第2話

ひかりが転校してきて一週間が経った。二学期が始まり、秋らしさが所々に見られるこの季節。土曜日、受験勉強の合間を縫って僕は大好きなサッカーに興じていた。近所の金網運動場のある公園に行って体を温めていた。すると、聞き覚えのある声を耳にした。

「おい、富永!」

「高岡…さん?」

「そう。高岡さん」

びくっとした。公園で、彼とたまたま出くわしたのだ。殆ど誰とも会話をしない彼は、僕とは文房具やノートを貸し借りする仲になっていた。だが、そんな僕とも殆ど会話をしない。そんな彼が公園で僕に声をかけてきたのだ。

「サッカーやるの?上手そうだな、お前」

殆ど喋らない彼が突然、僕の名前を大きな声で呼んだり「お前」と呼んできた。これは初めてのことだ。使い方を間違っていることを承知で言えば、これこそ「寝耳に水」だ。それほど僕は驚いた。

「そう。俺、サッカー部だからさ。もう引退したけどね。高岡さんは、何してるの?」

「俺?俺は…軽くこの辺を走ってた」

「そうなのか。俺、週一くらいで自主練やっててさあ」

「なるほどね。俺もサッカーやってたんだよね。懐かしいよ」

「そうなの?じゃあ、一緒にやろうよ。楽しいぜ」

「良いよ、やろう」

僕らは何も言わずに金網を張ったグラウンドに入った。

「高岡さん、いくよ!」

「『ひかり』で良い。下の名前で呼んでくれ」

「分かった!それなら俺のことも下の名前で呼んでくれ!『隆彦』ってな!」

「分かった、来いよ富永!」

「だから、下の名前で良いよ!隆彦で。隆彦って呼んでくれよ!」

彼は、はにかんだ。僕が右足で蹴ったボールを左足でトラップ(ボールを止めるプレー)した。そこからはパス練習が続いた。僕らはボールを蹴り合い続けた。暫く経つと、彼がボールを浮かせてリフティングを始めた。右と左で、交互にかつ器用にボールを落とさずに蹴り続ける彼の姿は圧巻だった。

「上手いじゃん!チーリフ(二人以上が集まり、リフティングをしながらボールを回すこと)やろうぜ!」

ひかりは何も言わずに左足のインサイド(足の内側)で蹴り返して来た。高く上がったボールを僕は胸で受け止め、そのままリフティングをした。そして七回か八回ほど続けたところでひかりの方に蹴った。

「それで終わりか?現役サッカー部だろ?」

彼は無邪気な笑顔を浮かべながら、冗談まじりで僕を挑発した。

「何だと?お前なあ、俺リフティングの最高記録、五百超えるんだぞ!」

「俺なんか六百はいくぞ!」

「嘘つけ!」と言おうとしてやめた。何となくだが、彼を傷つけるような気がしたからだ。たとえ、冗談だとしてもだ。 しかし、どうもリフティングは彼の方が上手いようだった。やっている時の安定感が優れているのだ。ボールがあっちこっちへ飛ぶようなことがほとんどない。

リフティングに飽きると、今度は一対一をやった。まず、攻撃側と守備側に分かれる。攻撃側の選手がボールを取られずに守備側の選手をかわして(サッカーでは相手を「抜く」という言い方をする)、次のプレーに移るための練習だ。体格的優位も働き、これは僕が優勢だった。

次はシュート練習だ。シュートする側の選手がまず相手にパスをする。それをシュートしやすいところに折り返しのパスをする(このパスする選手を「ポスト役」と言う)。それをシュートするのだ。 シュートの決定率も、僕らの間に大差はなかった。一通り練習が終わるとベンチに座って二人で話をした。

「上手いな、お前!さすが元サッカー部。サッカーもうやらないのか?」

「うーん、やらないかな…」

悲しげな表情の彼を見て、これ以上触れてはいけないような秘密のようなものを感じた。だから、それ以上は何も聞かないことにした。一分間程だろうか。沈黙の後にひかりが口を開いた。

