第8話 清水家の団欒
テレビの前で、母の悦子が豪快に笑った。
治療したばかりの奥歯の詰め物が、開いた口から鈍く光り、その背後にいた姉のルイは、目尻に涙を溜めて笑う。
「不幸のカタログやね」
人差し指で涙をぬぐった。
「ホント、ダメ人間の祭典じゃない? これって・・」
2人は言いたい放題だった。仁も腹の肉がヒクヒクと動き、心の中では、
(災難の見本市)
じゃないかと思った。
笑わないのは、我が家の飼い犬だけで、健康を考えた無添加のドッグフードを、忙しげに食べている。
薄茶色の柴犬で、飼い始めてから、もうすぐ3年が経つ。
名前はラッキーだ。
もちろん表向きは、家族に幸運が訪れますように、という願いを込めて付けたことになっている。
実際は、父の伸夫が吸っていた煙草の銘柄、ラッキーストライクから頂戴したものだ。
健康のために禁煙し、体力をつけるため、散歩のお供に犬を飼った。その犬が、煙草の名を襲名した。
「全国放送で恥さらして、逆にスゴイと思うわ」
食卓に3人分の食事が並んだ。朝から行方不明の伸夫の分は、
悦子は、
「よっこらしょ」
座るときの
「見とる分にはおもしろいわ。ほら、他人の不幸は蜜の味って言うが?」
「子供の前で言うか? 普通」
仁はプチトマトを指で摘まんで、口に放り込んだ。
「でも現に、10回も続いとるげんろ? きっと視聴率いいがや。みんな、下には下がおる、そう思って安心するげん」
それもそうだ。
学校の成績にしても、超低空飛行をしている仁の下に、まだ地面スレスレで飛んでいる奴がいるからこそ、安心して怠けることができる。
下と比べては、上昇もしないけれど・・。
「そんなにおもろいんなら、あとで応援すっか」
仁が箸立てから、黒塗の箸を抜き出す。
「ご飯すんだら勉強。それからギターは禁止」
「ええっ・・!」
「あんたのギターはうるさいだけ。受験生の間、おばあちゃんちに疎開させるから・・」
「はぁ・・? バンドの練習できんが」
「できんでいいが!」
ムッとした仁が、
「更年期障害」
と、言い放つと、
横に座っていたルイが、一旦つかんだ箸を、バンと音を立てて下ろし、リモコンでテレビの音量を上げた。
無言の圧力ほど、恐ろしいものはない。
仁は猫背になって、静かに食べ始めた。
あとはテレビが相手をしてくれる。
新たに残念な選手が画面に登場すると、2人に笑みがこぼれ、ほのぼのとしたランチタイムが続く。
どうやら人生マラソンは、どんな韓国ドラマより、2人を釘づけにするようだ。
「あんたも出ればよかったじ」
急にルイが毒を吐き、仁の顔を、穴が開くほどジッと見つめる。
「大体、青春のシンボルっていったって、限度っちゅうもんがあるやろ」
人の気持ちはお構いなしの言い草だ。
「そんなニキビぐらいで、このマラソンに出れるか? さっきの人、三重苦やってんぞ」
悦子がチラリとテレビを見る。
「ニキビぐらいって言うけどな、これは、父ちゃんの
ブツブツが顔面で暴れさえしなければ、人生マラソンなんかより、ジャニーズ事務所の書類選考に、余裕で通るはずだ。
クラスの女子だって、
「肌さえきれいならね」
と、熱い視線を投げかけ、教室の片隅で噂するくらいだ。
「あたしの方が深刻やわ。だってもう4日も出んげん」
どこから出してきたものか、手鏡で額をチェックする。
吹き出物は、便秘のせいだと言わんばかりだったが、そういう自己申告はいらない。
しばらく黙って食事をとっていると、ルイの箸が止まっているのに気がついた。
何が映っているのかと思いきや、何てことはない、ガラガラのバックスタンドだ。
「実際レースに出ても、母さん困るし・・」
うっかり、
「何で・・?」
気安く聞いたら、
「勉強のほうが大事やろ」
墓穴を掘った。
そして、しばし説教が始まった。
内容はもうわかっている。高校3年の受験生ともなれば、小言を言われるのは1つしかない。
勉強しろ、いい大学へ行け、ニキビより成績を気にしろときて、ヘヴィ・メタルなんておかしな音楽に引っかかり、ギターに
ここで1を返せば、10は返ってくる。ルイだと100は返ってくる。
「ほんでも・・」
仁が口を開きかけたら、
「子供は、お金の心配しんくていいが」
口調がガラリと変わった。
その顔に、それ以上は言うなと書いてある。
家庭教師をつけることも、塾へ通わせることもできないけれど、大学には行ってほしい。男だから余計、人並みに学歴をつけさせたいのだろう。
去年の11月に、父親があんなことにさえならなければ、当然のように目指していた。
心配するなと言われても、母親が、2つもバイトを掛け持ちする姿を見たら、考えも変わる。
パンダのようにコロコロしていた体型が、わずか3ヶ月で、レッサーパンダになったのだから・・。
そんな苦労をさせてまで、行きたい大学はない。
「あっ・・!」
ルイが突然、椅子から立ち上がった。
あまりの大声に、仁は箸でつまんだ鶏の唐揚げを、ポトリと落とした。犬のラッキーも、ビクッと顔を上げた。
ルイがすぐさまテレビの前に駆け寄る。
そこには、寂しいスタンド席が映っているだけだった。しかしその隅に、ちょうど双眼鏡を下ろす女が見える。
「ああっ・・! やっぱり・・、やっぱり有紀!」
ルイの高校の同級生だ。
月に2、3回は食事をしたり、買い物をしたりして、つるんでいる。
この家にも何度か来ていて、仁も1度、挨拶を交わしたことがある。正直、顔ははっきり覚えていない。
「何でそんなとこにおるん?」
悦子が、首を回してテレビを見たときにはもう、
「あきらめないで!」
と訴える、医療保険のコマーシャルに変わっていた。
「そういえば、弟がマラソンに出るって言っとったけど、まさかこれなん?」
「弟って、大学生の・・?」
「いや、卒業したんじゃないかなぁ。就職活動しとること、去年聞いたし・・」
「あら、じゃあどこに就職したん?」
こういうとき、悦子の目が好奇心で輝き出す。
「さぁ~」
ルイが首をひねると、早速、ポケットからスマホを取り出す。
「ちょっと、わざわざ会社名、聞かんくてもいいから・・」
「そんなんじゃないって・・」
食事を中断し、せっせと指を動かす。
「応援に行くが?」
悦子が聞くと、ルイはスマホをまたポケットにしまい、
「寒いし」
とだけ答えて、やんわりとご飯を食べ始めた。
思えば、このときはまだ、平穏無事なお昼時だった。
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