


 有紀は小さくため息をつきながら、額に手を当てた。

 自信のない謙虚なランナーのほうが、応援しようという気になる。


 解説者の言うように、隼人には余裕こそあるものの、その余裕は、人に負けないくらいの練習を積んできた自信から生まれたものではない。

 雨が降ればランニングはせず、かといって、屋内で筋力トレーニングをするわけでもない。カーボローディングもしていない。


 ごくごく普通の、にわかランナーだ。


 練習量という裏付けもなく、大口を叩けるほどの実力も兼ね備えていないのに、根拠のない自信を持つタイプだ。

 こういう男は実にやっかいで、しかも妙な自信過剰が、必ず裏目に出る。


 それで両親に、金銭的な迷惑をかけた。


 自分自身も痛い目に遭った。そのくせ、何も学習しない。


 『三つ子の魂百まで』とはよく言ったもので、どんなにひどく打たれても、根本的な性格は変わらないようだ。


 有紀はコンビニで買ったカレーパンを口にくわえ、双眼鏡を覗いた。


(何で・・)


 見たくもない人物に限って、一発で視界に飛び込んでくる。先頭から3メートルほどの位置に、疫病神が並んでいた。


 スタート地点で、すでに隼人と大差がついている。


 有紀は立ち上がって、身振り手振りで、もっと前に行けと、隼人に指示を出す。片手には、しっかりカレーパンを握っていた。


 ところが、隼人は一瞬こっちを向いたきり、完全無視を決め込んでいる。関わりたくないと、背中が拒絶している。

 外出先では、いつもそうだ。


 つれない態度についつい食が荒れ、カレーパンは、1分で口の中におさまった。ペットボトルの緑茶と一緒に胃へ流し込み、今度は豆パンをくわえる。


 ルイからラインが入ってきたのは、そのときだった。

 そこにはジャージの色と、双眼鏡のことを言い当てている。


「・・ん?」

 ルイも競技場にいるのだろうか。


 向かいのメインスタンドを肉眼で観察していると、ライトスタンドの大型モニターに、何やらオレンジ色の物体が映っていることに気がついた。


 デコポンのコマーシャルでも流しているのかと思ったら、鮮やかなオレンジは、ジャージの色だった。

 同じ格好の人がいると、安心したのもつかの間、そこには、豆パンを口にくわえた間抜け面の女がいる。


「あっ・・」

 短い声を発したとたん、豆パンがボトッと膝上に落ちた。


 中継は全国放送。


 前年の平均視聴率が、とうとう20パーセントを超えた。NHKの朝ドラをしのぐ人気番組が、今、お茶の間に流れている。


 とっさに顔を伏せたけれど、いかんせん遅過ぎた。

 会場は失笑の嵐。


 顔も耳も、急に熱くなった。

 これでもう、

(嫁に行けなくなる)

と、本気で思った。


 わずかに顔を上げ、周囲の様子をうかがうと、横断幕を持った女子高生たちが、振り返ってクスクスと笑い合う。


 侮蔑の眼が痛かった。


 有紀は豆パンをリュックに戻して、そそくさと席を立った。

 そこに居座るほど、神経は図太くない。できるだけ腰をかがめ、身を小さくして競技場を後にした。


 レースがスタートしたら、西部緑地公園の沿道で、隼人に声援を送ろう。そしてそのまま家に帰り、あったかい部屋で、豆からいたコーヒーを飲みながら、カウチポテトのテレビ観戦に切り替えよう、と決めた。


 選手がトラックから出ていく第1ゲート周辺は、すでに人垣ができている。

 そこはけて、『花と実の森』と名がついたエリアにある歩道から、コース沿道に出ようときびすを返した瞬間、大きな岩にぶつかった。


 優に2メートルは跳ね返され、その勢いに足の踏ん張りが効かず、仰向けに倒れた。


 幸いリュックがクッションとなって、体の衝撃は少なくて済んだものの、パァン、グシャとポテトチップスの袋が破れ、中身がつぶれる音がした。


「気ぃつけんかい!」


 いきなりどやされた。

 ドスの利いた声で、男が睨みつけてくる。


 岩のように行く手をふさいでいたのは、妙にテカテカした光沢を放つ、グレーのスーツを着たスキンヘッドの男だった。


 胸元には、キラリと金のネックレス。右手の中指には、重りにしかならないような、必要以上に太い指輪がはまっている。

 明らかに、その筋の人だった。


「人にぶつかったら、何て言うがや? ええっ!」


 岩男いわおとこが、倒れている有紀に顔を近づけてくる。すぐさま目をそらした。発情期の猿と同じで、目を合わせたら襲われるに違いない。


 体中の穴という穴から、汗が噴き出してきた。すいませんのひと言が、意思に反して出てこない。


「聞こえねぇのか?」


 口から吐き出されたにんにく臭が、鼻口びこうに流れてくる。思わずえずきそうになって、何とか唾を飲み込んで押さえた。


「おめぇ、豆パンの姉ちゃんじゃねぇか。ヘヘッ・・」


 ラッキーカラーであるはずのオレンジ色が、とんだ災難を呼ぶ。


「大丈夫っすか?」

 子分らしき若い男が、小走りにやって来る。


「おう・・」

 ガラの悪い男から逃れようと、有紀はつんいで地面を這う。すると、いきなり左腕を強く引っ張られた。


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