第2話 清水家の午後

 大きく開けた口は、水面でエサに飛びつくこいのようだった。


 血色のいい唇の端から、乾いたよだれの白い筋が見える。

 その口から、ムニムニと意味不明の言葉を発し、清水じんはジャージの上から脇腹をかいた。


 バタバタと天井から騒音が聞こえ、毛布を頭まで引き上げる。

 窓に背を向け、寝返りを打つと、パイプベッドがギシッと悲鳴を上げた。

 ネズミの大群が天井を駆け抜けるような音がして、仁は毛布の端を握りしめ、むくっと上半身を起こす。薄眼を開け、片耳をわずかに上へ向けた。


「なんや、ヘリか・・」


 寝癖のついた髪を指でかきまぜ、豪快に欠伸あくびをする。Tゾーンに脂が浮いていた。


「・・ったく日曜に・・」


 布団の温もりに戻ろうとしたら、耳元でシュッと霧吹きの音がする。反射的によけたら、左肩を壁にぶつけた。

 今度は、鼻の頭に直接水がきかかる。仁は咳き込んだ。


「姉ちゃん・・」


 病人のような気だるい声が出た。


「だって、あんたの部屋臭いもん」


 除菌と消臭のスプレーを持った清水ルイが、鼻をつまんで天井に向けて一発、壁に吊るした黒の革ジャンには、二発も至近距離で噴射した。


「大丈夫、香りは残らんから・・」


 そういう問題でもないだろう。

 仁は慌てて毛布を払い、革ジャンの隣に貼ってあるディープパープルのポスターを確認する。濡れずに済んだことより、姉のジコチューぶりにため息が出た。


 もちろん、今に始まったことではない。


 物心がついた頃から、何となく、

(姉ちゃんのおもちゃになっている・・)

 ような気が、しないでもなかった。

 最近は確実に、ストレス発散のサンドバッグになっている。


「ちょっと、聞いとんが?」

「聞いとるて・・。父ちゃんがどこ行ったかなんて、俺が知るわけないやろ」

「家出かな?」

「朝からおらんくらいで・・」


 仁はベッドの上で胡坐あぐらをかいた。

 ヘリの音といい、消臭スプレーといい、今日はやたらと目覚めが悪い。


「だって、昨日お父さんとケンカしたし・・」

「じゃあ、父ちゃんと姉ちゃんがケンカして、父ちゃんのほうが、この家出てったってこと?」


 カーテンを開けながら、ルイがゆっくりと頷いた。


「お母さんが加勢した」

 それなら、

「ありえるな」


 男が口で、女に勝てるわけがない。

 勝てるとすれば、弁護士ぐらいのものだろう。


「ま、家出はいいとして・・」

「いいわけねぇだろ」


 仁は聞こえないように呟いた。


「気になるげん。ヘリコプター」

「・・?」

「だって、おかしくない? さっきからこの辺り、何度も往復しとるげんよ。お父さん、朝からおらんやろ? もしかして、死体の捜索かな? この間の事件のときもそうやった」

「はぁ・・?」


 さすがに寝起きの頭でも、妙なことを言い出したことはわかる。

 父親がいなくなったことと、死体の捜索がどうして結びつくのか。仁は頭をひねった。


「あんた、それぐらいわからん? 金沢で2番目にいい高校行っとるげんろ?」

 ルイはフッと笑ってバカにする。

 ならば、ちゃんと説明するかと思いきや、最後にひとき、寝癖の髪にスプレーすると、あっさり部屋を出ていった。


 勢いよく階段を下りていく。

 そのスリッパの音を聞きながら、仁は全身が脱力した。


 確かに1ヶ月前、殺人事件は起きた。


 被害者と思われる男が行方不明となり、ルイの職場近くの空き地で、その男の車が見つかった。それからというもの、捜索のために、ヘリコプターが職場の領空を何度も侵犯したという。


 仁は、着替えを済ませて階段を下りた。

 ドクロがらのTシャツは、ネットで買ったアイアン・メイデン。ルイにスプレーされた革ジャンをはおり、以前、母親にだらしないと叱られた、膝の破れたジーパンをはいた。


 その母・清水悦子えつこは無言のまま、持っていたおたまで、壁の時計を指す。


 まだ10時ぐらいだと思っていたら、すでに昼の12時を過ぎていた。

 どおりで、南向きの部屋は、ポカポカしているはずだ。

 こぶしがすっぽりはまりそうなほどの欠伸あくびをする。横から悦子の鋭い視線を感じ、慌てて、


「ああ、英語がんばった」


 いかにも明け方まで、勉強していたフリをする。

 蛇口をひねってコップに水を注ぎ、喉を鳴らして一気に飲んだ。


「まさか、自殺してないよね?」


 ルイの言葉に、思わずむせた。


「だって気になるがいね。ヘリって、行方不明になった人の捜索に使われるがやろ?」


 それだけじゃねぇ、と喉まで出掛かった言葉を、グッと呑み込み、


「捜索願い、出したんか?」


 やんわりと聞く。すると、


「まさか・・!」


 悦子とルイが声をそろえる。

 仁は呆れたように目をつむった。


「実家に避難しとるよね?」

「電話かけてみた?」

「だって、先にお父さん出たら、気まずいし・・。ねぇ、このヘリ関係ないよね?」


 よほど気になるのか、ルイはやたらと上ばかりを見る。


「マラソンの中継じゃねぇかなぁ」


 仁が居間のソファーに、ドカッと腰かけた。

 居間は台所の隣にあって、L字型の白いソファーが置いてある。部屋の半分以上をソファーが占めるという、バランスの悪さだった。


「マラソン?」

「ああ、そういえば、そこの道路に、交通規制の看板立ててあったわ。新聞のテレビ欄にもあったやろ?」


 思い出したように悦子が言う。

 ルイは北陸新聞を即座に開いた。


「第10回金沢人生マラソン? これの中継?」

「だって、競技場はすぐそこやし・・」

「ちょっと、テレビつけて」


 目の前にリモコンがありながら、ルイは仁に命令する。

 仁は小さく舌打ちした。

 テレビの電源を入れると、またしても、ヘリコプターの音が聞こえてくる。

 天井を睨んだが、その音は、わずか2メートル先の画面から流れたものだった。


「ご飯にするよ」


 悦子に呼ばれて食卓につく。

 この瞬間から、清水家の長過ぎる午後が、マラソンと一緒にスタートした。

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