第5話好意
1
部長室に僕はいる。しっくりとした内装は、僕がいる部署からは想像もできないくらい重々しい。それでいて、威厳がある。威厳があるから、重々しいのだろうか。
目線を気づかれずに動かす。僕の前には重厚なデスクの黒塗りされた椅子に座る部長がいて少し離れた横側に、僕の所属している一番偉い人、つまり課長が立っている。そして見ることはできないが、僕の横には吉村さんが並んで立つ。
「君達に社内プレゼンテーションを託す。頼んだぞ」
部長の低い声にとてつもない威圧感を、僕は感じている。喉が渇き指先が震える。少し軽い貧血を起こしたのだろうか? 景色が少し回っているような錯覚に陥りかけている。それを必死に僕は堪えていた。
「チャンスをだけるんですか?」
吉村さんがハッキリと言った。彼女は物怖じしないのだろうか? そうだ、彼女はない。なぜなら部長に直談判をしていたことがある。僕のように弱腰ではない。精神が強い。
「その通りだ、二人共、期待している。課長、二人をしっかり指導してくれるな」
部長が課長を見る。
「はい、わかりました。プレゼンテーションを成功に導いるように最善を尽くします」
課長の声が、上擦っている。どうやら僕より緊急をしている。なんかとても滑稽でおもしろく、少しだけ余裕が生まれた。だけど部長の顔が少し恐ろしい。僕に吉村さんに向けてくれた表情とは、違っていた。気に入らないと、見てわかる一瞬を目に刻んだ。
「さて、そろそろ作業に取りかかりなさい。社内プレゼンテーションも大切だが、普段の仕事も大切だ。貴重な時間を私に裂いてしまって申し訳ない。さっ、仕事に戻りなさい」
部長が退室を言う。僕は、いや僕と課長はどこか胸をなで下ろす。吉村さんはしっかりと一礼していた。
2
僕と吉村さんが、課長のデスクの前に立っている。部長室から解放された僕らは、今度は違う意味での拘束をされていた。
「頑張ってくれよ! 部署のために、そして何より自分のためにな!」
課長が苦笑している。ようやく部長の呪縛から解放され、いつもの上目使いになっている。いつもの課長の姿に、少し安心感と大いなる不快感が僕を襲う。ようやく部長の呪縛から解放されたのに、なんかついてない。
「少し教えて下さい」
吉村さんが課長に、発言をする。厳しい口調は相変わらずだけど、ここは彼女の行動に身を任す。
「どうして私がなんですか? 確かに彼には権利がありますけど」
吉村さんが言った。おいおい、僕だって社内プレゼンテーションは時期尚早だって。
少し社内プレゼンテーションについて説明しておく。これは毎年一回、年度末に行われる一大イベントだ。別名を昇進品評会と揶揄される。つまり各部署の出世候補が集まり、自分の在籍している部署の今年の貢献度を発言して争う。最優秀部署に選ばれたら、必ず出世ができる。別に選ばれなくても、出世はできるけど、社内プレゼンテーションは出世の近道だ。
つまりは選ばれて、損はない。だけどさっきも述べたが、僕には時期尚早だ。まだまだ青二才なのに。
「簡単に言うぞ、まずお前は、私の推薦だ。吉村さんは部長からの推薦だ。以上! 社内プレゼンテーションまで時間がある。それまで二人して、協力しあって最優秀賞を取れ!」
課長が吐き出すように言うと、デスクに戻れと合図をする。態度は相変わらず良くない。僕と吉村さんは、無言でデスクに戻る。
デスクに戻ると、周りのみんなから笑われていた。がんばれよと、無言の励ましと僕は捉えておこう。吉村さんは何か言いたげだったけど、そのまま椅子に座り仕事を始めた。
僕も仕事だ。まずメールを開いた。なかなかの量がある。これは残業が必死だ。ヤレヤレついてないな。
3
日の入りを迎える。冬は太陽がすぐ沈む。僕は残業に突入していて、終わりまで後少しの所に来ている。何だか中途半端な時間に上がりそうだ。これならガッツリやりたいと思う。残業手当が少ないからだ。僕らみたいな下っ端には、今でも残業手当がありありがたい。
「終わりそうなの?」
