情景描写好きに捧げるファンタジー

プロローグ

　ずぶりと突き刺した剣が。

　引き抜かない限りは血が出ないものだと思っていた。

　嘘だった。

　腹に深く刺さった白銀の刃も、激しく隆起する腹筋も、雨に流され薄紅色に濡れている。

　引き抜けばどうなるかを知っているのか、男は激痛に顔をしかめながらも剣を両手で強く握っていた。苦悶の表情、けれど目鼻立ちはぼんやりとして、記憶に残らない顔は見覚えもなく、霞んでいる。

　雨のしずくが前髪の先から落ちている。濡れそぼった髪の色は黒かった。細身の男で、上は裸で。剣を掴む指の合間からも薄く血流が流れ、薄赤い筋が幾つも肌に沿って流れている。雨に混じり、滲んだ。

　血の流れは、真っ赤じゃないんだ。

　ほんのりと赤い液体はさらに広がり、両手と腹を染めて僅かな光源にてらてらと光る。剣の刃と肉の境目は鮮やかな赤だった。皮膚を破ったその奥の肉が盛り上がるように溢れ出て、赤い身が白い刃に絡んで貼り付く。ぴったりと。

　刹那の瞬間だったはず。

　それなのに、やたらと長い時間のコマ送りで、映像は脳裏に焼き付けられていく。

　泥にまみれた己の靴の底が、男の腹に吸い付いた。白いショートブーツは薄汚れて茶色のまだら模様が浮いていた。恐慌が起きていて、無我夢中で、剣を取り戻そうと思っただけだ。肉が引き攣れて、嫌な擬音を手の平に届ける。引き抜く刃に吸い付いている。肉が。怖気が走った。頭の中は真っ白だった。

　貼り付いた肉が引っ張られて、ズリズリと、感触は刃を突きぬけて手に届き、腕を伝って脳天をざわつかせる。

　一瞬だったはず。

　五本の指がぽろぽろと落ちる。

　二つ折りになって、男が膝を着いてうずくまる。

　泥が、撥ねる。

　雨が降っていて、世界は灰色で、男の腹が真っ赤で、泥が赤黒く染まる。

　腹には血の塊が息づいていた。ぶくりと大きな泡があり、指のない手の上で盛り上がり溢れ出た。

　赤い湧き水のように腹の上で血が盛り上がり、止めどなく溢れている。

　赤黒い泥が、男の周囲に広がって、足元へ迫ってくる。

　水溜りに溶けた血の色は黒く、蛇のような速度で雨の波紋に乗って進む。

　雨の音が、耳鳴りに混じっている。

　灰色が渦を巻く空。針のように振り落ちる銀の軌跡。刺さりそうな銀に煌めく糸くずが、澱んだ灰汁を満たす暗い空から大量に落ちていた。大地に叩き付ける針のカーテン。

　男は前のめりに泥の中へ倒れ、指のある手が伸ばされていた。

　雨で流され、血の赤は薄桃色に希釈されて、爪の間は赤かった。

　節くれだった太い指に、四角く切られた爪。掴みかかろうとしているかに見えた。

　鉛のように重くなった身体は、もう自身では寝返りすら打てないはず。

　恐れながら剣の先で瀕死の男を裏返す。目は鈍色（にびいろ）に、濁っていた。

　白い小さな手が伸ばされ、勢いの衰えた血の噴流に向かう。

　わななく手は血に染まり、見る間に雨に洗い流され、薄紅の傷の上へと重なった。

「我が真名と、王命の契約にもとり汝をここへ呼び寄せる、癒しと生命の源、精霊の母、偉大なる大地母神ヴルンシェムよ、我に力を貸し与えよ、その魔力持ちてこの者の命永らえるべし。」

　鈴の鳴るような美しい声が旋律を紡ぐ。微かに上ずった声は時折調子を外す。

　震える手はぼんやりと光り、灰色の景色に仄明るいオレンジの色を差した。

　噴き上がる血溜まりが、見る間に消えてゆく。赤黒く開いた肉の切れ目が萎んで塞がった。

「さぁ。望み通り、覚悟のほどは見せました。約束ですよ、わたしの護衛をしてくれますね？」

　切羽詰った鋭い声が、男の上に降りかかった。

　傷は文字通り消えてなくなり、血の気の失せた肌になおも冷たい雨は降り続ける。

　幼い手は男を引き起こそうとして、男の腕に跳ね除けられた。

　灰色と暗い血の色に染まっていた世界が、とりどりの色合いを戻し始めている。

　少女は、初めて男の顔を認識することが出来るようになった。

　暗殺者の顔かたちは、見ようと思う者には見えない。