「何となく分かるかもしれないけど、俺普通と違うからさ」

「普通と…違う?」

「そうさ。サッカーやるにしても、周りの男の子より体が大きくないから…」

「そう…か…でもお前、テクニックあるじゃん!シュートの決定力だって高いしさ!リフティング上手いってことはパスも上手いだろ?なら、サイドとか向いてるって!」

「ありがとうな…でも俺さ…俺のことさ?どう思ってる?男だと思う?女だと思う?」

彼の突然の問いかけに、僕の心臓は爆弾を仕掛けられたかのように高鳴り始めた。命に関わるような、究極の選択を迫られている気がした。

「男…」

咄嗟の判断でそう言った。口調も髪型も表情も仕草も一見すると男っぽいからだ。

「良かった…」

ひかりは誘拐犯から解放されたかのように、安堵の表情を浮かべた。僕の胸の高鳴りはまだ収まっていない。

「聞いたと思うけど、俺、LGBTなんだ」

僕は何と言っていいのか分からなかった。頷くしかなかった。

「性同一性障害なんだ。体は女で心は男」

尚も、何と言えばいいのか分からない。

「何か言えよ!黙ってたらこっちが恥ずかしくなるだろ!」

「ごめん…いやでも…事前に聞いてるよ。先生から説明受けてた」

「まあ、そうだよな。あんまり会話したこともないお前に何でこんなこと言っちゃったんだろ」

「いや、別に良いさ。話してくれて、ありがとう」

「いや、むしろ聞いてくれてありがとう」

気まずいような仲睦まじいような難しい空気が二人の間に流れた。とにかく何か言葉を発する必要があると感じた。

「なあ、聞いて良いか?この学校の先生は皆このこと知ってるのか?」

「知ってるんじゃないかな。校長先生と副校長先生は知ってる。多分、他の先生も知ってると思うよ」

「ふーん、そうか。なら良いんだけどさ…」

「この前、体育休んだろ?どっちの方に混じれば良いか判断つかなくてさ。前の学校では凄く曖昧だったんだよ。女子の方入ったり男子の方入ったり。体育祭は男女の区別がある個人種目には出なかったりしてた。男子の方で出たかったけど…。前の学校もそうだけど、ここも体育着に男女の区別がなくて良かった」

「なるほど。色々と…大変だったんだな」

「何だよ急に。まあ文化祭も近いしね。皆ともっとお近づきになりたい」

「そうなのか。LGBTってさあ、最初『ラグバター』って読むと思ってたよ」

「はっ?」

彼の「はっ?」は少し冷徹だった。だがそれでいて、親しみがこもっていた。

「いや、『BT』って言うのがさあ。どうも、バターみたく甘い響きに聞こえたんだよ」

「何で?」

「何でか…分かんないけどさ。実際、LGBTが甘みとは何の関係もないのは分かってるけど…」

「俺、甘いもの好きだよ。関係あるんじゃないかな?バターを塗ったトーストは大好き」

彼は白い歯を見せて笑った。唐突な僕の妄言に優しさで応えてくれた。こんな風に清潔感のある笑顔を見せられる人を初めて見た。

「まあ、『エルジービーティー』って一括りにされてもね。なんか違和感あるよ。それそれ、悩んでることも全然違うのに」

「そう…なの?」

「人間は何で分かれてるのかね、男と女に。それで、何でどちらかはっきりしない俺みたいな子が生まれるのかね」

僕には荷が重すぎる疑問だった。何も答えようがない。

「悪いな。当事者の俺だって分かんないのに。またサッカーやろうぜ。LINEやってる?」

僕はしばらくぼーっとしていた。目の前のことに手がつかなくなるような感覚を覚えた。しかし、彼に話しかけられてはっとした。僕と彼はLINEの連絡先を交換した。

「俺、帰るよ。受験勉強ちゃんとしてるか?じゃあな、富永」

僕と彼は握手をした。華奢で、決して大きくはない手だった。骨は少し硬いような気がした。

「だから隆彦って呼べよ!じゃあな、ひかり!」

公園を出ると、逆方向の僕らは手を振って分かれた。「ラグバター」、「ラグバター」、「ラグバター」とこの言葉が頭から離れなくなった。僕はどうしてもバタートーストが食べたくなり、帰りにコンビニに寄った。バタートーストは置いていなかったので、代わりに細長いパンの中にバターが詰め込まれているバタースティックを購入した。それを食べ過ぎた僕はその夜、夕食のカレーライスをあまり食べられずに凹んだ、というのは余計な話であろうか…

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