第1話 首都ヴルンシェム
ラ・デ・ヴルンシェム、首都の名の由来は『女神に捧げる大地』。
喧騒と腐敗と享楽の都は四方を山に囲まれる盆地に、シャーレにはびこるカビのような勢いで広がっていた。
王城の傍にもっとも古い外郭が、半ば崩れかけの状態で存在し、その東西を大通りが貫く。後の時代、次々と無計画に増設された新旧の外郭が、まるで迷路のようにこの歪な都市を蜘蛛の巣の状態に編み上げていた。
煉瓦の素材は時代によって異なる。古い時代には霞んだ薄い茶色が多い。新しい時代では赤黒いものが多くなる。住む人々の気質に見合って、雑多で無秩序で大雑把に、それらの煉瓦は無造作に組み合わされて崩れた箇所を補強し、街角をさらにパッチワークで歪にしていた。
外郭は必要だ。外世界には凶悪な魔物が闊歩する。煉瓦を積み上げ、防波堤を築いた内側でしか人々は暮らせない。流通には運河が無数に整備され、盆地の真ん中を通り抜ける大きな河川が動脈となって物資の流れを支えている。縦横に掘が引かれ、盆地はまるで堰き止められた巨大湖のようだ。小さな掘割りにまで石造りの橋が架けられ、街中至る所に大小の橋が見える。外郭と運河とで街はパッチワークされ、飾り縫いの糸目のように幾多の橋が架かっている。
近年、都に掛かる千の橋に新顔が増えた。
上から覆い被さる鋼鉄の陸橋は、高速鉄道網の一つだ。白銀のレールを乗せた煉瓦建築が山の麓の森林から延び、吊り橋を経由して首都を貫き、反対側の砂漠の谷間へと消えていく。街並みは古くからあり、鉄道の方で跨ぎ越さねばならなかった。巨大な鉄の塔がそびえる景色は、どちらが王城であるのかと揶揄されるほどだった。
湖の中に蜘蛛の巣のような街が浮かんでいる。太い銀糸で真ん中を通して、白銀の塔に留められたブローチ、山道を抜けた峠から見るこの国の首都はそんな情景だ。
峠の開けた場所で、馬車は立往生をしていて、為に件の首都を眼下に望む時間の余裕が出来ていた。普段なら、山道で呑気に景色を楽しむほどの余裕は、旅人達には与えられない。
山の中では、昼夜の別なく魔物に襲われる危険が高く、魔物以外でも山賊や野盗の類が出没した。時には魔物と人の混成部隊までが跋扈した。魔物と共に暮らせるらしい彼等の生態も謎に満ちている。
旅人は馬車を用意し、隊列を仕立てて集団で移動するか、大きな帆船を数隻、これも旅団の形状に仕立てて海路を征く。比較的安全といえる鉄道もあるが、武装はもはや必然だつた。大集団の移動でなければ、この世界は危険過ぎた。
馬車の一台が車輪の脱落で修理を要するために、幌馬車隊は峠のあたりで停車している。二十台の馬車はそれぞれに屈強な用心棒を乗せており、合計すれば一つの部隊ほどの人数となる。そのくらいの傭兵は用意しておくのが常のことだった。外世界は敵が多い。今はすべての兵士が外に待機し、周囲への警戒を怠らない。
冬の木々は枯れており、視界は悪くない。茂みに隠れながら近寄る敵が居なくなることは利であり、馬車での移動は冬場が最適とされた。山の中腹に峠道は沿っており、山の頂に道はない。一面が枯れ、茶色に染まる景色の中に、棘のような裸の木々がまばらに生える。空気は澄んでおり、堆く積もる枯れ葉の模様が山頂に至るまでくっきりと見渡せた。反対側の下り斜面も同様に、積もりに積もった枯れ葉の絨毯と裸の樹木ばかりが目に映る。
視界は良好だ。空は晴れ渡り、空気は乾燥して鼻の奥をキナ臭いものにする。足元の枯葉が身動きの度に煩く鳴り響いた。
女子供は馬車から出ない。代わりに傭兵たちが、油断なく周囲を警戒しながら等間隔で馬車の傍を歩いていた。
「修理が終わり次第、急いで山道を抜けなければならん。」
隊長のコンラッドが言った。
