第5話
「三年A組。大地讃頌は指揮と伴奏、歌声の息が本当に合っていましたね。聞いていてとても気持ち良かったです。自由曲は、高岡ひかりさんのソロパート、本当に素晴らしかったです。ここで一気に聴き手を惹きつけました。しかし…あと一歩、合唱の完成度を高めていくべきでしたね。クラスは心を一つにして頑張っていたと思いますし、声の出し方もすごく良くなっていました。だけど、合唱と言うのはとても繊細で、なかなか気が付かないような細かい部分でも綻びが出ると、完成度は高まりません。でも、しっとしりとした歌い出したから、力強いサビの響きは圧巻でした!お疲れ様でした!」
島岡先生の総評だった。島岡先生は生徒にとても優しい。心が繊細なのだろう。ちょっとしたことでも、生徒が傷付かないような配慮をしてくれる。この総評でもそんな配慮が感じられた。まだ若く、教師生活は今年で四年目か五年目くらいのはずだ。
文化祭以来、ひかりが廊下を歩くと、見たことも話したこともない他学年の生徒が会釈をするようになった。隣の三年B組の生徒たちも彼に興味を示すようになった。何かと話しかけたり、気にかけるようになっていた。ひかりには何とも言えない魅力があった。
本当に「何とも言えない」魅力だった。魅力とはそんなものなのだ。
ある日の帰り、ひかりが口を開いた。
「おい富永。期末試験のさあ、数学。教えてくれよ。あれ、今までの復習みたいな問題も出るらしいじゃん。俺、数学は苦手なんだ。俺ん家来ていいから教えてくんない?あと出来たら、国語も教えてくれ」
「なるほどな、まあお安いご用だよ」
彼は結局、「隆彦」とは呼んでくれない。いつまでも「富永」のままだ。
「いつ行けば良い?」
「今度の土曜空いてる?時間は夜でなければ何時でも良い」
そんな話をしながらその日は帰った。そして、約束の土曜日が来た。期末試験の十日前前だ。
「いらっしゃい。大丈夫だよ、親もいないから。ゆっくりして」
「お邪魔しまーす。ご両親、仕事?」
「まあね」
彼の家はとあるマンションの八階にあった。暗証番号で開け閉めする類のドアを開けると、短い廊下が見えた。廊下をまっすぐ行くとリビングが見えた。途中に彼の部屋があった。全体的にオレンジ色が多い家だった。洗面所のタオルやトイレのマット、まな板やミニテーブルなんかもオレンジだった。
「父親が大宮アルディージャ(サッカーJリーグのプロクラブチーム)のファンでさ。チームカラーがオレンジじゃん。だから、オレンジが多いのさ」
「なるほど、そういうことね」
彼はミニテーブルを出した。例のオレンジ色のものだ。足の色は黒い。
「座れよ。ココア入れるから。あとバタートーストも」
「マジか。たくさん粉入れて濃くしてよ!」
「悪りぃ。インスタントじゃなくてパックなんだ。濃くはできねーよ」
「バタートースト、焦がすなよ!」
「はっ?焦がすかよ!」
ひかりは電子レンジで温めたコップ一杯分のココアと一枚のバタートーストを持って来た。ムーミンが描かれた白いコップとお皿だった。
「一枚だけ?二人でシェアすんのか?」
「バカ言え!一枚ずつしか焼けないんだよ!待ってろ」
僕が手を付けずに一分から二分ほど待っていると、もう一人分のココアとバタートーストのセットが来た。
「ありがとう!」
「いえいえ、ゆっくりしてけよ。なあ、富永。まず数学からで良い?俺、確率の解き方がどうしても分かんないのがあってさあ。問題集の解き方見ても理解できなくて」
確率は僕の得意分野だ。任せて欲しい。
「うーん、分かったようでいまいち分かんないなあ」
「でもやり方は分かったから解けるはずだよ。考えすぎるなって。数学はまず基本的な解き方を覚えるんだよ。俺だって全部の理論を理解してるわけじゃないぜ」
僕らは淡々と勉強を進めた。数学だけではなく、僕のもう一つの得意科目である国語も教えた。そしてひと段落着くと、ひかりが口を開いた。
「ごめん、そろそろ休憩しよう。トイレ…行ってくる」
