第3話 仮面舞踏会の夜

「ローアセリア様は重篤な病に冒されているってぇ噂だったが、やっぱり事実だったのか。」

「現女王陛下が退位を表明しない限り、女王候補の選出は行われたりしねぇからなぁ。相当お悪いとは聞いちゃいたが、やっぱりかぁ……。」

 ひそひそと、アリーシャのすぐ後ろのテーブル席で屈強な男二人がため息交じりにそんな事を言った。


「まだ年端もいかないお方だったはずだ。昔っから、帝国全土を統べるは穢れなき処女王と決められちゃいるが、それでもなぁ。恋も知らずのままとは、お可哀そうに。」

「本当になぁ。不運の許にお生まれになったもんだ。国の事を誰よりも憂えておられたし、良い女王様だったのに。国民にも慕われて……、これからって時だったのによぅ。」

 出来るなら俺が代わって差し上げたいぜ、と強面の大きな男がジョッキを片手に泣くのである。

 不思議な光景に見えた。


 酒場の男たちは、まるで少女がその場には居ないかのように振る舞い、厄介事に巻き込まれまいとしている態度がありありと見えた。アリーシャが視線を向けると、露骨に目を逸らす。


 アリーシャは、現女王ローアセリアを一度だけ見たことがあった。アウク・ヴァルム神聖帝国――帝国の女王は選任制で、主要貴族の議会決定によって選出される。正統王室ヴァルム家の名を受け継ぐ唯一の存在だ。王家の血筋の証明は、『魔法』であり、代々の女王は魔法を使うことが出来た。

 神の認める正統後継者である証が、魔法を使えることだった。


「女王選出か、自身が生きてるうちに二度も拝めるとは思わなかったぜ。」

「また首都が騒がしくなるな、お祭り騒ぎがひと月ほども続くんだからよ。」

 祭りは一年後だ、と笑いながら誰かが訂正した。


 ローアセリアは類い稀な美貌と気品に満ちた女王だ。

 一段高いひな壇の上で、椅子に腰かけ優雅に微笑んでいた彼の人の姿をアリーシャは思い出した。自身と同じ歳とは思えないほどに大人びて、落ち着いた雰囲気を持つ少女だった。


「候補を絞るだけで一年がかり、さらに一年かけて十二名からたった一人の女王を選び出す。大変な作業だ、例の公爵閣下も多忙を極めることだろうさ。」

 声を落とし、それでも少女に聞こえる程度の音量に絞って、また別の男が囁く。


 場に満ちていた敵意はいつの間にか消え、代わりに不運な少女への同情や、腫物を扱うがごとき遠巻きな空気が、よそよそしい人々の態度と共に強く感じられるようになった。

 誰かの興奮した声が響く。


「貴族にとって、候補の娘は価値が高い。途中で落選したにしてもよ、王家の血筋ってことの証明だ、そりゃ大変なことになるんだぜ!」

 身振りまで付けて、声を張り上げた男は慌てて口を噤み、背中を小さく丸める。


 アリーシャは、再び静かなさざめきに満たされた薄暗い店内で、湯気のあがる暖かいミルクに口をつけた。

 どこかで、こんな雰囲気を味わった。


 貴族の催す舞踏会を思い出した。

 シャンデリアの灯は、明るすぎるという理由でその夜は燈されることがなかった。

 燭台の灯が煌びやかに空間を彩り、室内は暖かなオレンジ色に染められている。テーブル一つに一つの燭台、燭台は山形で五本の蝋燭を灯すことが出来るもので、黄金の造りだった。壁掛けタイプの燭台も同型のもので壁際を仄明るく照らしている。

 人々の顔も橙色に染まり、密やかな笑い声と、囁く声と、淫靡な貴婦人たちの視線と、豪華な羽扇が微かに揺れている。誰もが仮面を付けて、顔を隠していた。


 禁断のパーティ会場へ迷い込んでしまったかのようで、アリーシャは心細かったことを思い出した。

 両親とはぐれ、広い会場で迷子になってしまって途方に暮れていた。長い列車の旅で、ある目的があって首都で催されたこの晩餐会に出席したものだった。

 その年、現女王陛下は退位を表明され、女王候補の選出が始まった。アリーシャは、候補に選ばれてしまい、正式の召喚状が届けられていたのだ。


 パーティ会場の仄かなオレンジの灯が、また別の景色を呼び起こす。

 ゆらゆらと揺れる灯は蝋燭ではなく、ランプの炎だった。車内の壁に添え付けられたカンテラが灯と共に揺れている。何処からか入り込んだ羽虫がカンテラの灯に触れて燃え尽きた。

 客車を造る木材はニカワで懲り固められて飴色の鈍い光沢を放っていた。金のプレートが一両ごとに貼り付けられ、ナンバーが振ってある。カーテンはサテンで、シミの一つも付いてはいない。なめした革を張った座席のクッションは少しばかり硬かった。特等車を利用出来るのは、金のある一部の上流階層だけだ。