吉村さんが言う。実は今回は僕と吉村さんが、残業になった。いつもはかなりの人間がいるのだけど、今日に限り二人である。時期的に忙しいのに何故か今日は二人きり。
「本当ね。何もしないでね」
笑いながら吉村さんが言った。僕はナイナイと首を振る。彼女の笑いに、目だけが厳しかった。つまりは警戒心がある。
「お先にどうぞ」
吉村さんがパソコンに目線を向ける。手伝おうか? そう言うと彼女が首を振る。僕が彼女にすることはなさそうだ。僕は自分の仕事を早く終わらせよう。
仕事が片づくと、僕は帰る用意をする。吉村さんはまだ続けていた。先に出て行こう。お疲れ様と声をかける。すると彼女が顔を上げた。
「あっ、少しプレゼンの話しない? 私も後少しだから」
いきなり言った。「お先にどうぞ」と言いながら、「プレゼン」の話とは少し矛盾しているような気もする。だけど僕は別に構わないと頷いた。いずれはこのことを、二人で話さないといけない。それが今日のこの時間だけのことだ。
僕は一度職場を出て自販機に向かう。吉村さんから「お構いなく」と声が聞こえた。お構いなんてない、ただ彼女を労いたいだけだ。
4
自販機に向かう。温かい飲み物と冷たい飲み物があり、僕は迷わず温かいお茶を二本買った。理由はないが、無難な所と言う考えが頭をよぎったから。あっ! 無難な所が、理由かも知れない。
商品ケースにはお茶、コーヒー、炭酸飲料があり、それをプラスチックの透明な容器で囲ってある。よく見かける自販機で、何の変わりもない。
それに僕の顔が写っている。相変わらずの冴えない……え? いきなり写ってた顔の目が瞑っている。まさか!
「おい、バカ!」
いきなり『俺』が叫んだ。鬼のような顔で、どこかイライラしていた。なんだ一体?
「お前な、麻衣子ちゃんの気持ちを考えてやれ! なんで矛盾しているようなことになったかわからないのか!」
まくし立てるように、『俺』が叫ぶ。僕は正直わからない。眉をひそめていた。
「……はあ、こんなんだから……いいか? 麻衣子ちゃんはお前を意識している。もっと言えば好意を持っているんだ。彼女が『お先にどうぞ』と言ったのは出方をうかがったんだぜ。だから帰ることよりも、こちらから話を切り出せば良かったんだ!」
『俺』がまくし立てる。え? 僕は少し驚いた。あの矛盾の意味はこれだったのか?
「まあいい、今から麻衣子ちゃんと、たっぷり話込めよ。彼女が望んでいるから」
そう言うと『俺』は消えた。僕は一人自販機に写る自分を見ていた。
5
職場に戻ると吉村さんのパソコンが、シャットダウンしている。彼女はデスクに居て僕を待っていたようだ。
「少し遅かったですよ。タイムカードは処理して、退勤になりました。さてここで少しだけ話をしませんか?」
吉村さんが笑う。素晴らく愛くるしい。こんな姿は普段は見ることができない。今、僕が見ている彼女は、いつもの気が苛立ち張り詰めた感覚がまるでなかった。
「この部署は疲れるの。特にあの課長なんて、最低な人間よ。よく今のポストにつけたのか不思議でならないわ」
ため息をつく。吉村さんの愚痴は初めて聞いた。正直、僕は驚いている。
「キミは不思議な存在だね。なんだか私とは違う何かを持っている。それがなんだか羨ましい」
吉村さんは言った。僕はペットボトルのお茶を置いた。僕がどうぞと言うと、彼女は「ありがとう」と笑いながら蓋を開けた。僕もペットボトルを開けて、一口飲む。とても苦く渋い。
「変な顔ですよ。ひょっとして、渋かった?」
吉村さんがからかうように言った。僕はそうですと、頭を下げて笑った。すると彼女もつられて笑う。
しばらく僕は吉村さんと、話をすることにした。プレゼンの話はそっちのけで、二人のたわいもない職場の会話だった。お喋りしながら、『好意がある』と言い切った『俺』の言葉を思い出す。彼女は本当に、僕に好意があるのだろうか? 一つ言えるのは二人の会話は楽しかった。お互いに確かめているのかも知れない。だけどそれもなせだか、楽しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます