第4話 有紀の応援

「・・え?」


 村越有紀は、一旦双眼鏡を下ろした。

 親指と、さかむけのある人差し指で、目頭を揉みほぐしてみる。いた気持ちいい感覚を味わいながら、これは幻覚だろうかと思った。


 疲れはない。


 弟を応援するために、前日からたっぷり10時間は眠った。体調は弟以上に万全で、5キロぐらいなら、代わりに走ってもいいくらいだ。


 ネットで購入した一番安い双眼鏡を、再び構えた。

 覗いたまま、わずかに右へレンズを動かす。すると、スタートラインに集まる選手の前方に、頬のこけた、血色の悪い中年男が、やっぱり視界に入ってきた。


 文明開化の音がしそうな、散切り頭だ。


 その瞬間、有紀はブルッと身震いした。

 すぐに双眼鏡を膝に置く。1万円以上の高級品なら、目の下のクマまで、バッチリ確認できたかもしれない。


(人の休日にまで、出てくるとは・・)


 今日のうお座の運勢は98点。

 双眼鏡はラッキーアイテムと書いてあったのに、それで真っ先に課長を目撃するとは・・。


「幸先が悪過ぎる」


 3日前の、記憶も生々しい身の危険。一歩間違えば、自分の人生が終わっていたかもしれないという恐怖。

 同じ空気を吸うだけで、弟も、とばっちりを受けるのではないか。不安がよぎった。


 バックスタンドの最前列で、

『急募! 脂身あぶらみ先生に花嫁を。短期もOK』

と、書かれた横断幕が揺れていた。


 お節介な生徒たちが、先生の顔写真を貼った団扇うちわを、せっせと振る。アイドルみたいに、スパンコールまで飾り付けていた。


 その顔写真を、有紀は双眼鏡でチェックする。そしてすぐに、まずいエサに飛びついた自分を恥じた。


 気持ちを切り替え、トラックの選手を観察する。


 軽く跳躍する者。膝を曲げて屈伸運動を繰り返す者。みなウォーミングアップで、体を温めていた。


 チョッパーの被り物を微調整する、ワンピース好きの選手もいる。

 わずかなスペース・時間でも、戦闘準備に余念がない。


 それなのに、ようやく見つけた弟は、黒いアームウォーマーをした両腕を、偉そうに組んでいる。そして時折、寒そうに二の腕をさするだけだった。


 胸に付けた1081番のゼッケンが、バブル崩壊前の日本経済みたいに、右肩上がりになっている。

 有紀は急いで、バックスタンドへ移動した。


隼人はやと

 最前列で、遠慮がちに声をかける。


 聞こえないのか、腕時計のボタンを操作し始めた。デザインで選んだSUUNTOスントだ。


 有紀は横断幕を持った高校生の後ろを通り、できるだけ弟との距離を縮めた。

 名前を2回叫ぶと、5人ぐらいが一斉に振り向く。

 そのうちの1人は、眉も鼻も太いつくりで、くっきりした二重瞼ふたえまぶたの暑苦しい顔だ。


 弟と目が合って、有紀が手招きすると、迷惑だと言わんばかりに、顔を背ける。

それでもしつこく名前を呼ぶと、村越隼人はチッと舌打ちしたような表情を見せ、スタンド際までやって来ると、


「何でパジャマで来るげん」

と言い放った。


「えっ、どこがパジャマ?」


「デブのジャージはパジャマって、相場が決まっとる」

「・・」


「それより・・、また占い見たやろ」

「今日のラッキーカラーは、オレンジ」


 全身をオレンジ色で固めるのは、正直、勇気がいる。バンジージャンプに挑戦するくらいだ。

 いくら好きな色でも、さすがに上下だと、


「目立つかな?」

「誰も見んて・・」

 すげないひと言が返ってきた。


 そして隼人は、チラリと姉の太ももを見る。

「魚肉ソーセージやな」


 身内は遠慮がない。

 長年蓄積されたセルライトが、昨日今日のダイエットでとれるわけがない。寝る前のポテチが、無上の楽しみであるうちは、ポッチャリ体型から抜け出せないのだ。


「隼人のラッキーカラーは、青ねんけど・・」


 上が黄色、下が黒のウエアで、青がどこにもないのが気になった。


「占いで、人生がどうにかなるとは思えん」


 隼人が足踏みを始めた。

 そんなことはわかっている。

 気休めでも、すがりたいと思うのが、女というものだ。


 仕事は日々の業務をこなすだけ。結婚を共に夢見る彼氏はいない。人生を豊かにする趣味もない。ついでに薄給で、お金もないときた。


 今のところ、食べる以外に楽しみがない。

 視界ゼロの霧の中を、何の目的もなくさまよっているのだ。


 占いは差し詰めヘッドライトの役割だ。スマホでチェックすることは、歯磨きと同じ朝の儀式となっている。

 そのうち、道を示すヒントぐらいは出してくれる。


「姉ちゃんは、何事も受身やから」

「慎重なの!」

「ま、物は言いよう」

 相変わらずの減らず口だ。


「とりあえず、迷惑かけた分は、何とかすっから・・」

(ウォーミングアップもしてないくせに・・)


 そんな心の呟きを察したのだろう。


「このメンツを見ろよ。みんな不幸な顔つきしとるやろ? 体もブヨブヨ。入賞なんて軽い軽い。楽勝やな」


 そのビッグマウスに、家族はいつも振り回される。大体、その不幸なメンツの中に、


(隼人もいるではないか)


 有紀が呆れ顔で弟を見下ろす。隼人は新品の腕時計に目を落とし、そそくさと戻ろうとする。


「あっ、ちょっと待った!」

 声を張り上げた。


「968番には、絶対近づいたらダメよ」

「968・・?」

 隼人がトラックを振り返ろうとする。


「あっ、見たらダメ! 吸い込まれる」

「はぁ~?」


「不幸のブラックホールやから」

「・・」

「3日前に、あたしが吸い込まれた」

「ああ、例の疫病神課長。出とるん?」


 有紀が頷くと、隼人はふうんと言い残し、寒そうに両肩を上げて、スタートラインに戻っていった。

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