第4話
アリーシャがぼんやりと立っているその眼の前へ、黒い影が舞い降りた。音もなく、ふわりと降り立った影を、少女は鳥だと思ったほどだ。広がったマントが鳥の翼を思わせた。
黒い翼は少女の周囲を闇へと変える。
大きな黒い影が少女の視界をすっぽりと覆い、突然闇が舞い降りたかのように周囲を暗くする。その一瞬はやけに印象深く、長く、闇が去り、一枚の布と変化するまで少女の意識を縛った。黒の厚いマントの布地が玉砂利の上に広がるまでの時間はコマ送りで過ぎた。
闇が切り落とされて布地に変化したかに見えた。
地に広げられたマントの裾が幕を引くように男の動きに合わせて伸び上る様を少女は見つめていた。二階から飛び降りて着地した男は曲げた膝を伸ばし、立ち上がる。銀色の髪は総髪のウィッグであろう、耳元の後れ毛は黒かった。黒い仮面はベルベットの光沢で、片側に羽が飾られ、周囲には銀糸の刺繍で複雑な模様が描かれていた。羽飾りが揺れる度に粉の粒子が七色に煌めく。そして、男の視線はずっと少女を射竦めていた。
直感が、この男を求める人物だと告げている。
圧倒的な威圧感に、アリーシャは喘いだ。息が出来ないほどの重圧を、纏う空気だけで少女の上に覆い被せて男はその横を通っていく。すれ違った時、男の衣服からは濃厚な血の香りが漂った。
アサシンの首領。母の忌まわしげな言葉が脳裏に響く。
アリーシャの小さな手は、怯えながら、無意識のうちに黒いマントの裾を捕まえていた。
「何用かな? お嬢さん、」
黒衣の貴族は抑揚のない声で、アリーシャに尋ねた。
射殺されてしまいそうな視線だ。心臓が強く打ちつけ、鈍い痛みに襲われても少女は掴んだ手を離さない。その場にうずくまってしまいそうに、徐々に膝が折れていく。懸命に耐えながら、アリーシャは呼吸を整えた。
「わ、わたしに――」
喘ぐような一言を告げるだけで精一杯だ。そして、呼吸を一つ、大きく空気を吸って声を絞った。
「力を、お貸しください、」
その時にはもう完全に座り込んでしまっていた。
やっとの事で捕まえた黒衣の裾を強く握り締めたまま、肩を上下に揺らしていた。
目の前に、死神が立っているような気がして、今にも気を失ってしまいそうだった。
公爵は驚いた様子で目を僅かに見開き、次いで細めた。
こんな年端もゆかぬ小娘が、アサシンの秘術に落ちてなお抗ってみせた事などあっただろうかと。興味深げな瞳が少女を眺めている。微かに、彼の口元に歪んだ微笑が浮いた。嗜虐的な唇から、白い歯が見えた。
剥き出しの殺意に当てられ、娘は怯む。
アリーシャは動転していた。心臓が嫌に強く打ちつけているような気がした。必死に掴んだ衣服の裾だけは、それでも離すまいと懸命に耐える。
何かされている事は確かだった。重苦しく、息が詰まって、深呼吸をすればするほど苦しくなる。歯がカチカチと鳴っていた。真綿で首を絞められているような、手も触れられてはいないはずの、この目の前の男に恐怖を覚える。目を逸らせば逃げられてしまう、何か言わなくてはと心が焦っている。公爵の術中に落ちているなど、知る由もなかった。
少女の浮かべた怯えの色は、その表情は公爵の正体を正しく理解している。アサシンの首領、恐ろしい人物という評価を。だから、いとも容易く術に落ちた。
視線に、表情に、仕草に、僅かばかりのキーワードが織り交ぜられている。少女は勝手に意識を高ぶらせ、勝手に恐怖を増幅し、勝手にくずおれたのだ。ほんの少し、暗示を与えられただけだった。
公爵の視線は冷酷で、その薄氷の瞳の色は凍りついた彼の血の色を現していた。嘲るような微かな笑みは、その真意はアリーシャには測れなかった。