この峠道は近くに山賊の根城がある。首都にやって来る商隊が狙われる、非常に危険な街道だった。俗にいう裏街道であり、主要交通路は別にある。わざわざ裏道を通るべき理由が、この幌馬車隊にはあるのだ。
「谷あいの村が全滅して、賊の隠れ家になっているらしい。一つの村を滅ぼすくらいの輩だ、強敵には違いない。あんたはどの程度、腕に覚えがある?」
探りを入れるような、定石通りの言葉をコンラッドは吐き出した。
情報を渡す代わりに、自身が欲しい情報を引き出すこの手の会話は、旅人の間では頻繁だ。
「考えたことはないな。依頼人を守りきるに足る程のものは、備えているとは思うが。」
コンラッドが話しかけた男は、抑揚のない低い声でそう答えた。
コンラッドはこの馬車隊を護衛する依頼を受けた傭兵団の隊長だ。荒くれ共を束ね上げる程度には腕が立ち、才覚もある。百戦錬磨の屈強な男は、目の前にした細身の男を胡散臭げにねめつける。
筋肉の塊のようなこの大男と比べ、アレンと名乗った相手の優男は貧弱に見えた。共に壮年に近い年代で、決して若造ではない。互いが手の内を隠し、駆け引きの会話は淡々と短かった。
防具は両者ともに軽装だが武器の類は多数を所持している。斜めに背負った大剣と、腰にはショートソードを下げ、銃器も携帯している。大剣は、大型の魔獣相手だとそれでしか傷を与えられず、ショートソードは主に接近戦、銃器は速度のある魔物にと、それぞれで用途が違う。スピードのある魔獣だと、接近されることはそのまま死を意味する。魔獣は人間が対処出来る範囲を超えた敵だ。携帯出来る弾数には限りがあり、正確な射撃の腕が要求された。
鎧の類など飾り程の意味もない世界だ。安全な城壁の中にしかその用途は存在せず、身動きを制限する上に防御に期待も出来ない装備を、塀の外で着用している者など見ることはなかった。
遠い昔の、人や獣しかいなかった時代には、これらの鎧も戦場で使われていたという。いつ頃か、魔獣の類が出現してから後の時代では儀式にしか使われなくなった。
コンラッドはスキンヘッドを、黒い革のグローブを嵌めた右手でぴしゃりと叩く。それがこの男の癖のようだ。薄い麻のシャツは袖をまくしあげて肩を剥き出しにしている。こぶのように盛り上がる肩には古い大きな傷があった。ゆったりとしたシルエットの黒いカーゴパンツは機能的なデザインで幾つものポケットが付いている。その一つ一つにも多くの小道具が仕舞い込まれていた。筋肉の塊とはいえ、この季節には間違った服装だ。今日は陽があり、暖かい日和だったが。
アレンも似たような身なりだ。袖が長く、全身黒ずくめという点を除けば、似たような身なりの、けれど対象的な体格をした二人の男。黒い衣服に隠された身体は一見とはまるで違うに相違なかったが。
彼にどれほどの柔軟な筋肉が備わっているかは扱う武器である程度の予測が付けられる。背にした大剣はコンラッドの物より大振りだ。それだけ重量があり、扱う者の技量と膂力に左右される。見栄で装備を選ぶ者など居ない、その武器は飾りではない。純粋の腕力以外にも、人によっては別種の、強力な武器を持ち合わせている。
アレンは洒落者ではなさそうだ。飾り気のない真っ黒尽くしの衣装と、自身で無造作に切ったものか、頭髪はボサボサだった。黒髪の隙間から覗く鋭い視線はいやにはっきりと印象に残るくせに、顔全体となると途端にぼんやりと輪郭すら失われる。両目以外の印象が薄すぎる男だった。
「アレン、」
ふいに掛けられた女の声に、男は振り返る。
幌の端を持ち上げて、少女が顔を覗かせていた。金髪を無造作に編み込んだおさげが揺れる。少しソバカスがあり、田舎娘そのものの風体で、こちらも垢抜けない。少女は不安げな表情を浮かべて男を見ていた。
