聖夜のマッチ売り少女

佐島 紡

聖夜のマッチ売り少女

 それはひどく寒い日のことだった。

 一年に一度しかない聖夜――つまりクリスマスの夜ぐらいは家でゆっくりしようと朝早くから仕事に向かったり、夜の家族団らんの準備をするために食べ物を予約でもして来ようと洋風の街路を闊歩するもの多数。

 そんな朝から慌ただしい日に、一人の少女は声にもならないほどに震えた声で「マッチを買ってくれませんか......」と道行く人たちに声をかけていた。

 少女の姿はひどくみすぼらしかった。今は冬だというのに着つけているディアンドルは夏用で、しかもそのディアンドルでさえ、ぼろ雑巾と表したほうがいぐらいに使い古され、薄汚れて、つぎはぎだらけで見るに堪えない物だった。申し訳程度に巻かれた赤色のストールだけが、彼女の雪の中へ消えてしまいそうな存在感を僅かに強調していた。

 ただ、それでもなお彼女の存在は人々に認知されるものではなく、声をかけてもまるで聞こえていないのかのごとく無視という対応で軽くあしらわれていた。

「お願いします。一箱だけでいいんです」

 手がかじかむ。少女の腕にはもう力は入らず、震えた手で買ってくれないかと懇願する。ただ、世の中は少女に対してひどく冷たいものだった。

 誰一人彼女に対して目を向けず、それどころか続けざまにぶつかって行くのだ。体に力が入らない彼女は、そのままマッチ棒の箱を落とす。

「あ......あ」

 落ちるマッチ棒。雪の中に広がる赤い斑点。少女はかき集める。しかし、雪の中に落ちて濡れたマッチ棒はもう使い物にはならない。簡易な紙箱でできたマッチ棒のケースは、盛大に黄燐マッチをぶちまけていた。

 ――ほとんど使えない。

 落胆しかけたが、それでも使えるものはないかと、かき集めたマッチ棒とその箱から探す。

 よかった。

 少女は唯一、一本もケースから中身が飛び出していないマッチ箱をみつけ、手に取った。

 手の中に残った四本に一ダース、つまり十三本。足して十七本のマッチ棒を見つけたことになる。

 一箱だけでも残っていてよかった。売っても大して金はもらえないだろうが、それでも無いよりかはましだった。このマッチ箱は心の支えにもなっていたのだ。

 だが、その間も人々の流れは止まらなかった。雪の上に膝をつき、必死でマッチ棒を拾っている彼女に手を差し伸べるものは一人もいない。ただでさえいつも人通りの多い道だ。さらに今日は聖夜で混んでいる。

 道の真ん中、雪の上でうずくまっている彼女はただの邪魔でしかなかった。

 速度を落とすことすらしない男や女は少女を容赦なく蹴り上げていった。

「あっ......が」

 蹴られ、転がり、雪が服についていき、凍える体を更に蝕んでいく。ストールは首からほどけ、雪の絨毯の上に小さなレッドカーペットのように敷かれる。

「さ......む、い」

 もはや声にならない言葉を誰に宛てるともなく延々と、何回もつぶやき少女はストールに手を伸ばす。

 せめて首に巻いて少しでも温かくしたい。

 だが、それすらも叶わなかった。

 少女の伸ばした腕をちょうど道を歩いてきた見知らぬ男が踏みつけたのだ。腕の関節は靴底による圧力でひしゃげ、あらぬ方向に曲がっていた。

 そればかりか、男はストールすらも自分は貴族だとでもいう風に我が物顔で踏み荒していった。しかも意地の悪いことに少女の表情すら見ようとしなかった。

 少女の顔は絶望に染まる。

 自分の腕が折れたこと?そんなのどうでもいい。問題なのは、ストールを踏んでいったことだ。

 それは父が優しかったとき、クリスマスプレゼントとして貰ったものだったのだ。

 しかし、そのプレゼントは今や泥と雪で汚れ、ところどころびりびりと破れている。

 少女は怒りたかった。ストールを踏み、ぐちゃぐちゃにしていった男に奇声でも何でも上げてとびかかり、暴力は振るわれるかもしれないけど、代わりに目でも抉り出してやろうと心の底から思ったぐらい怒りたかった。

 だが、出来なかった。

 心ではどんなに思っていても体は恐怖と凍える寒さで全然動いてくれなかったのだ。そう、それはもうピクリとも動かなかったのだ。

 そんな自分を少女は呪う。せめてもの恨みに少女は人の中に消えていく男をキッと睨め付けた。

 あの男に幸せな聖夜が訪れませんように。

 男は雪と人ごみの中に混ざっていって、だんだんと白くなり、見えなくなってしまった。


 男が行った後、少女の体にはどっと反動が来ていた。

 疲れと、恐怖と、痛みと寒さ。

 そのすべてが、彼女の体を蝕んでいく。

 何枚も厚着している屈強な若者ですら凍える寒さの日である。裸同然にも等しい薄着一枚の彼女はいつ死んでもおかしくはない。

「なにか......体を温めないと......死んじゃう」

 ひとまず道から外れてこの人の流れからでないと。

 今にも逆流しそうな吐き気を抑えながら、体中に感じる痛みを必死にこらえながら、フラフラと夢遊病者のように彼女は日に当たらない路地へと逃げ込んでいった。

 もちろん、そんな彼女の姿に目を向けるものは一人としていなかった。ただただ人々たちのやや急ぎ気味の規則性も何もない足音だけが、朝の静まり返った町中に響いていた。


 ■


「はあ......はあ......」

 薄暗い路地裏に入った。人通りは全くない。まあ人一人が体を横にしてようやく通れる程の隙間なので

 当たり前といったら当たり前なのだが。

 屋根が雪を防いでくれているおかげで、少しは気温も温かいものだと思っていたが実際あまり変わらないらしい。それでも家の隙間からわずかに漏れ出した蒸気や、温かい空気は彼女の生気を取り戻した。

「あったかい......」

 ひと時の至福に浸る。ささやかだが今の彼女にとって、温かいものはそれだけで凍えて動かなくなった指先を温め、もう働くのをやめてほとんど動いていないものと思っていた心臓を正常に機能させ、熱と血液を体に送り届けてまだ生きているということを少女に実感させる。