 首都へ向かう機関列車の客室は、かなりの揺れがあった。蒸気機関の発明で、辺境の田舎にあるアリーシャの家と王城のある首都とは、わずか十日の距離に縮まった。帝国全土を南北に突っ切る形で敷かれたレールの一番最終の駅が大貴族ヴェルトーク領の中心の街シルバードーンだ。

 二日をかけて、近隣の大貴族エドナ領の中心街ヴェンハームトへ出て、そこから始発する列車で首都へ向かえば、僅か八日で首都ヴルンシェムへ辿り着ける。

 片田舎で育った娘は、大都市といえるヴェンハームトの街並みを見ただけで、世界さえ違って見えた。あの都市よりも、首都は大きいという母の言葉が信じがたかった。


「いいこと、アリーシャ。我がエストローフの領内には、違約金を支払うだけの余裕はありません。」

「はい、お母様、解かっています。」

「貴女は不幸にも、大きな魔力を授かって生まれてしまいました。それでも先の女王陛下がご健在なうちは、普通の幸せを願うことも叶ったでしょう……。」


 手にした小さなバックから、夫人はハンカチを取り出して、目頭を押さえた。

 両親は、現女王が娘と同年代であることに安心しきっていたものだ。長く在位にあるうちに、娘はどこぞへ嫁がせてしまえば良い、とタカを括っていた。処女でさえなければ選出戦など無関係、そのはずだった。


 母親のフォンティーヌは豪華な帽子を一点掛けのファッションで、他の装飾を抑える工夫をしている。汚れの目立たぬ黒絹のドレスに、派手な羽飾りの付いたつば広の帽子、胸元に三つの宝石を寄せたブローチを飾っていた。黒や真紅という色は、この当時、非常に希少な染料を使う高価なものだった。

 夫であるエストローフ男爵は、これも一丁等のモーニングを着こなしていた。結婚式以来で引っ張り出してきたものだ。貧乏貴族と侮られては、可愛い娘のアリーシャが買い叩かれてしまう、その件のみが気掛かりだった。精一杯の旅装を整えて、周囲の貴族たちにも引けを取らぬギリギリの贅を凝らしてこの列車に乗っている。


 一人娘のアリーシャにも、許す限りで贅を尽くした衣装を買い与えた。列車の中では簡素ながらも質の良い木綿地のワンピースを、夜会の為にもう一着、絹の上品な衣装を用意してある。


「不憫な娘、可哀そうにアリーシャ。お前が大それた力など持たずに生まれていれば、いえ、女王陛下がお元気でいてくだされば……!」

「おい、滅多なことを言うものではない。この時期は、どこにスパイの目が光っているかも知れないのだ、口は慎まねば。」


 父である男爵は小さな声で夫人を叱咤し、周囲の客席に視線を配った。誰に、聞かれているか知れない。

 女王選出は国家の一大行事、いつにも増して治安維持の取り締まりは厳しいものになっていた。


「いいかい、アリーシャ。この度、首都で開かれる舞踏会にはあのヴェルトーク卿が出席なさるそうだ。あのお方は滅多と人前に姿を現されることがないと有名な方だから、この機を逃さず、必ずお会いしなければいけないのだよ。」

「はい、お父様。」

「お前の大きすぎる力、それを知ってもなお守りきって下さるのはあのお方を置いて他にはないだろう。現女王陛下の後ろ盾であり、国政を支配する大貴族のヴェルトーク公爵閣下を措いて他には、無い。」

 強い決意の滲む声、けれどそのすぐ後に夫人の忌まわしい囁きが続いた。


「恐ろしいアサシンの首領……、」

「おまえ! 滅多なことを口にしてはいけないと言っているだろう、」

「でも、あなた! 恐ろしい噂を耳にいたしましたわ、あのお方に睨まれた貴族でその後に栄えた者はないとか、そもそも先の女王陛下の選出戦でも何名もの候補者が行方知れずになってしまったとか!」

「だから、敵対するわけにはいかないお方だと言っているのだ!」

 男爵は声を潜め、夫人の肩をわし掴みに近寄せて続けた。

「……十二宮の後ろ盾となる貴族、その中でもっとも恐ろしいのが、四つの公爵家だ。だが、ヴェルトーク卿は他の三公を寄せ付けぬほどに恐ろしいお方なのだ、ならば、力ない我々が頼れるのもまた、あのお方を置いて他にはないではないか……!」

 娘、アリーシャの生命を守るために取れる道筋は一つしかなかった。


「この子の力は誰にも知られておりませんわ、あなた。このまま隠し通せば、きっと一次審査でふるい落とされてしまいます、容姿において比類なきほどの美貌というわけでもありませんもの、きっと!」

