第2話 鉱山都市ラーサ

 ひと月ほども前の話だ。

 首都ヴルンシェムより遥か北方に離れた渓谷の麓にその街はあった。


 大粒の雨が、すべての音を掻き消して降り注いでいた。まだ日も暮れきってはいないだろうに、外は真っ暗といっていい。酒場の中だけは喧騒と物騒なヤジに包まれて賑やかだ。

 大声で歌う男たちに遠慮するように、カウンターの片隅に小さく背を丸めてアレンは酒を舐めていた。でっぷりと太ったマスターは、ブラウスの袖を半めくりにしてカウンターの中で皿を拭いている。アレンを気に留める素振りはなかった。このマスターも、禿げあがった頭をつるつるにしている。少し頭頂部が尖った頭の形をしていた。


 小汚い店だ。

 古くは炭坑で栄えた街だったが、今では寂れかけた過疎の土地だ。人々に打ち捨てられた街に似つかわしいうらぶれた酒場は、壊れかけの扉を修理するほどの気力もない。隙間風が押し入るごとに、外の雨音も一緒に連れてくる。燻製のように燻された煙は渦を巻き、煙草とローストと安いオイルランプを燃やした煤とが混ざり合って、脂ぎった下品な匂いを造り出していた。この街全体がどこか煤けて黒ずんでいる。


 雨に濡れた街並みは、谷あいを埋めるほどに家屋が立ち並んでいるが、ほとんどの家は門戸を釘で打ち付けた廃屋ばかりで残っている住民は僅かだ。その僅かばかりの人々が日々の憂さを晴らしにこの店に集まっていた。女っ気もない、安い酒と大雑把な料理しかない店だ。

 家屋はどこも漆喰が剥がれ落ち、内側の煉瓦が風雨に晒されている。この店はまだマシで、酷い所になると藁ぶきの屋根が陥没して大穴が開いてしまっていた。この店のような陶器製マイセンの瓦葺きや亜鉛板のトタン屋根はまだ無事だ。人の住まない家屋の痛みは激しい。総じて廃墟に近い街だった。


 住民はもともとここに住んでいた者たちなどごく僅かで、ほとんどは流れ者だ。国からも打ち捨てられたような土地には、ワケ有りの人間が自然と集まるものだ。首都は遠く遥か彼方で、街を治めるはずの領主の館や城下町ともずいぶんと離れている。廃れるに任せて放置されている土地は、アウトローたちの格好の隠れ家だった。アレンという名のこの暗殺者も、気の置ける安全な土地に長年住み付いている一人だ。


 この土地はヴェルトーク公爵家の領地のうち、もっとも東端に位置して山を越えた先には未踏の深い森が手つかずで広がっている。昼なお暗い鬱蒼とした森林には多くの魔獣も棲息している。この街より向こうは、人の住む領域ではない。


 アレンは出来の悪い去年産の赤ワインを呑んでいた。

 渋味ばかりで喉の奥がしわがれてきそうな拙い酒だ。発色も悪く赤みは薄い。香りなどこれっぽっちも有りはしない。安い、本当に安い酒だ。それを文句も言わずに喉へと流し込んでいた。歪なワイングラスには気泡が浮き、これも職人の腕の悪さが反映されて持ち手は少し曲がっている。ガラス工芸品は公爵領での基幹産業だ。城下の街には煉瓦造りのガラス工房が多く立ち並ぶ。寂れているのはこの街ばかりで、領内の他の街や村はおおむね順調に栄えている。帝国の、他の土地よりは裕福な領内の暮らしぶりが伺えた。


 グラスの傍の皿には揚げた魚が乗っていて、何かのディップが添えられていた。

 口を大きく開けたずん胴の魚だ。この辺りのヘドロ溜まりで育つなら、鯉だろう。内臓の詰まっていた肋骨辺りの空洞がひん曲がって、この魚を"く"の字にしている。背骨折りに悲鳴を上げたような格好で、スパイスの効いた香ばしい匂いを漂わせている。皿の、丸く空いた白い空間に黄緑色のディップがこんもりと盛られていた。

 川魚は泥臭く、けれど野菜ばかり刻んで作ったこのディップにはよく合っている。料理人の腕が良いから食えるといった体だ。骨まで食べられるように下処理がされており、カラリと揚がった魚は口に入れればバリッと音がする。フライヤーを使い、圧力を掛けて一気に揚げるからだ。衣にも工夫があるのだろう、キツネ色を通り越してカラメル色になった魚は頭の先から尻尾まで、カリカリに揚がっている。フォーク一本で解体できる、添えられたナイフなど必要なかった。