「よかった......生きてて」

 少女の口から思わず安どの息が洩れる。顔には薄く赤みが戻り、その影響か自然と笑みが浮かぶ。

 その時の少女の表情は誰が見ても幸せそうだ、というだろう。中には裕福の家庭に生まれたものの顔だと、見下すものもいるだろう。が、その者たちも口だけで、心の中ではその表情がどんなに苦しい思いをした末やっと見つけた幸せで浮かべるものかということに気が付いているはずだ。

 それぐらい彼女の顔は傷つきながらも幸せに満ちていた。


「むう......」

 しばらく時間が立った。雪は朝ほどの勢いはなくなり、日も登ったおかげか少しは温かくなった。

 大通りを歩き回る人もめっきり少なくなり、路地から出て辺りを見回すも家の屋根で雪かきをしている男性ぐらいしかいない。仕事をしようにも出来ない少女もひとまずは休憩に入った。

 そんな中、問題が反応した。

 それは、人としては必ず行わなくてはいけない――いわば生きる為に必要不可欠なこと。

「お腹......すいたなあ......」

 そう、食事である。

 少女の腹が、グウという音を奏で空腹を訴えた。

 移動すらも空腹を刺激する。二日間何も食べていないかつ今日の朝は相当寒く、少女の体力を相当奪っていたのだ。耐えられない。全然耐えられない。

 お腹がすいた。

 朝は寒さのおかげでその対応ばかりしか頭になく、食欲なんてよぎりすらしなかったが、今は違う。とにかく腹を満たすものが欲しい。

 雑草でも、カビの生えたパンひとかけらでも何でもいい。腹が満たせれば何でもいい。

 少女は顔を上げる。いっそのことだるそうに屋根の上で雪かきをしている丸々太った男性でも殺して、そのつもりに積もった油だらけの肉をかぶりついてみようか。きっとおいしいんだろうなあ。

 うふふと声を漏らし彼女はそういう妄想の世界に突入する。

 少女の頭は少しずつ狂ってきていた。まともな思考回路はもう凍死してしまったのかもしれない。

「そしてぇお腹の肉をひとかけらも残さず食べ上げて、次は右腕......あ、しまった。生肉は温めないとお腹を壊しちゃうんだった。私の体温で足りるかなあ......」

 否。既に彼女の思考回路はもうねじきれていた。まともな考えすらできなくなっており、自分の欲のためのことしか考えられない幼児退行にも似たような現象を引き起こしているのだ。

「よーしじゃあすぐさま行動に移そう」

 男の口の中にマッチでも詰め込んで息を止めて、意識が失ったら食べ始めよう。久しぶりの肉だ。ああ、考えるだけでよだれが出てくる。骨付きの肉は盛大にかぶりついて、筋肉は繊維を一本一本を大事にしながら、しっかりよく噛んで食べてやろう。そうしてあますところなくきれいに完食してあげるのだ。貧しい生活をしていたから食べ物の大切さは身をもって経験している。

 よし。

 少女は気が付かない。いつ自分の腕が折れ、使い物にならなくなっているということを。少女の体はボロボロで痛々しく、いつ死んでもおかしくない状態にあることを。


 ■


「ったく、なんで俺がこんな働かなくちゃいけないんだよ」

 しんしんとと絶えず降る雪。極寒の寒さが、着込んだ服すらもすり抜けて肌を刺す。デザインばかりを重視して耐寒などには目もくれていないシロモノなので仕方がないのだが、それにしても、この寒さはどうにかならないものなのだろうか。

「ああくそっ。もうやってられるか」

 そうぶつぶつと、どうにもならない嫌味をつぶやいて雪かきの作業を中断する。この地域では雪が積もり、その重さで家が崩れることがよくあるのだ。雪は幻想的でとても綺麗だ、とたまにほざいている輩がいるがそういう奴にこそ雪かきをやらせ、雪が奪っていく大切な時間と自分の体温と移動方法を失う辛さを骨の髄まで身に沁みさせてやりたい。

 男は遠目から見ても太っているに分類される容姿だった。またその男が身に着けている服も遠目から見ても一瞬でわかるぐらいの裕福な家庭に住んでいる者が身に着けるような服だった。

 そう、男は元々貴族の血筋の者だった。

 この極寒の町一番の裕福な家庭だったといっても過言ではないだろう。父がある事業で大成功して、一気に平凡な家庭から成りあがったいかにもというほどの成金家庭。

 当時やっと物心がついてきた男である。言えば何でも与えられる生活で、横暴に気楽に育ってきた。

 望めば社会は何でも自分に物を与えてくれる。食べ物も女もいろいろな玩具もすべて与えてくれる。それゆえ男は勘違いしていたのだ。だからこそ気づかなかったのだ。この時間がいつまでも続くものではないということを。

 調子に乗った男の家庭は、色々な事業に手を伸ばした。専門外のことにまでとにかく手を伸ばした。

 そして、ことごとく失敗した。やはり成金は成金でしかなかったのだ。

 男の生活も激変した。第一にと作った屋敷は売り払われ、小さな一軒家に引っ越すこととなった。メイドはいなくなり、前はいつでも食できたパンや菓子類も制限された。

 それは男にとって、まさに地獄のような生活だった。小さいころから苦労や我慢を知らない道をたどって来た男は、初めて世の中の厳しさに充てられた。

 怠けが心に巣を作っていたのである。除去しようにも難しいほどに大きく作られた怠けの住処は男を苦しめた。一度は働こうとしたが、太った肉体が邪魔をし、肉体労働を何倍にもきつくさせる。かといって遊んで暮らしてきた男に頭を使う仕事はこなせるはずもなく、泣く泣く体を使って働き続けた。

 だが、それにも限界があった。

 いつしか男にとって現実はただつらいところ、という風にしか捉えられなくなっていたのだ。そうして男は引き籠ることにした。父も母も何も言わなかった。おそらく男がこうなってしまうというのは察していたのだろう。しかし、そんなときも何一つ言ってこない父親や母親に男は落胆し、より一層心を病ませる一つに要因となった。

 男は俗にいう箱入り娘のようなものだったのだ。その怠け心は何年かたった今でも男の体に住み着いており、数々の行動に邪魔をする。

 それは今日父が仕事に出る前に珍しく頼んだ仕事でも存分に効果を発揮していた。嬉しくて、今日こそは頑張るかとはりきって始めた雪かきの作業なのだが、十分もしないうちに体が疲労を訴え、脳が休憩の指示をだす。その命令に抗うことはせず、男はどっかりと屋根の頂上でわずかに平面になっているところに腰を掛ける。