「顔色が悪い。気分が優れないようだ、奥の部屋で少し休みたまえ。」
差し伸べられた手を、アリーシャは見つめる。恐ろしい相手だと、今では骨身に沁みて理解する。いやに存在感を持って、男の手が迫ってくるような錯覚を覚えた。この手を取ったら、どうなってしまうのか。躊躇の時間は実際よりも果てなく長く思えた。
座り込んだ少女を見降ろす公爵の瞳には深い興味を示す色が浮かんでいる。獲物を嬲る獰猛な顔は鳴りを潜め、観察者の顔でアリーシャを見ていた。視線が無遠慮に自身を舐めまわしている。アリーシャは、頬にまた熱を感じた。
恥ずかしい恰好はしていない、母が綺麗に編み込んでくれた髪型も、ドレスも、派手に寄らぬようそれでいて気品の感じられるようにと選んでくれたものだ。それでも、無遠慮な男の目がやけに気恥ずかしく、この場を逃げ出してしまいたくなる。謂れの無い辱めに、徐々に憤りが湧き上がってくる。
少女は差し出された手を、じっと見ていた。品定めの視線はわざと無視した。
黒ずくめの紳士は上等な絹織物の黒の手袋を付けている。手首の部分に邪魔でない程度のレースが施されていた。物の価値をよく知らない彼女にも、それが最上級の品だというくらいは解かった。
少し落ち着きを取り戻した娘の、呼吸の数が変化する。
冷静に観察を続けるアサシンの瞳に、徐々に褪めていく上気した頬と耳たぶが映る。
公爵の仮面に、冷ややかな笑みが浮かんだ。
「力が抜けてしまったかな、どれ。」
身構える暇もなく、アリーシャの身体は公爵の腕に抱きかかえられていた。
小さく悲鳴を漏らし、慌てて両手で口を塞ぐ娘を軽々と持ち上げて、公爵はその場を歩き出した。
ふわりと軽く抱き上げられて、アリーシャは動転する。
「お嬢さん、そんなに暴れられては取り落としかねない、お静かに願いたいな。」
低く通る声は、苦笑を含んでいた。レディとして、はしたない行為と気付き、アリーシャはぴたりと身動きを止めた。降ろしてもらいたいと咄嗟には思ったのだが、よくよく考えれば腰が抜けて立てない。
恥ずかしくて、顔が急に熱くなった。
「……わたしに力を貸せとは、いったいどういう事情があったのかな?」
アリーシャは頭上に降ってきた質問の回答を考えた。言い繕うことが出来るほど器用な性質ではない、何よりこの人には下手な嘘などすぐに見抜かれてしまうと思考がよぎった。
「無礼を承知でお引止め致しました。お願いしたい事があるのです、無理を承知で……聞いて頂けますか?」
恐る恐ると言葉を継いだ。侯爵の顔は、怖くて見ることは出来なかった。
苦笑と共に先を促す言葉を聞いた。そこでアリーシャは話し始める。
「わたしの家は、お恥ずかしい事ですがあまり裕福な暮らし向きはしておりません。貴族の称号も近頃では名ばかりという体たらくにあり、先祖へ向ける顔もありません。そこへ持ってきての、今回の女王選抜です。わたしのような者にまでお声が掛けられ、この度、首都へ出向くようにとの勅令を頂きました。」
「ほう、それはまことに目出度い限りと思うが、何か不都合でもあったのかな? 並み居る候補者と比べ、物入りとなっても資金の面でおぼつかぬと、そういう話だろうか?」
「いいえ、違います、公爵様。」
アリーシャは慌てて否定する。恐ろしいと噂の大貴族は、まるで憚ることなく物を言い、金の無心が用件かと単刀直入に切り出してくる。
「見栄を張ったところで、わたしなどには無用の買い物にしかなりません。都で暮らす分の調度品など、審査に通らぬ者には無用のことです。高くで買った品を使いもしないうちに安くで手放すことになるだけです。そのくらいは解かっております。」