「危険だから顔を出すな。」
「うん、解かってる。これ、お昼のパン食べて。」
近寄って幌を戻そうとする男に、少女は手にした小さなパンを押し付けた。
アレンが少女の手から薄茶色の丸いパンを受け取ると、さっと奥へ引っ込み幌の口が閉じる。
「メシか、そういやそんな時間か。おい、まだ掛かるのか!?」
離れて見ていたコンラッドは、自身の腹を撫でさすり、前方の人だかりに向かって荒れた声を投げつけた。脱落した車輪は軸が折れていたから、修理にはそうとうの時間が掛かると前もって聞かされている。
「俺も何か食ってこよう、引き続き警戒だけは怠らないでくれ。」
踵を返し、半分捻った姿勢で注意を促してから、コンラッドは自身の馬車へ戻っていく。ぞんざいに頷いて、アレンはその後ろ姿を見送り、無造作にパンにかぶりついた。濃厚なシナモンの香りが鼻孔を突く。改めて小さなパンをしげしげと見つめた。
薄茶色の渦巻き模様が付いたパンは、おそらく昨日立ち寄った街で買ったものだろう。ベーカリーが並んでいたから、そこで入手したものだ。一晩が過ぎて少しばかりパサついているが、シュガーがふんだんに使われて、真っ白のアイシングがぽろぽろと指の隙間からもこぼれ落ちる。砂糖は贅沢品だ、勿体ないと思うと同時にひどく甘ったるい味覚が口の中に広がり、顔をしかめた。
「甘い、」
女子供が好きそうな味だ。おまけに指先がべたべたする。
再び口を開き、一口で残りを放り込む。咀嚼もそこそこにごくりと飲み下した。
摘まんでいた三本の指を順に舐めて、最後に自身の唇をぺろりと舐める。予測なしで驚いただけだ、アレンは甘味が嫌いではない。保存食の黒パンと思い込んでいて、意表を突かれただけのことだ。
女子供でもあるまいに、こんな小さなパン一つきりでは逆に空きっ腹に響く。それと解かっていたはずだが、男は少女の気遣いを無碍にすることはなかった。
「アレンさん、」
再び、男に声を掛ける者が現れる。
でっぷりと太った中年の男だ。傭兵たちが機能性を重視した装いを好むように、商人はこの男のように見栄えを重視した衣装を身に付けている。一目で商人と解かる服装は、あらゆる場面で取引をスムーズにするからだ。例えばこんな山中で賊に襲われた時にすら。
絹のゆったりとしたブラウスとひざ下までの半丈のズボンに、革のブーツ、そして、シューコットと呼ばれる独特の上着を被っていた。袖のないくるぶし丈の筒型の服だ。冬場には厚手の布に毛皮の裏地があしらわれる事が多く、この男の物もそうだった。キツく、防虫菊の燻した臭いを歩くごとに周囲へ撒き散らしている。風邪っぴきで詰まった鼻でもこの男の匂いを嗅げば、一発で通ってしまいそうなほどの、清涼な刺激臭だった。ハッカよりもまだキツいだろう。アレンは顔をしかめたが、商人は一向気にならないらしかった。
「昨夜は失礼しましたかな。いや、貴方が女に興味がないと聞きまして、それならばと耳目の良い若いのを選んだつもりだったのですが、やはりお気に召しませんでしたか?」
媚びた視線を商人はアレンに向けた。
「無用の気遣いは止めてくれ、迷惑だ。気を遣われるほどの謂れもない。」
冷たくあしらう男に、商人は揉み手で食い下がる。歩き出したアレンの後を、ひょこひょこと、ついて歩いた。
「いいえ! 先日も、先々日もお世話になりましたよ! なぜか今回の旅は危険がたび重なり、その度ごとに皆様にはお世話になっております、出来る限りと御恩を返させて頂いてはおりますが……、その、旦那様におかれましては、他の皆様のようには参りませんようで。はい。」
「それが要らん世話だと言うんだ、」