「ふいー」

 雪かきをする前、屋根裏に置いておいたコーンポタージュを飲みながら今日の寒さに身もだえる。

「なんつー寒さだよ。人が死んでもおかしくないぞ」

 吐く息は白く、男の体には雪がまるで調味料をかけるがごとくはらはらと舞い落ちていた。

 辺り一面銀世界。その姿には思わずため息が漏れる。

 いや、わかってはいるのだ。こんなに素晴らしい景色があるものだから観光客は騙され、知りもしない雪の素晴らしさを分かったような気になって熱く語る。ほんと、やめてほしいものだ。

 メイドたちは自分を嫌っていた。最初こそ相手をしてくれたが、自分の堕落した生活に飽きれ、一生懸命改善しようとし、そしてみんな諦めた。

 いつしか気が付いたのだと思う。こんな子供にそこまで躍起になって働く必要なんてないのだということに。男が望んだものを与えれば男は満足する。主人である父も母もそこまで男のことに目を向けていないし、楽をしてもいいのではないかということに。

 男は、そんな対応を子供ながらに感じていた。

 そして同時に分かってしまった。男を信じてくれる人なんてどこにもいないのだと。みんないつしか自分から離れてしまうことに。人間は信じることが出来ない。人を信じることはできない。人は人はヒトはヒトはヒトは......。

 だが、男にとって雪というものはいつでも男のそばにあった。決してかかわることはせず、だがいつでもそばにいる。親が仕事で外に出ているときもふと窓の先を見ればしんしんと雪が降っている。手を伸ばせば触れられる自分直属のメイドよりも側にいる。

 絶対に自分を嫌いになんてならない存在。

 それが、雪。

 そうして男は雪に対して強い執着を持つようになった。

 だからまあ、雪の事を何も知らないやつが雪の景色を見て綺麗などと声を漏らすのは断じて許さない。


 ■


 少しばかり、時間がたった。

 実際のところ体はそこまできつくない。ただ、脳が自分はもう無理だろうと勝手に見限り、誤った指示を出しているに過ぎないのだ。きついと感じるのは一瞬で、休めばすぐに体は軽くなる。

「よし。そろそろ再開するか」

 父から頼まれたことだ。やはり、頼まれることは嬉しい。自分をまだ生き物としてみていてくれているような感じがして、自分をまだ必要としていると感じることが出来る。父のことはいまだ信じることはできないが、そんな気持ちなんて今はどうでもいいほど男は今、幸福に満ちていた。

 男は上機嫌で立ち上がった。今の自分なら何でもこなせてしまいそうだ。

 少しだけ錆びた剣先スコップを雪の下にざくっと滑り込ませ、腕の力で持ち上げてから地面に向かって放り投げる。

 先ほどよりも随分と調子がいい。雪とスコップとの間に生じる摩擦が滑らかになった。まだ家が裕福な頃、一度だけやった雪かきで自分はワックスをとにかく塗りたくってあるスコップを扱わされたのだが、その時の感触に近い。

「ん......?」

 そんな調子で、二回目。手順はさっきと全く同じ。だが、違った。

 スコップが雪の隙間にしっかりと入ってくれない。一回目とは感触が全然違う。

「んん......?」

 疑問に思った。どうして一回目と感触が全然違うのだろうか。あまり雪かき自体をやったことがないが、一度目と二度目の感触が全線違うことぐらい男でもわかる。

 疑問に思った男はスコップを手元にまで持ってくる。そして気が付いた。

 スコップに何かの液体がついていることに。手袋をはずし、直に触る。

 ――これは、油だ。

 食用油だ。男は感づいた。

 男は引き籠ってから身に着けたある一つの特技がある。

 料理、である。

 父と母が仕事で出かけている間、働くこともせずにだらだらしていた男だったが、それでも腹はすく。

 最初こそ、メイドもいないし一日父と母が返ってくる朝と夕だけでもいいと思っていたのだが、それは全然自分にとって足りなかった。

 このご時世。朝、昼、晩すべて食べている人のほうが少ない世の中なのだが、小さいころから好き放題食べてきた男にとってはそれでも少ないぐらいである。それでも何とか一日三食にまでリズムを整えたのは評価に値するだろう。

 男は自分でそう感じていた。ただ、そこで問題がある。

 誰がその料理を作るのかということである。

 当然メイドはもういない。父も母も仕事に出かけている。地元のレストランなどに行くのは制限されているし、自分からしてもめんどくさい。

 ではどうするか。

 そこで思い付いたのが、自分で作るということだった。家に置いてあった材料と、これまた家に置いてあった料理のレシピ本を使って料理を作る。

 慣れないうちはだいぶ苦労したものだが、今では父と母の晩飯のために作り置きをしても大丈夫と自分で認められるぐらいには成長した。

 相当な進歩だと思う。

 だからこそ更に感づいた。

 その食用油が、自分の服にまでしかもまんべんに振りかけられていることに。

 男の喉がコクリと音を鳴らした。奥歯はカチカチと絶えず音を立てていて、それが寒さによるものなのか、それとも後ろに感じる異質な雰囲気によるものなのかは男にも判断つかない。

 後ろで雪を踏むギュムという音が聞こえた。男の心臓はいきなりに慌てだし、自分の体に血液を送り、思考を加速される。加速されたのはいいものの打開策などは何も思い浮かばず、ただただ男の脳内は二つの命令を流しているだけだった。

 逃げろ。振り返ろ。逃げろ。振り返ろ。逃げろ。振り返ろ。逃げろ。振り返ろ。逃げろ。振り返ろ。

 振り返って逃げろ。

 恐怖に耐えられなかった。男はスコップ片手に勢いよく振り返る。

「え......?」

 そこには少女がいた。髪の毛の上の部分は雪で白く、まるで小さなベレー帽でもかぶっているかのようだった。地毛は栗色で、身寄りはいないのだろうか。彼女が身に着けている服装は季節度外視でかつ、異臭さえ漂ってきそうなぐらいぼろぼろに汚れていた。

 自分が今感じた異様な空気はただの勘違いだったのだろうか。拍子抜けした男は、彼女の手に持っているものに目を向ける。そして彼女が握っているものを見て、一気に体が硬直した。