女王選出は一年を掛けて行われる。一所へ集められ共同生活を強いられることになっていた。
候補の娘には半年あまりの猶予が与えられ、その間に、身の回りを世話する下女が数名と衣装や家財道具を用意する習わしとなっていた。これが貧しい貴族には大きな負担となり、多くはパトロンとなる大貴族に泣きつく羽目に陥った。実のところ、両親がどういう意図を持っていたかは知らない。けれど、持って生まれた貴族の矜持は何の疑いもなしに、公爵の質問を否定させた。
そこまで落ちぶれてなどいない、と。
事実、なぜ父や母が、この恐ろしい人物の後ろ盾を得ようとしているのかなど、アリーシャにはまるで見当もつかない話であった。ただ、女王候補となった娘たちは、十二の諸侯、そのいずれかの一派に属さねばならないものだという強い認識があっただけだ。およそ全ての候補はいずれかの諸侯に近付き、実質、十二の派閥に分かれてしまう。
ヴェルトーク公爵も、聞き及ぶ限りでは既に十名に近い女王候補のパトロンとなっている。他の貴族に攫われる前にと、有望な娘にはこの時期から大貴族たちの声が掛けられていた。
「わたしは……ご覧の通り、教養もない田舎娘ですし、見目も良くはありません。候補など、おこがましい事と存じております。きっと、本選でも一次審査すら通らない事と弁えております。」
「謙遜することはあるまい、君には充分他の候補者と戦えるだけの力があるだろう?」
肩が強張り、それを見透かされたようにまた頭上で含み笑いが漏れ聞こえた。
まさか。そんな念が胸をよぎる。まだ何も話してなどいない、核心に至る部分は、自身に宿る過ぎた力についてなど何一つ話してはいないはず、と焦る心の内に問いかけた。
そして、ふと、喧騒が遠ざかっている事に気付いた。
「あの、ここは……?」
誰の姿もない、さきほどまで騒がしいほどだった人の声も、まるで耳に入らぬ場所だった。
消え入りそうな震える声だけが、静まる空間に吸い込まれていった。
中庭の廊下を過ぎて人の声も遠い一角へと運ばれた。壁に掛かる燭台の、蝋燭の炎が頼りなげに揺れる。両扉が並ぶ廊下の奥へと侯爵は迷いなく進む。奥に一つ、扉の開け放たれた部屋が見えた。
真っ黒に口を開けているような一室の出入り口に、思わずアリーシャは息を呑んだ。男に抱えられ、人けのない部屋に運び込まれようとしている自身の現状に、この時になってようやく気付いた。先程とは意味の違う恐怖に身体が強張っていき、胃の下へ冷たいものがすぅと落ちるのを感じる。
その時にまた、頭上に嘲るような視線を感じた。
試されているのだ――。
唐突に浮かんだ思考を、少女はもはやおかしいとも思わない。両親の苦悩する姿が脳裏によぎり、悲壮な決意を促していく。暗闇で、男女がなにをするかも知らぬほどの子供ではない。処女王を旨とする女王選出、けれどその陰では幾人の候補がパトロンとなった貴族にその身を委ねてきたことか。
そのような事すら知らぬほど、無知ではなかった。ゆえに、少女は瞼を固く閉ざす。
貴族の誇りが囁きかける。
いくら公爵様といえども、意に染まぬ相手に操を散らされるなど、絶対に嫌だ、と。
そのような辱めを受けるくらいなら、いっそ舌でも噛んで死んでしまおうか、と。
けれど、そんな事をしたら、父様や母様は……。
選び出された娘が、喩え死んでしまったとしても違約金は支払わされる。
袋小路に追い詰められて、処刑台へと運ばれる娘は声もなく涙を流した。
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