 突然、店内の喧騒が消えた。

 ちらりと視線を投げると、戸口に立つ一人の少女を見咎める。皆の目がこの少女に集中し、口を噤んだものらしかった。ずぶ濡れの少女は垢抜けない風体で、みすぼらしい身なりをしている。乞食かと人々の目が細まった時に、娘は恐る恐ると店内に足を踏み入れた。


「おい、なんの用だか知らんが、ここは子供の来るところじゃない、帰りな。」

 カウンターの中からマスターが声をかける。構わず少女は店内へ入り込んだ。

 立てつけの悪い壊れかけの扉がキイキイと高い音を奏でた。少女は中の空気に顔を歪め、口元を手で覆う。酒の匂い、酒を呑んだ男の吐く息の匂い、生臭い魚の匂い、煤けた煙の匂い、おおよそ芳しい種類のものはない。


「あの……、アレンという方は、ここに居らっしゃいますか?」

 少女の言葉に、皆の視線が一斉にカウンターの隅へと移動した。呼ばれた本人は逆に視線を戻し、食事の続きに戻っていたが。


 おさげの少女だ。燭台の灯に照らされてブロンドの髪が輝いている。明るい蜂蜜色の髪は両肩へ届く長さで三つ編みに結われており、少女の動きに合わせて揺れる。バネのように賑やかなアクセントだった。今は、雨に濡れて少し重そうに見える。

 血色の良い頬は薔薇色で、薄くソバカスが散ってはいるがおおむね見目の良い顔立ちをしている。あと数年もすれば美しい娘に成長するだろう。細い四肢は色気もない子供の体型を示し、年齢に見合った色気のない服装をしていたが。ラクダ色の厚手のコートは雨合羽だろうが、あまり用を成しているようには見えなかった。いくら撥水加工をしてあっても、外の土砂降りは容赦がない。少女はコートのボタンを外して脱ぎ掛けて、また引っかけ直した。中に着ていた服まで濡れそぼっていた。


 襟のすぼまったワンピースは紺色で袖口も同型ですぼまったデザインだ。ふわりと広がるスカート部分は膝丈で、黒い靴下に白いショートブーツを履いていた。服装を見る限り、ある程度以上の裕福な家庭の娘だろう。

 ぬれねずみに濡れていて、泥撥ねで汚れていたために一見ではみすぼらしく見える。今年の冬は暖冬だが、それでも冷たい雨に打たれて、少女は震えながら立っていた。


「アレンってえのは、どんなアレンさんだ? 同名のヤツなんぞ五万と居るが。」

 素知らぬ顔でマスターは嘯いた。

 自身は皿拭きを終えて、小さなミルクパンに持ち替えている。

「アレン・バ―ミリアン・ヴェルトーク、」

 ガツン、と小鍋が強く打ち鳴らされた。少女がぎくりと肩をすぼめる。


「お嬢ちゃん、滅多なことは口にしない方がいい。その名を語ることは寿命を縮めかねない。」

「い、いいえ! 違います! ヴェルトーク公爵様からご紹介頂いたんです、同名のアレンという配下の者がこの街に居ると! 腕利きだから、その者を頼るようにと言われたんです!」


 少女は慌てて否定し、そして周囲を見回した。

 敵対する瞳が多数、今の今までただの傍観者だった者たちの視線が少女に突き刺さっている。この街は、危険な人種の屯する街だ。その事を承知で足を踏み入れたはずの少女はしかし、雰囲気に気圧されて怯えの色を濃くしてゆく。


「アレン・ストレンジの方か、ならそこに座ってるソイツだ。いったい、何の用だい?」

 マスターが顎をしゃくって、カウンターの隅に視線を移した。痩せた男、アレンが座っているが、この男は騒ぎに興味を示すことなく食事に専念している様子だった。

 少女は男のすぐ傍にまで歩み寄る。

「あの……、アレンさん、ですか?」

「ああ。」

 ぶっきらぼうな返事が戻る。それきり、男は何も言わなかった。

 アレンは興味を失くしているが、少女はこの男に興味津々の目を向けて、男を観察していた。


 黒ずくめの服装をした男だ。以前に見たヴェルトーク公爵も黒ずくめの貴族だったが、こちらの男のほうがまだ声を掛けやすい雰囲気を醸していた。ぼさぼさの黒髪に、首をすっぽりと隠すタートルネックの羊毛の服。フォークとナイフを操る両の手がいやにしなやかな動きで皿の上を行き来していた。暗殺者は手先が器用だ。