 彼女が片手で握っている血に汚れたそれは、男が料理をする際に使う包丁だったのだ。包丁の先から滴る血も、断じて偽物などではない。一滴。雪を地面に落ちた血が薄く染めた。

 包丁にべっとりとついている血はすべて彼女のものだった。思えば彼女の左腕は存在しておらず、こちらからも大量の出血が目に取れた。きっと包丁で切り落としたのだろう。

「うわあああああ!!」

 慌てて男はしりもちを付いた。彼女が一歩、足を進める。今の男にとって彼女は誰よりも、今まで見てきた何よりも恐怖の存在に見えた。あんな小さい体のどこからあんな見る人すべてを畏怖させてしまいそうなオーラが漂ってくるのだろうか。

 男は少しでも少女と距離がとりたくて体の重心を後ろの方に傾けた。汗と油が男の手元を滑らせ、屋根から雪の絨毯に叩き付けられる。浮遊感も、叩き付けられた時の痛みも一瞬だった。

「痛くない......」

 雪がクッションになっていてくれたようだった。おかげで空気こそ肺から噴き出たが、それ以外は何の支障もない。

 上からは彼女がこちらを覗いている。少女の左腕からたれた血液が、まるで雨のようにぽたぽたと落ちて、男の肌を、服を、髪を、そして雪を赤く染める。

「あ......あ......」

 声も出ない。服ごしに感じる雪の冷たさもまるで感覚がなくなったかのように感じない。僅かに雲の隙間から差し込む光は反射し、彼女の顔を白く光らせていた。男はその表情を見て更に体が凍り付く。

 片腕はなく、血しぶきが屋根の上で跳ねる。苦痛に身をよじらせ、叫んでもいいぐらいなのに――それどころか、逆に少女は笑っていた。とびきりの笑顔で彼女は笑っていた。

 その表情にひとかけらの嘘偽りはなく、それが逆に男を恐怖に陥れていた。

「あ、ああ......ああああ!!!」

 男は走った。逃げた。こけた。それでも走った。

 自分がいつから裸足になったのかわからなかった。怖くて怖くて後ろを振り向けなかった。少女の笑みが頭に散らついて、それがどう見たって異質なものだということだということに気づいていたからだ。それぐらいほとんど交友関係が限りなくゼロといってもいいぐらいの男でも分かる。

 助けを求めようがどこにも人はいない。昼食の街路は本当に人がいない。

 雪の冷たさで凍ってしまったのか、足はもう触覚を伝えていない。割れて断面からは血がにじみ出る。その痛みすらも感じない。

「あれは......」

 遅いながらも精いっぱい足を踏み鳴らしながら走っている男の視界の端に人が一瞬横切る。家に入っていくのが見えた。その人は自分の元メイドだった。

「ま、待ってください!」

 声を出さずにはいられなかった。この恐怖から一秒でも早く解放されたかった。驚く元メイドに詰め寄り、説得する言葉を並べる。

 ち、血を出した女の子が、包丁を持って......朝マッチを売っていた女の子です!頭のねじが外れているみたいなんです!笑って包丁を向けてくるんです!え?なんでこんなに濡れているのかって?その少女から何かオイルみたいな液体がかけられたんです!助けてください!お願いします!悪魔に魅入られているんです!少しだけでいいんです!お願いします!

 何度も同じ言葉を発した。怖い少女だと。包丁を持っていると。だが、それでいい。何度も強調すれば最初は無理でも絶対に中に入れてくれる。だって元メイドなんだから。何も悪くない自分を嫌うことは決してないはず。

 だが、それは男はいまだ世間というものを知らず、甘えていたからこそ思いついた考えだった。そんな魂胆が本当の意味で世間を知っている人間に通じることはなく、「でも、少女は来ていないしねえ。ごめんねえ」と曖昧に、うやむやにさせる程度の信用を得ることで精一杯だった。

 五十は超えているだろうと断言出来る女の人は話を続ける。

「というか、君はラーズボルト家のご長男さんでしょ。みすぼらしい服で働きもいかないご長男さん......ラーズボルトも落ちたものねえ」

 びっくりした。驚いた。なんで今自分の家のことが話に出てくるのか世間を知らない男には全くをもって分からなかった。

「やっぱり、そんな少女も来ていないみたいだしごめんなさい。中に入れてあげることは難しいわね」

 ドアが閉まる。やんわりといわれたが、完全なる拒絶。ドアの隙間から、ついにラーズボルトは虚言まで吐くようになったのか、と怒りを通り越して呆れの声が聞こえる。

 無理だった。小さい頃、望めばなんでも手にはいると思っていた世界はとてつもなく冷たかった。男の望みをなにひとつ叶えてくれなかった。いや、もしかしたら自分が必死で善行と努力を重ねていたらそれなりの望みは叶ったのかもしれない。だが、男はしなかったのだ。

 閉まったドアの目の前で、男の膝は崩れる。体に力が入ってこない。立ち上がる気力もない。なぜ、こうなっているんだろうか。

 なぜ自分は地面に屈しているのだろうか。なぜ他人から信用されていないと告げられただけで涙があふれ出してくるのだろうか。

 分からない。何一つわからない。人の気持ちも。他人の気持ちも。そして......自分の気持ちも。

 そういえば、少女はどうなったのだろうか。もしかして諦めたのだろうか。だとしたらよかった。今はとにかく安らぎを得たかった。

 男は立ち上がる。そのまま涙も、鼻水もたらしたまま帰路につく。

 どこをどう走ったのか忘れてしまっていた。そうか。僕は地域すらも知らないのか。

 道の人に尋ねてみよう。

 結果は先ほどと同じだった。一応道は教えてくれたものの、男と相手との間にある確実な距離はどうあがいても縮まることはなかった。

 結局、他人を信じれなくなりすべてを捨てた男に、他人を求めるという行為をすることさえ許されないのだろうか。都合が悪くなった時だけ求めるということは罪なのだろうか。

 顔を俯かせながら、雪だけを見ながら男は道を一人歩く。誰もいない街路はとても寂しそうに見えた。

「あ、あれ?」


 ■


 気が付いたら、ただでさえ昼で人通りの少ない街路の、しかも裏側に来ていた。

 雪も降っていないところがちらほらと見えこげ茶色の土を男に晒している。

 空気も先ほどとは全然違った。先ほどまでは冷たいながらにすっきりとした空気だったのに対して、今いる路地裏は肌にしっとりと汗をかかせ、出来ることならば足などを踏み入れたくない――言葉にするならば生ぬるいが一番しっくりくるだろう。そんな感じがした。

