第4話
中間テストの準備期間と、文化祭は重なっている。この学校の生徒全員がその両立に悪戦苦闘しながら日々を過ごしているのだ。当日は学校全体が文字通り、文化発表一色になる。それが終わるまで、僕らは学生とアーティストを兼ねて演じなければならないのだ。
合唱の練習は順調だった。この頃からひかりは、「ひかりさん」と皆から呼ばれるようになっていた。半ばクラスの歌の先生になっていた彼は、皆から注目の的になっていた。親しみと尊敬を込めて、さん付けをされていたのだ。だが、デリケートな性のことに関しては皆が触れないようにしていた。誰が決めたわけでもなく自然とそうなっていた。中にはひかりの親友である僕のことも「隆彦さん」と呼ぶ連中もいた。「俺は呼び捨てでいいよ!」と何度つっこみを入れたか、知れたものではない。
合唱はひかりのソロパートから始まる。「Amazing Grace」は英語の歌なのでソロパートは英語で歌う。だが、全体のコーラスは日本語と英語の両バージョンを順番に歌うのだ。言葉で表現し難いのだが、ハミングや「ウーウー」などの音でアレンジをしてハモるのだ。ちなみにひかりは、合唱では主旋律を歌うことになった。男子の仲間に入りたがる彼も、それだけは快く受け入れた。合唱が不得手な僕は、周りからいじられながらもなんとか食らいついていた。
課題曲の大地讃松は決まり切った三部合唱で、アレンジもなし。全クラスが同じ歌い方で統一しているのだ。
毎日、朝礼が始まる前に三十分は練習の時間を設ける。放課後にも、残れる生徒だけで歌う。当然、音楽の時間も練習する。そして家に帰ればテスト勉強や受験勉強が待っている。そんなハードとも言える毎日を送っていた。
中間テストが終わると、いよいよ文化祭の準備の仕上げに入る。文化祭では、生徒達が制作した芸術作品も数多く展示される。美術部や書道部の生徒はもちろん、授業中に制作されたもの、夏休みの自由研究で作られたものなど様々だ。合唱コンクールが終わると、その展示を鑑賞する時間もある。僕はもちろんひかりと回る。だが、クラスメートのサッカー部仲間の中にもひかりと親しくなった者がおり、彼らとも一緒になって回ることになるだろう。
さて、汗水垂らして作り上げた文化祭会場が、いよいよ多くの観覧客で埋まった。メインイベントの合唱コンクールの時が来た。
僕らはくじの結果、大トリを務めることになっていた。他のクラスの歌はどれも至極上手に聞こえた。特に三年生は気合が入っている。そんな気迫を歌声から感じた。
「落ち着いてやれよ、いつも通り。お前の歌声は日本一だ。皆に聞かせてやれ」
僕らの出番前、僕はそんな風にひかりに声をかけた。彼は何も言わず、サムズアップをしながらはにかんだ。
大地讃頌は問題なく終わった。伴奏も指揮も奇異なほどに呼吸が合い、歌い手としてもやり易かった。クラス全員の歌声か一つとなって学校中に響いた。そして、その時が来た。
「Amazing Grace. How sweet the sound…」
ひかりの声は震えていた。だが、マイクを持って歌う彼の声はいつにも増して美しかった。震えもすぐにおさまり、安定した。まるで今日この日のためだけに保管していたのではないかと思うほど、殆ど完璧な歌声であった。筆舌に尽くしがたいとはこのことだ。会場の空気が変わり、皆が彼に釘付けになっているのが分かった。
そして、全員での合唱が始まった。歌っている時の記憶は殆どない。音が合っていたかどうかも覚えていない。とにかく懸命に歌い切った。涙を流す仲間もいた。本当に良い経験ができた。
「最高だったよ、ひかり!」
「本当、綺麗だった!」
「ありがとう!ありがとう!皆のおかげだよ」
礼を言うひかりの目からは涙がこぼれた。僕も泣きそうになった。涙は出なかったが。
審査を結果を待つ間は、緊張のためか殆ど誰も喋らなかった。僕はひかりを見た。彼女はうたた寝をしていた。僕がトイレに行くと、友達が何人かついてきた。
「ひかり、凄かったな。さすがお前の親友だな」
「ひかりが凄いだけだよ。俺は全然凄くない」
「そんなこと分かってるよ!」
友達との会話もどこかぎこちない。皆、最後の合唱コンクールにかけている。とても緊張している。さて、発表の時間が来た。
「皆さん、お待たせ致しました。審査員長を務めました音楽担当の島岡です。金賞と銀賞、それぞれ発表させていただきます。それ以下のクラスの順位はつけておりません…それでは銀賞から発表します。私が当該クラスの自由曲の伴奏をピアノで弾きます。そのクラスがそれぞれ賞を取ったことになりますので、よろしくお願いします。それでは行きいますよ。まずは銀賞からです」
僕は胸の鼓動で息苦しくなった。後ろから締め付けられているようにすら、感じた。そして、伴奏が流れた。二年B組が歌った「若い翼は」の伴奏が流れた。二年生の席から歓声が聞こえる。
「マジかあ、金賞かな俺たち!」
「金賞だよ!金賞だよ!」
皆のはしゃぐ声が心地良い。僕は確信した。金賞だ。
「それでは金賞の発表です!」
そして、ピアノから流れる伴奏が体育館に響いた。
「きゃー!やったー!」
「よっしゃー!」
流れたのは、三年B組が歌った「旅立ちの時」の伴奏だった。僕は愕然とした。クラス中が悲嘆にくれているのが分かった。
しかし、ひかりはじっとピアノを見つめていた。悲しんではいないように見えた。どちらかと言うと平然としている。だが、無論喜んではいない。
メインイベントが終わると、学校中の展示品を見て回った。その日、僕とひかりを含む数名の友達は、釈然としない気持ちを抱えながら学校中を歩き回った。目を見張る代物に心を奪われたり、「この手があったかあ」と意外性のある芸術作品に驚いたりした。
帰りのホームルームでは皆、悔しさを爆発させていた。だが、担任の橋本先生は笑顔で皆を褒めてくれた。そして教室の隅で、そして僕の隣で泰然自若としたひかりが何も言わずに座っていた。彼は「やり切った」と言うような誇らしげな表情すら浮かべていた。
うちのクラスが金賞も銀賞も逃したことで、ひかりの歌声は逆に伝説になった。彼は他学年の生徒からも知られる存在になった。
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