食い下がる男の言葉をぴしゃりと弾いて、アレンは馬車の前方へ廻り、馬の轡を確かめた。僅かに小細工された跡を見つけ、眉を顰めた。
男は奴隷商人だ。やむを得ない事情がなければ、乗り合せたいとも思わない輩だった。卑賤な職業の筆頭が奴隷商であり、金貸しよりも嫌われる。多くの国が彼らの身分を低く設定し、人々の嫌悪を一身に集めさせ、国政への不満を躱すための材料として利用している。
首都には、異教徒お断りと書かれた看板も多く掲げられており、異教の神を信じる彼等と、そうでない者たちとの間の感情的な軋轢は深刻なものだった。
賤しい身分ゆえに、傭兵を雇っても必要以上に彼等に媚びへつらい、夜な夜な奴隷女を宛がい機嫌を取る。アレンは先日忍び入った女を馬車から叩き出し、昨夜は年端もいかぬ少年を危うく殺しかけたのだ。
「奴隷はひと財産ほども価値があるはずだ。誤って殺しても責任は負わんぞ。」
「そ、そんな、アレンさん。」
「不用意に人を馬車へ近寄せるな。この隊へ身を寄せることを許可してくれた、それだけで充分だ。要らん気遣いは無用としてくれ。俺と依頼主にとっても危険だったから応戦したまでだ。恩に着る必要はない。」
一気に捲し立て、アレンは言葉を切った。
顔をあげ、枯れた山頂を見上げた。
「それより、奴隷たちを隠したほうがいいぞ。山賊の襲撃が始まる。」
「ひっ!?」
襲撃と聞いて、奴隷商は大仰に驚いてみせた。幾分芝居がかって見えるのは、この種の商人には珍しくもない。それは彼らの処世であったし、職に応じて何らか特色を持つことは何も不思議ではなかった。
魔法が使えるのは王族だけと相場が決まってはいるが、それに準ずる特殊な力を一部の者は持っている。
商人には商人に適した能力、傭兵には傭兵に適した能力があり、多くは能力を有効に使える職に就くため、職業を聞けばどんな力が使えるかの予測が付けられた。能力は能力であり、魔法とは一線を画する。
「お前に買われた奴隷たちは幸運だ。お前の特殊な力は、どれだけ過酷な状況にあっても彼らの安全を保障してきた。今回も、お前が死なない限りは奴隷たちの安全も確保されるだろう。そして、我々、戦う者にとっても、懸念材料が減ることは喜ばしいことだ。」
アレンは奴隷商を促し、行動を起こさせた。
この男の能力が、自身の財産に限りですべてを自身の背負うリュックの中へ仕舞い込めることを知っていた。生物非生物を問わず。男は慌てて各馬車を回り、己の財産である奴隷たちを背にした大きな麻袋の口へと押し込んでゆく。その光景は、知らぬ者が見たならどうにも理解の範疇を越えたものだろう。
小さな麻の頭陀袋に、次々と人間が吸い込まれて消える。
最後に奴隷商は、さきほど少女が顔を覗かせたと同じ馬車の幌を跳ね上げ、中へ飛び込んだ。
「じっとしていろ、息を殺して待て。」
幌馬車の入り口近くへ寄ってきた非戦闘員の誰だかを乱暴に押し戻して、アレンは背を向けた。傭兵たちは油断なく、それぞれの武器を手に、飛び道具に備えて物陰に身を潜めて待っている。
暗殺者は彼らに倣い、車輪の影に潜みながら、最初の戦いを思い出していた。主となった少女を守る為だけではない、自らの運命に挑む発端となる戦いだった。否、あの大規模戦闘より前に、もう一つ、密やかな戦闘を経ている。一対一の。
たぐり寄せた記憶は少女との出会いを鮮明に思い起こさせ、この暗殺者に僅かばかりの苦痛を与えた。腹に受けた、既に消え失せたはずの傷がじくじくと痛んだ。
旅程のうち、何度となく繰り返されてきた戦闘がまた始まる。
緊迫の空気が流れていた。
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