 どこかから排泄物のような臭いも漂ってきて、鼻を衝く。男は顔をしかめた。

「......道から外れたしまったみたいだなあ」


 独り言でもつぶやいてみる。それで何か変わるわけではないが、男の側に浮かんでいる不の気持ちが少しでも収まるかもと思って言ってみたのだった。

 結果は察しの通り、何一つとして変化はなかった。むしろ逆に心で出来た空っぽの容器に自分の言葉が染み込んで虚無感が生まれた程だった。

「はあ......」

 そういえば。なぜあの少女は自分を襲ってきたのだろうか。

 手に持っていた包丁は確かに怖かったけど、その時、彼女が浮かべていた表情に殺気の光は灯っていなかったような気がする。どちらかというと、それはそれは美味しそうな飯を目の前に並べられ、好きなだけ食べていいよと言われた時の昔の自分に似ている――気がした。

 その思考に思わず男は身震いする。まさかと。まさか自分を食料とみているはずがない、と心拍数が徐々に上がっていっている自分を落ち着かせる。

 だが確かに左腕は関節部分から存在しておらず、血が噴き出していて実のところ死ぬほど痛いはずなのに苦悶の声を一言たりとも漏らさない彼女だ。もしかしたら。

「......っていやいや。さすがにそんなことはないだろう」

 妄想のし過ぎだ。現実逃避のし過ぎだ。本当に仕方のない引きこもりだこと。そう自分で自分を貶めながら、男は後ろを振り返る。

 あ......れ?

 道には赤く染まった鮮血が、一本の線のように雪の上を伝っていた。それは自分が踏んで作った足跡を目印にするかのように、その足跡をたどるかのように自分の方に近づいていた。

 男は遠方からゆっくりとやや酸化されて黒っぽさを覚えた血液を目で追う。視線に写る血液が、だんだんと近くなれば近くなるほどに男の心臓はドクドクといまだかつてないほどに激しく動く。

 世界から音が消えた。体感時間でも変わったのか、雪の落ちてくる速度がいつもの三分の一程に見える。急に遅くなった世界は、まるで一般の人がプリズム眼鏡をかけた時のように、幾重にも折り重なって自分の視界を映し、頭は急に高速で思考を開始してこれ以上はまずいという信号を与える。

 だがそれでも確かめらずにはいられなかった。男は錆びたロボットのようにぎこちなく首を動かし、下を見る。

 年端もいかない少女がいた。背は自分の腰ぐらいで雪や泥でぐしゃぐしゃに汚れた髪を晒していた。

 意識せずとも目が見開かれていく。ただでさえ寒さで青くなっていた唇はさらに色気を失っていき、わなわなと震え始める。歯と歯がカチカチと音を立てていた。口の中にたまっていた唾を一気に喉へ送り返す。

 嫌な予感はピークを迎える。裸足になった足からは温度も痛みも何も感じない。

 そして、遂に時は訪れた。

 少女はゆっくりと顔を上げた。満面の笑みを浮かべていた。手に持っていた包丁を男の腹に突き刺した。


 ■


 何が起きたかわからなかった。少女の目は光を失っていたが、自分に向けた表情は幸せそうなものに見えた。それは今、自分が殺される寸前ということさえ忘れてしまうほどに人の目を釘付けにしてしまうものだった。

 実際、刺されるまで気が付かなかったのだ。意外と痛みは感じないし、少女は相当勢いよく突き立てたようで、血もそこまで――噴き出すほどではない。せいぜい切っ先から垂れた雫が服を僅かに湿らせたぐらいだ。

「がっ......ふ......」

 何か苦ったらしい液体が、腹の底から逆流してくる。止め処なく溢れ頬をいっぱいにしたが、それでも堪えることが出来なくなり思わずせき込んでしまう。

 吐血。

 少女の頭に男の血が降り注がれた。栗色のぐちゃぐちゃ髪がみは赤く薄汚れる。ぽたぽたと雪の上に落ちていく。

 やっと状況を把握した。腹に刺さっている包丁は冷たく、いつもとは違う異物が入っているような違和感を感じた。男は一歩後ずさる。ブクブクと太った腹は少しでも刺激を与えただけでも臓器を傷つけ、それは男の口から液体となって噴き出る。

 足に力が入らなくなった男は思わず尻餅をつく。尻餅をついたことで、男と少女の背丈はほぼ一緒となった。

 逃げられない。体中に力が全く入らない。動けない。

 男の頭の中はピークになっているはずだが、以外にも驚くほど冷静に物事を処理をしている。まさか、脳が指令を出すことを放棄したというわけではないだろう。ということは麻痺しているのか。それともなんだ。雪があるから、雪が尻へ温度を伝え、側にいるということを言っているから安心しているのだろうか。

 分からないな。

 男の予想はおおむね間違っていなかった。発狂して、泣き喚いてもおかしくない状況で男の自我を保たせているのは他でもない雪だったのだ。

「まずは中から焼くことでもしようかな」

 目の前にいる少女は、ディアンドルのポケットから一本のマッチを取り出す。片腕がない状態でどうするものかと考えるそぶりを見せた後に、彼女はマッチ棒を口で咥えた。

 さすがに男へ痛みが襲ってきた。だが今はそんな感覚すら男は自分の存在証明に感じる。少女は男の腹に刺さったままの包丁を更に深く突き刺すと、一気に横へ開く。飛沫となった血は少女のカサカサの頬を濡らす。少女の顔は服も顔もそのすべてが真っ赤に染まっていた。唯一染まっていないところといったら、ここら辺では珍しい黒色の目ぐらいのものだ。

 体中を激痛が襲う。スプリンクラーよろしくあちこちに飛び回る血液が自分の生きてる証だと思うと少しもったいないなと感じてしまう男だった。もう頭すらも狂ってきたようだ。

 少女が服で擦ると咥えたマッチが、火を帯び光り出す。普段なら幻想的に見える炎だがさしずめそれは凶器でしかなく、男の予想通り少女はマッチを切り開いた腹の内部に放り込んだ。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」

 もはや声にならない声が辺りを――薄暗い路地を支配する。腹の底が焼けていく。パチパチと嫌な音が聞こえる。その音の発信源は他でもない男だった。

 のたうち回った。体が痙攣する。尿が洩れる。腹は痛い。涙があふれる。

 発狂するかと思った。いや、むしろ発狂したほうが楽なのではと感じるほどの激痛だった。

「えっとー次はー」

 掠れていく意識の中で、叫ばないとやってられないような傷みの中で、少女の声が僅かに聞こえる。

 そして次の瞬間、視界を炎が包み込んだ。

 燃やされているのは......自分なのか?