 再び、カウンターの中からマスターが娘に声をかけた。


「紹介と言ったが、物事には順序というものがあるのは承知してるよな、お嬢ちゃん?」

「ええ、もちろん。」

 少女は、きつく口元を引き結び、アレンを睨んだ。

「わたしは、アリーシャと申します。帝国南部の小領地を治める貴族、エストローフ家の娘です。先代の女王陛下が主催なさった晩餐会で、公爵様とお会いしました。その時に、貴方を紹介して頂いたのです。」

 娘の視線を完全に無視したまま、アレンは食事を続けていた。

 代わりにマスターが対応している状態だった。


「エストローフ? ……知らんなぁ。まぁ、大貴族でもなければ、いちいち貴族の名も覚えきれたもんじゃないが。こっちのアレンを紹介されたって事は、仲介か何かかね? まぁ、とりあえず座るがいいよ、ほれ、あったかいミルクだ。」

 手にしていたミルクパンを傾けると、湯気のあがる白い液体が木製のコップへと注がれてゆく。

「あ、あの……、わたし、今、手持ちが、」

「なに、注文も無しに淹れたミルクに値段なんぞ付けないよ。遠慮せんでいい。」

 アリーシャと名乗った少女は途方に暮れたように、注がれるミルクの流れを見ていた。

 促され、おずおずとアレンの隣に腰掛ける。


「あの、アレンさん。折り入って、貴方にお願いがあるのです。どうか、わたしの護衛を引き受けて頂けないでしょうか? 公爵様には、事情をある程度お話ししています、頼れる人が誰も居ないんです、お願いします。」

 切羽詰った表情で、アリーシャが男を見据えて言った。


「ギルドからの委任状は持っているのか?」

 口にした魚の身を軽く咀嚼して飲み下し、改めてアレンが少女に聞いた。

「え……? 委任状、というものが必要なのですか?」

「公爵に会ったなら、言われたんじゃないのか? それより先に、お前の両親はそういう世間の約束事を教えていなかったのか? 他人に依頼をする時は仲介所を通して行うことがルールだ。」

「済みません、わたし、ものを知らなくて……、」


「なんだ、その辺りのことをアレンに託してたって話じゃなかったのか。」

 マスターが大きなため息を吐き出した。

「俺は初めて聞く。」

 フォークに魚の身を刺したままで、アレンが答えた。

「なんだそりゃ。まるで話にならないじゃないか。」

 大袈裟なジェスチュアを加えて、マスターはアリーシャに向けて言い放つ。


「口約束など何の信用が置けるというんだ、大貴族の名を出せば引き受けて貰えるとでも思ったのかい、お嬢ちゃん。どんな職であろうが、ギルドからの委任状も無しに仕事を受ける阿呆は居やしねぇ。普通は仲介所を通すもんだ。大きな街ならどこにでもその手の仲介所はあるだろう、冒険者なり傭兵なり、どんな者でも雇えるはずだ。そもそも、暗殺者を護衛に雇うなんて話は聞いたこともねぇ。出直して来たがいい。」


「いいえ! もう引き返すことは出来ません! 今も、ようやく見張りを振り切ってここへ来ることが出来たくらいなんです、このまま帰ればわたしはきっと殺されてしまいます! どうか助けてください、お願いします!」

 よほどの事情があるのだろう、アリーシャは必死の顔をしてマスターに言い返し、次いでアレンに懇願する瞳を向けた。命の重みを尊重する者ならば良かっただろうが、アサシンは対極にある者だ、眉毛一つ動かさなかった。藁をも掴もうという視線が、再び暗殺者からカウンターの中の男へ移動する。


「お嬢ちゃん、話がさっぱり見えない。このアレンじゃなきゃ駄目だっていう理由は?」

 半ば呆れた顔をして、マスターは少女の前へ木のコップを差し出した。

 アリーシャが口を開くよりも先に、アレンが口を挿む。

「女王候補に選ばれたか何かじゃないのか? 断ればいいだけだ、無理に首都へ行こうとしなければ命を脅かされたりはしない。」

 少女を無視したまま、男は言い放つ。アレンは格闘中の皿の中身をいよいよ始末しようという場面だった。

 最後に残ったのは砕けた少量の魚の身だ。二、三、フォークを動かしてディップと絡めると掬い取って口へ運んだ。丁寧に下処理の為された魚料理は、食べ残しも出ることなく綺麗に皿が片付く。骨の一本も残らず、皿は何もない空間と化す。アレンは満足げに、目を細めた。