「いいや、四公を侮ってはいかん。アリーシャの類まれな魔力、知れればきっと害を加えられよう、」

「誰にも見せてなどいませんのに……!」


 片田舎で、埋もれるままに平凡に生きていられたなら、おそらくは誰にも知られることなく生涯を過ごせたものだった。女王選出戦の時期がもっと遅くにあれば、結婚し子供を成していて対象外として調べが来ることもなかったはず。魔力があると解かってしまった以上、その大きさを生涯に渡り隠し続けることはもはや困難と思われた。ただの偶然で誤魔化すことも出来なくなったのだ。

 アリーシャの力は強すぎるがゆえ、死に瀕した者ですら蘇生させた。一つ、二つと限られるはずの魔法を、多く扱うことが出来た。それは、この世界に魔法が現れてからの歴史上、初めての者だった。


「運命から逃げおおせる為に、アリーシャ、お前は公爵閣下の許へ行くのだ……!」


 悲壮感すら漂う父の、ただならぬ決意に気圧されて、アリーシャは小さく頷きを返した。自身の持つ運命が、さほどに過酷なものだとは露ほども思ってなどいなかった。

 なぜ、父は絶望の表情を浮かべているのか、母は泣いているのか、アリーシャには解からなかった。


「せめて、金があれば。」

 男爵はがっくりと肩を落とし、俯いてぽつりと呟いた。


 軽く違約金が用意出来るほどの貴族であれば、これもまた、何の問題もなかった事だ。誰にも怪しまれることなく、娘の身代金を支払って自由の身にしてやれたはず。

 貧乏貴族が無理をして違約金を用意したとなれば、必ずや疑われよう。その為の選出戦のシステムであり、強い魔力を持つ娘を野放しにしないための『網』だった。王家の血統をコントロールする為の。そのようなカラクリが、まだ十五になったばかりの小娘に解かるはずもない、ただアリーシャは両親に促されるままに列車へ乗り込んだまでだ。


 ヴェルトーク公爵にお会いする、それだけを胸に幼い少女は長い列車の旅で首都へ向かう。


 少女はやけに盛大なくしゃみを放った。周囲が何事かと注目している。

 アリーシャは小さくなって、酒場の片隅で必死に気配を消そうと努めていた。隣に視線を向けると、相変わらず公爵と同じ名を持つ男は酒を呑んでいて、アリーシャに興味を向けようとはしてくれない。

 ぼんやりと、アリーシャは過去に起きた事々を思い出していた。


 公爵は、背の高い男性だった。記憶の中の大きな背中は厚手のマントに包まれていた。

 仮面舞踏会の夜、月の大きな夜。離宮の一つで開催された夜会で、両親とはぐれて彷徨っていたアリーシャの前に、偶然現れた。


 舞踏会の中心的な会場は大広間で、その頃はまだお元気だった女王陛下が鎮座まします上段を見上げ、アリーシャは彼の人に目を奪われていた。人が大勢居て、皆が揃って仮面で顔を隠していて、彼女の両親も同じように仮面を付けてしまえば、はぐれた彼女にはもはや探す手立てがなかった。

 広間の上座、一段高い位置に置かれた玉座に女王陛下は座っていた。この頃にはすでに体調も思わしくなかったものか、深く背もたれに華奢な身体を預けたままで人々に微笑みかけていた。


 美しい少女は、真っ白に輝く絹のドレスを身に纏い、宝飾品に飾られてお人形のように座っている。大きな樫材の椅子は堅牢なデザインで、真紅のベルベット地のクッションが張られ、重厚な赤は白のドレスに映えていた。儚げな少女はドレスにも負けぬ真っ白な肌で、透き通るような透明感のある存在はまるで精霊のようにも見えた。蝶の羽を模したデザインの仮面を付けていてもなお、その美しさは霞みもしない。薔薇色の頬、しっとりと濡れた小さな唇、鼻梁の通った卵型の輪郭に細い華奢な頸。手折れば露と消えてしまいそうな少女。

 あまりに美しい女王陛下のお姿に、アリーシャは見とれてしまって両親とはぐれたのだ。


 大広間を彷徨い、廊下を幾つも抜けて、気付けば人の少ない中庭へ出ていた。

 アーチ型のテラスが左右対称に伸びて、奥の建物とを繋ぐ。石柱には蔦の葉が絡まり、石段の下は白い玉砂利が敷き詰められている。噴水が庭の中央に配置され、丈の高い樹木は何かの実をたわわに実らせていた。

 丸い中庭の四方には高い台座があり、大理石の白い彫刻の女神が見下ろしている。

 花壇は整備されて色とりどりの花を付けている。よく見れば、昼に咲いた花が萎れているものだった。生気を失くした花たちが月明かりの青い世界で幻想的な彩りを添えている。大きな満月が噴水の飛沫の真上に陣取ってほの白く輝いていた。


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