 息が苦しい。口で息をしようとしたら入ってくるのは焼けた空気で、むしろ逆に男をせき込ませながら苦しめる。

「あ゛っおあ......」

 そんな中あるものが目の中に飛び込んできた。

 雪だ。

 いつでも、どんな時でも自分を支えてくれた雪。代わりに男は決してその優しさを疑わなかった。

 こんな火に包まれているときでも側にいて、自分を見つめているのだ。助けてくれるはず。

 男はゆっくりと手を伸ばした。男が暴れて、わずかに山を作った雪に手のひらを乗せる。

「ああ......」

 やはり雪はいつまでも冷たかった。男が作った形に対して、いつまでも形を残して――。

 違和感を感じた。

 男は閉じかけていた目を開け、雪にかぶせていた手をどかす。

「......!」

 目を見開いた。雪が溶けていたのだ。液体と化した雪はぬるくなり、もう冷たさを与えてくれない。

 顔が引きつった。筋肉が凝縮して、手が意図に反して折れ曲がった。体もだんだんと反っていく。だがそれよりも、男には雪の変わり方の方に驚いた。

 男が触れた雪はすぐに溶けていく。男の目に動揺と悲しみが混ざったものが映る。

 一般の人間が見たら、炎で覆われている体で雪に触れると溶けてしまうということぐらい、別段普通で当たり前なことに映るだろう。

 しかし、男の場合は違った。男にとっては雪が自分から離れていっているように見えていたのだ。脳内が麻痺して男には雪が溶けていっているのではなく、自分の側から嫌悪しているかのようにそそくさと背を向けて逃げているように見えたのだ。それは先ほどの町民たちの姿と重なる。

「ああああああああああああ!!!」

 男は切望した。他人が自分を信じてくれることを。男は絶望した。最後に信じていた唯一の者にまで裏切られて。

「お腹すいたー」

 少女の腹が鳴る。体中が熱くてもう死んでしまうと思っていた男に対して、その音は自分が生きるための活路を見つけてくれた。皮膚がただれるほどの痛みに耐えながら男は消え入るそうな声で言葉を紡いだ。

「ね、ねえ」

「なあにー?」

 少女は年に不相応な幼稚すぎる声だった。助けてくれることを期待していいものか、いささか疑念もあったが今頼ることが出来るのは少女しかいない。

 男はそう割り切って体を両手で押さえながら言う。精いっぱい気を引けるようにとことん優しい声で。

「お、なかがすいているのなら......家にこない、かい?食、べもの一杯ある......よ?」

 言いながら、まるで犯罪者の決まり文句だと感じた。こういう切羽詰まった時、あまり言葉は紡げないということも理解した。

 縋るような目をしている。男は自分でそう思いながら少女の顔色を窺う。

 少女は悩んでいなかった。自分の言葉に耳を傾けていなかった、というわけではないだろう。

 至極当然のように言い放った。

「ごめんねえ。でも、信用できないんだ」

 またか。

 また、信用という言葉が自分を縛り付ける。縛り付けて自分を絶望させる。

 なんで信用してくれないんだ。家には少ないが一応食べ物がある。本当に上げるつもりだ。

 なのに......なぜ信じてくれない。

 おかしいだろこんなの。

 涙が落ちる。肌を濡らす。焼けた肌には一滴の涙でさえ男に苦痛を与える要因だった。

「だって」

 少女の声は先ほどとは打って変わって冷たいものとなった。そのままの口調で彼女は言う。

「私の腕を踏んづけた人なんて信用できるわけないじゃなーい」

 体から力が抜ける。そうか。この子だったのか。朝、自分がふんづけていったのは。

 今の世の中、孤児となって死んでいく子供は別段少なくはない。たまに凍死していたり、餓死していたりしている姿を見たことがあるが、それがまさかこういう形で巡り合うことになろうとは思いもしなかった。

 いや、違う。いつ復讐されてもおかしくはなかった。

 なぜなら、男の趣味は料理のほかに孤児をいたぶるというものがあったからだ。

 誰彼構わず救いを求める。わずかな可能性に欠けて体を張る。その行為がたまらなく男は嫌いだった。

 頼み込んでも救ってあげない人間たちに対して憤慨を覚えた。なぜ、助けない。

 そして悟った。

 どうせ誰も救ってくれないのだ。救ってくれるのは気持ちが分かる人たちだけだ。分かって、善行を重ねてきた人だけが助けてあげられる。つまり僕だ。頼むなら自分だけにしろ。救ってあげることが出来るから。

 だから男は頼ってくれない少女に対して制裁を下して、腕を全体重をもって踏みつぶしてやったのだ。

「ああ、そ......か」

 やっと気が付いた。自分こそ他人を信じていなかったということに。

 誰かを信じようとしなかった。自分がまず信じなければ相手から信じられないのも当たり前だった。

 はは。

 はははは。

 ははははは......。

 なんだか体が軽くなってきたような気がした。片目は炎で焼かれて見えなくなった。痙攣はもう終わり、ただ自分が燃やされている音だけが耳に入ってくる。

 気づくのが遅すぎたかな......。

 もう片方の目にも炎が襲う。世界は真っ暗になった。

 何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。

 何も何も何も何も何も何も何もかも......。

「......?」

 暗闇の中に、なぜか明かりが灯った。男は覗く。

「......」

 それは記憶だった。まだ生まれて間もないらしい赤ん坊を大事そうに抱えている若いころの母。その二人を愛おしそうに穏やかな笑みで見つめている父。赤ん坊が大声で泣き始めた。奥から慌てて元メイドたちがお湯と布を持ってくる。メイドの一人がお湯をこぼした。リビングに笑いが起こる――