 女王候補という言葉の登場に、静かだった店内はさざ波の立つような低い声に満ちていく。ひそひそと声を落として、荒くれた男たちが顔を付き合せて囁き合っている。

 現女王が病に冒され、病状も芳しくないらしいという噂は帝国中に広がっていた。このアリーシャという少女と、さほど歳も変わり映えのない年代のはずだが、不運の星に生まれたようだった。


 候補はある特殊な方法で選び出される。指名制であり、棄権することも可能だった。毎回、様々な理由で女王選任を辞退する者は相次ぐ。そんな話が低く囁かれている。

 マスターは皿を拭く手を休め、本格的に少女の話を聞く姿勢を作ってくれていた。

 アリーシャは苦渋の表情を浮かべ、絞るように言葉を紡いだ。


「それも……駄目です。わたしは首都へ向かい、選出戦に出場するつもりです。」

「命を狙われてるってのに、女王選出戦に出ようってのか? 言っちゃ悪いが、お嬢ちゃんじゃあ一次審査で落ちちまうぞ?」

「解かってます。わたしは女王になりたいわけじゃありません。一次審査で落ちたなら、それで国へ帰るつもりです。落ちた候補の命など狙われはしないでしょうから。」


 マスターは、それ以上の事情に口を挿むことをしなかった。

 およその事情は伺える。小さな領地を拝領しただけの無名の貴族は、その懐事情も窮屈なものだ。栄えある女王選出を辞退するには、それなりの事情と、なにより金が必要になっていた。

 黙ってしまったマスターと入れ替わりのように、少女の隣でアレンが口を開く。


「事情は解かったが、それでもお断りだ。紹介状も持たない娘の護衛など引き受ける気はない。」

 アレンは手に白い布を持っていた。口元を軽くぬぐい、履いていたカーゴの沢山あるポケットの一つへと捻じ込んで戻した。この街でハンカチなどという洒落たアイテムを持ち歩く者は少ないだろう。

「おい、アレン。女王候補だぜ? いいのか?」

 戸惑いで、マスターは少女と客の男を交互に見る。

「女王候補と言ってもピンキリある。途中で音を上げて引き返すのがオチなら、行くだけ無駄だ。」

「そりゃ、そうだろうが……、」


「お願いです! わたしには貴方しか頼れる人が居ないのです! どうか、護衛を引き受けてください、お願いします!」

「シルバードーンまでなら付き合ってやる、どうしてもと言うならあの街でギルドを頼ってみるといい。」

「わたしはそのシルバードーンから来ました! 向こうには敵の送り込んだ刺客が、わたしの護衛団の顔をして待ち受けているんです、帰れません!」


 切羽詰った娘の告白に、店内は一層にざわめいた。

 帝国側の用意した護衛団が丸ごとライバル貴族に買収された刺客である、といった事柄はまことによく聞かれることだった。有力貴族であれば自前で護衛団を付け、用意の護衛を退けることが通常だ。大掛かりな事が出来ない弱小の貴族たちは、運悪く娘が選出された場合には泣く泣く送り出すか、有力貴族に助力を求めた。

 この娘の両親もまた、最有力諸侯であるヴェルトーク公爵に泣きついたものだと、誰もが考えた。


 アレンはまた黙り込んでしまった。マスターに酒をもう一杯追加で注文し、それきり口を噤む。出てきたワインボトルの口にさきほどのグラスを掲げ、並々と注がれる赤い液体を受け止めた。何かを考え込んでいる表情をして、むっつりと不機嫌そうな顔をしている。

 誰かの囁きが遠慮も知らずでカウンター席の二人へ届く。

 アリーシャは耳をそばだてた。


「……まぁ、十二宮に残るほどの娘なら、価値もあろうってもんだがなぁ。」

「十二宮?」

「なんだ、知らないのか田舎者め。あのなぁ、そもそも女王様ってのはな傀儡なんだよ、有力諸侯の。」

「しーっ! 滅多なことは言うな、この時期は要注意だぜ。」

 周囲を見回し、黙ってしまうテーブル席の三人組。その隣のテーブルでは得意げな男が得意げに話している。

「女王様は選出制で決定する。何百人の中から十二名に絞られるんだが、最終の十二名は必ず最有力諸侯である四大公と八大貴族の推す娘と相場が決まっているんだよ。」

「国政を牛耳ってんのがそれらの貴族だから、それ以外の推す娘は上がって来ないんだよな。」

「途中で有力諸侯の後ろ盾に代わってたり、わりと選出戦は陰謀で真っ黒なんだぜ?」

「へー、」


 慌てた様子で口を噤み、ジョッキを呷る者たちが居れば、別のテーブルでは別の声が聞かれた。

 アリーシャは落ち着かない様子で、手の中のコップをもて遊んでいた。


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