ここで少し空気が変わった。ひかりはもどかしい体と心を抱えている。トイレに行くことが、彼を鬱屈とした気持ちにさせるのが分かった。自分の体が女であることを実感させるからだ。きっとこれまでもずっと悩んで来たのだろう。「トイレ…行ってくる」の一言にそんな彼の葛藤がよく現れていた。
僕は「うん」と言っただけで殆ど反応もしなかった。そうした方がいいと思ったし、それしかないと思った。
「はあ、富永」
帰ると彼が体育座りをした。
「何?」
「お前さあ、高校はどうするの?進路決まった?」
「俺は社会と理科が得意じゃないしさ。国数英の三科目だけで入れる私立が良いかなと思ってる。と言っても、そんなに偏差値高いところは入れないと思うけどね。もちろん都立も受けるよ」
僕は淡々と説明した。「ひかりは?」と聞こうとしてやめた。何となくだが、聞かない方が良いような気がした。だが、それは間違いだったようだ。何故なら、すぐに彼が自分の進路について話し始めたからだ。
「俺はアメリカに行くかもしれない」
「アメリカ?」
「そう、アメリカ。叔父がアメリカに住んでてさ。向こうで仕事してるし、長いこと向こうで暮らしてるんだ。よく言うだろ。欧米の方が性的マイノリティーには理解があるって。オバマ政権が同性婚を容認する発言したりとかさ。州法で同性婚を認められた州が出てきたりとか…こっちよりはマイノリティーへの理解が進んでると思う。それだけじゃないけどね。叔父とは仲が良いんだ。父の弟でさ。陽気だし頭も良いし、心が広い。俺とは凄く気が合う。手で数えられるくらいしか会ったことないけど、それでも心が通じ合ってるのを感じる。叔父の子供、つまり俺の従兄弟もとても良い奴らなんだ。叔父の奥さん、つまり叔母もね。とても良い人さ」
親戚の話をする彼はとても生き生きとしていた。
「そうなのか、そりゃ良かったな!でもさあ…高校はどうするの?お前、英語喋れるの?それとも働く?」
「そこだよな。言葉の問題は大きい。別に日本が嫌いなわけじゃないから、残っても悪くはない。あくまで一つの選択肢だよ。多分だけど…現実的には日本の高校に普通に進学すると思う」
「そうか…でもさ、そろそろ決めないとやばくない?進路の三者面談の時、何て言ったの?」
「まだ決まってない…て言ったよ。これからじっくり考えるって。先生とはまた話すつもり。もちろん、勉強はしてるよ。お互い頑張らないとな」
「そうだな」
僕はココアを飲み干した。彼も真似るようにココアを飲み干した。とても甘くて体に染み渡る代物だった。
「そう言えばさあ、ひかりは兄弟いるの?俺は一人っ子なんだよね」
「いるよ。三人兄弟。兄が上にいて、姉がその下にいる。性同一性障害なのは俺だけ」
「そうか…三人なんだね。高校生?大学生?」
「二人とも社会人だよ。割と年は離れてるかな」
「そうなのか」
「なあ、飯はどうする?」
突如としてひかりが話題を変えた。
「夜ご飯?家で食べるつもりだよ」
「そっか。まあ、そうだよな。俺も家で食べる。今度さあ、飯行こうぜ。松野とか城山なんかも誘ってさ」
松野と城山は僕と同じクラスでサッカー部の仲間だ。いつも三人で仲良くしていた中にひかりが入ってきた。ひかりと会話をすることが多くなったと言うだけで、この二人との友情は全く変わっていない。むしろ、二人ともひかりとは仲が良い。
「良いよ。高校行く前に思い出も作りたいしな」
「そうだな。なあ、またサッカーやろうぜ。今度は他の奴らも誘ってさ。昼休みの短い時間じゃ、殆ど楽しめないもんな」
「だよね。二十分は短かすぎるよな」
その後、勉強に飽きた僕らは二人でトランプに興じた。スピードを飽きるほどやった。悔しいことにひかりの方が強かった。そして、僕は大手予備校の秋季講習へと向かった。僕はどこの予備校にも通っていない。だが、受講生でなくても通うことのできる講習には通わせてもらっていた。これから本格的な受験シーズンが始まる。そしてそれが終われば、義務教育を終えた少年少女達が次々と巣立って行くのだ。僕もその一人なのだ。心細いような嬉しいような、思春期独特の感情に揺られていた。
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