「......ごめん......なさい」

 思わずつぶやいていた。理由は分からない。だけど言わなくてはいけないような気がした。

「ごめんなさい......ごめんなさい」

 その時、ふとこの街に伝わる言い伝えを思い出した。

 死ぬ間際に炎を見ると幻が見える――。

 胸には温かいものが残った。自分を包み込んでくれそうなくらい優しくて、温ぬくかった。愛されていたのにも気が付かなかった今までの自分がとても悔やまれるが、でもまあ最後の最後で気が付けて良かった。

 僕は幸せだ。

 そして男は永い眠りにつく。


 ■


 男は笑みを浮かべていた。体は真っ黒になっていて表情なんて分からないはずなのだが、なぜか笑っていると理解できた。

 腹が鳴る。実に嫌な音だ。この音は今まで何度も聞いてきた。もう聞きたくない。

「おなか......すいたなあ」

 少女はフラフラと男のそばに寄り、雪の上に座り込む。

 待ち望んだご飯だ。本当にお腹とお腹がくっつきそうになっている。一秒でも早く食したい。

「まずは、腕からだねえ」

 視界に映るは左手。自分のなくなった腕と同じにしてあげよう。

「あーん」

 硬い。寒さで逆立ってる体毛がチクチクと口内を刺激する。肉汁も出ない。仕方がないから引きちぎった。いきなり硬いものを食したせいか歯が抜ける。男の血と少女の血が混ざった。肉の味。血の味。人の味。筋肉の部分がコリコリと音を立てる。口いっぱいに頬張ったため飲み込むまでに時間がかかる。

 そして。

「ああ......おいしい」

 少女は至福に満ちた表情を浮かべた。片腕はなく、体中が血で覆われていてどこからどう見てもその姿は穏やかなものではなかったが、当の本人はそんなこと微塵も気にしない。

 別に気にかける必要がないと考えていた。自分を救わなかった奴らのことなんか知ったこっちゃないとまで考えていた。

 肉で包まれた男の腕を食していたら骨が見えてきた。周りについた筋肉は硬かったが、それでも自分がここまで食べることが出来て、しかもまだまだ食べどころがたくさんあるという事実は少女にとってとてつもなくうれしいものだった。

 最初から決めていた通り、余すところなく全部食べ切ってやろう。

 今度は指先にかぶりつく。骨ごとがりっと前歯で噛み切る。そうしていた時だった。

「......?」

 そこら中に飛び散っている血に鼻を近づけ、鼻をひくひくとさせている数匹の犬がいた。一番大きいものは少女の図体よりも大きく、獲物に飢えた目をしていた。どうやら犬たちのリーダーらしい。

 口からは大きな牙が覗いていて、これでもかというような大声で一声吠える。その声に反応して側に控えていた犬達が一気に少女へ向けて威嚇を始めた。

 少女は不機嫌そうな表情を犬たちに向かって放つ。当然だ。食事の時間を邪魔されそうになっているのだから。少女は男の腹に突き刺さっている包丁を手に取る。血まみれの包丁に犬たちは若干たじろいだがリーダー犬の一喝で少女を襲おうと飛びかかる。

 少女は先ほどの行動をイメージする。あれは自分でも驚くほどの力だった。体は限界を迎えていたはずなのに足は疲れを忘れたかのように走ることが出来たし、体中は久しぶりに体温を取り戻した。痛みも感じなかった。

 なら、さっきと変わらず動けばいいだけ。少女は震える右手で包丁を握る。

 ――あれ?

 もうない片腕から、先ほどまで何も感じなかった左腕からだんだんと鈍い痛みが少女を襲う。その傷みは次第に大きくなり――

「痛い!痛い!痛いよ!」

 包丁を持っている余裕はなくなっていた。右手は左腕を握りしめることしかできない。血が滝のように溢れ出していた。腕を切り落とした時から、それは変わらないはずなのに傷みはなぜ今更出てくる?

 少女の感覚は麻痺していた。麻痺していて、痛みを感じていなかった。

 それはその時の少女の中で、痛みよりも食欲のほうが勝っていたからだ。

 だが今は違う。男を食したことで少女の中で痛みのほうが食欲に勝ってしまったのだ。

「あああ!!」

 少女は痛みに我を忘れて、のたうち回る。体がとにかく暴れないと死んでしまいそうで、絶叫しながら雪に頭を擦りつけながら痛みに耐える。

 その姿は先ほどの男とあまりにも重なる光景だった。

 今は食べ物で、男だったものに犬の群れが群がる。それを止めようとするも、今の少女は元の非力な少女でしかなく、制止することはできなかった。


 ■


 後には犬たちが食い散らかした男の残骸だけが残った。だいたいの部分は食われていたが、硬いところや骨の周りにはわずかに肉が残っている。

 せめて残った肉片だけでもと精一杯しゃぶりつくす。

 なんだか......寒くなってきたな。

 上を見上げたら雪が強くなっていた。雪で包み込むかの如く男に積もっていく。

 流石にもう食べられないかなあ。美味しかったのに。

 指にべったりとついた血を舌で一本一本舐め回しながら、男の死骸にもう少し食べたかったなあと感謝の言葉を口にする。そして犬なんかに食べさせて申し訳ないという気持ちで謝りながら、少女は体を休めるため

 狭い路地の奥に入っていった。


 ■


 日も沈んできた。雲の隙間から除く太陽はもう見えなくなり、辺りは暗くなっていく。

 雪も強くなっていて少女の体を更に苦しめる。

「はあ、はあ......」

 凍える手で少女は自分の体に触れた。

「え......?」

 何も感じなかった。冷たさも今、手で自分の肌に触れているという感触も何も感じなかった。

 体温を調節する機関が誤作動を起こしているらしい。少女は土の床に倒れた。見ると少女の手は真っ青になっていて血と混ざりあい、もはや紫色へと化していた。

「死ぬのかな......」

 今まで辛かった。痛かった。きつかった。

 でも死にたくはなかった。

 せめてもの足掻きということで、少女は力を振りしぼる。建物を背もたれにしながら、少女はマッチに火をつける。

「わあ......」

 暗闇の中で一本のマッチだけが光る。黄色く輝くそれは、昔見た宝石というものによく似ていた。

 少女にはそう見えた。

 遠くでどこかの家族の笑い声が聞こえてきた。楽しげで温かい声だった。少女は声のする方に顔を向けた。

 それは少女の記憶。記憶にはなかったが、なぜかそれが自分の昔の思い出だと理解できた。

 顔も分からない女の人が父と一緒にいる。

 あれが、自分の母親なのだろうか。

 少女は母親のことを覚えていなかった。というのも、母親は少女が生まれてすぐにこの世を去ってしまっていたからだ。少女の中で母親は架空の存在でしかない。

 今すぐあの家族の中に駆け寄りたかった。駆け寄って抱きしめてもらいたかった。しかし、力が入らない。体が、動かない。

 せめて声だけでもと少女は叫ぶ。

「お父さん!お母さん!」

 優しかったころの昔の父が声に気づき振り向いて、消えた。

「あ、あれ?お父さんは?お母さんは?」

 辺りを必死に見回すがそんな人物は誰一人として見当たらなかった。

 急いでもう一本のマッチに着火する。今度は場所が変わっていた。病室だった。

 父が母と思わしき人の腕を抱いて、泣いていた。母の顔には先ほどの優しげな雰囲気こそあるものの、痩せ細っていた。側には吐いたばかりの嘔吐物がなみなみと入れられている桶があり、母の容体は思わしくないということを示していた。

 父が何か叫ぶ。聞こえない。母が枯れ木のような手で父の涙をそっとぬぐった。父は母の体を抱く。母はいつまでも父に向かって慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。それを幼い私が不思議そうな顔で見つめていた――

 初めて知ったことだった。父と母にそんなことがあったなんて。少女はもう止められなかった。マッチを今度は三本一気に燃やす。

 今日のようなたくさんの雪が降って、とても寒い日のことだった。若い男は疲れたような顔で街路を歩く。父だった。ふと、父は道の端に目を向ける。どこかから声が聞こえてくるのだ。マッチを買ってくださいと。一本だけでいいんです、と。

 見れば少女がマッチを売っていた。着ている者は薄汚く、道を歩く人たちは誰一人として無視を決め込んでいた。まるで世の中の闇から目をそらしているようだった。父も他の人と同じように目を逸らそうとした。が、父はなぜか目を背けることが出来なかった。

 少女に駆け寄ると自分のマフラーを脱いで少女に巻く。少女は驚いているようだった。そんな少女を父は有無を言わせず手を引き、洋服屋へと連れていく。

 あれは母なのだろう。母も自分と同じようにマッチを売っていて、そして父に出会ったのだ。そう考えると自分と母にどこか親しみを覚える。

 幻は元に戻り、少女はまた路地にいた。マッチの残り本数はあと一本。少女は最後の一本に力を振り絞り、点火させた。


 ■


 それはひどく寒い次の日のことだった。

 雪は久しぶりに止み、男は疲れた顔でまだ日も登っていないような街路を闊歩する。

 理由は一つ。少女を連れ帰るためだった。

 ここ数日、男は家を出ていたのだ。奴隷商人たちの会合に出ていたのだ。

 奴隷商人の中で下っ端な部類に位置する男は大きな奴隷商から奴隷を恵んでもらわなくてはいけなかった。

 そこら辺の孤児を奴隷にしてもいいが、そういう輩は大抵早々にして死んでしまうことが多かった。数よりも質を大事にしたかった男はそういう面で妥協は許さず、しっかりと奴隷として純粋培養された者が欲しかった。大手の奴隷商人も鬼ではない。時折、余った奴隷を一人や二人分けてくれることもあった。しかし、無償で提供してくれるのには条件というよりも自分が今奴隷を保持していないということを証明させる必要があった。塵も積もれば山となる。男はそこら中から余った奴隷をかき集めていて、その数は大手とも引けを取らないほどになっていたのだ。

 見つかれば即座に他のいろんな奴隷商を敵に回し、まだ資金もほとんどない男の奴隷商売なんていとも簡単に潰されてしまうだろう。

 そこで考えたのだ。奴隷の中でも出来が悪い数十人を町中へ放ち、数をごまかそうと思ったのだ。

 自分が家へ帰ってくる日の朝には自分の家の前に集合しろという命令をして。ただしそれまで、いつ男は本当に奴隷不足かということを疑って家に押しかけてくるかわからない。他の奴隷商達に見つからないためにもそれまでは絶対に家のそばに近づくなという条件付きで放ったのだ。

 そしてあわよくば金稼ぎをしてもらおうと、奴隷たちにマッチのかごを押し付けながら言ったのだ。マッチを売ってこいと。その中に少女はいたのだ。

 少女は初めて男が一から育て上げた奴隷だった。その少女だけは男の中でも特別だった。その少女の母はすでに奴隷として売りさばいた。その時に男と少女の母の間で生まれたのが少女だったのだ。思い入れがあるのも当然だろう。

 その少女を育てるときにはほかの奴隷の姿を一切見せなかったし、一応少女の家族としてクリスマスプレゼントなんて言うものも送ってあげたりもした。可愛い子には旅させよ。少女はほかの奴隷とは遠く離れた場所からマッチ売りをさせたのだ。自分の実力がどれほどのものなのか。自分が初めて育てた少女がどんな奴隷に育っているのか。男は知りたかったのだ。

 他の奴隷との期日も一日遅らせた。昨日他の奴隷は全員戻ってきていたが、今日の朝、少女だけが戻ってこなかった。そんな事実に歯噛みしながら男は道を急いだ。

 途中、神父とすれ違った。神父は何か大事そうに抱きかかえていて、暗い表情をして道を歩いていた。

 ケッ。神に仕えるものが何辛気臭い面してんだよ。

 男は心の中で悪態をついた。そんなことよりも早く少女を探さねえと、と表情に気合を入れなおし男は足を速めた。


 ■


 少女は泣きそうな顔で笑顔を向けている父と母に駆け寄る。母は優しく自分を抱きしめた。その母と少女を更に上から父が抱きしめる。思わず少女は笑い出した。母も笑う父も笑う。

 やっと――やっと――。

 今この瞬間が永遠に続いてほしいと少女は思った。決してこの手は離さないと思った。

 眩しいくらい明るい世界で少女は目じりに涙をためながら、父と母を強く思いながらつぶやいた。


 ――家族になれた――

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聖夜のマッチ売り少女 佐島 紡 @tumugu

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