第51話 愛情表現と性欲と 後編

 いきなりラムズの顔が近くなったせいで心拍が上がった。なんだか怖くなって、わたしは彼の肩に手をつく。押し退けようとする。ラムズは唇の端を持ち上げて、両手でわたしの腕を抑えた。


「ちょ、ちょっと」

「動けないだろ? こうすると」

「ええ、そうだけど。分かったから、放してよ。それに魔法を使えば人間なら別に……」

「俺は人間じゃないからな。メアリの魔法じゃ無理だな」

「でもラムズはこういうことしないでしょ!」

「さあ?」


 ラムズはそう言って笑うと、顔をさらに近付けてきた。ちょ、ちょっと待って。このまま近付けたら唇が当たる、から。ちょっと。



「メアリ」



 彼の冷たい息が唇を撫でる。ひやりとして、わたしの全身に鳥肌が立った。冷たかったのに、唇はどんどん熱くなっていく気がする。

 わたしは瞠目どうもくして、彼の顔を見た。ラムズは相変わらず、口元に微笑をのせながら私を見下ろしている。



 ラムズは身体を起こした。


「ほらな。こうされたら何もできないだろ」

「わ、分かったわよ……」

「性行為をする時は、まず裸になるんだ」

「そんなこと言ってたわね」


 ラムズはそう言うと、着ていたシャツを脱いだ。彼は上裸になって、わたしの太腿の辺りで膝立ちしている。かなり細い肢体したいで、肌は青白いくらいだ

(意外と筋肉はあるみたいだけど、人魚の男の方がもっとがっしりしている気がするな。ドキドキ? なんで裸にドキドキするの?)。


「そのあと、人間はキスをする」

「へ?! き、キス?! 性行為の前に?」

「ああ。人間にとってキスは軽いものなんだ。性行為をする時は必ずやる」

「ちょっと待って、今からやるの?」

「それは可哀想だからな……。人魚にとって、一番軽い愛情表現はなんだ?」 


 ラムズは怪しく笑いかけた。彼の顔に月の光が当たる。でも髪の毛のせいで目元が暗い。青い瞳のきらめきだけが、その影の中で妙に光っている。わたしはごくりと唾を飲んだ。


「えっと……。キスの位置で意味が変わるの。一番軽いのは手の甲、そのあとがへそ、鎖骨や胸の上、次が首筋。それで額、頬、最後が……唇、かな……」

「ほう、なるほどな」


 ラムズは感心したように頷いた。そして、もう一度さっきのようにわたしへ覆い被さってくる。視界が暗くなって、彼の爛々と輝く瞳がわたしを射抜いた。

 これ、心臓に悪いからやめてほしいんだけど……

(こんなことされたことないわよ。当たり前でしょ。上手く言えないけど、水の中でずっと覆いかぶさっているなんて無理だもの)。


 ラムズは唇を微妙に歪ませて、蔑むように笑っている。そしてわたしの手を掴んで、そのまま──。

 

 ────そのまま、手の甲にキスをした。



「ちょ…………、なに……してる……の……?」


 わたしは頭の中がパニックになって、顔が急に熱くなった。手を振りほどいて、ラムズの手から逃れる。そして彼の身体を押しやった。

 ラムズはわたしの背中に腕を回して、わたしを起き上がらせる。起き上がったはいいけど、わたしは彼の顔が見れない。心拍がすごい勢いで打たれて、心臓が痛いくらい。


「その……手の甲にするのは……恋人……だから…………」

「でも一番軽いんだろ?」

「そ、そうだけど!」


 びっくりした。ドキドキする。

 わたしは恐る恐る彼の方を盗み見た。彼はわたしの様子を伺うような視線を送っている。


「嫌だったか?」

「嫌、っていうか……。ちょっとびっくりしたっていうか……」

「俺じゃなかったらどうした?」

「へ? ラムズじゃないって……」

「俺じゃなくて、もっと知らない男とか、初めて会ったやつにされたらどうする?」

「それはもっと嫌、だけど……」


 わたしは俯いて、意味もなく掌を広げたり閉じたりした。ラムズは横に座って、また話す。


「メアリは前に、娼婦がどうとか言っていたよな? あんたがさっき聞いた『わたしが性行為をしたいって言ったらどうする?』という質問は、そういう仕事をしている奴らが言うような台詞だ」

「え……? そうなの?」


 顔を上げてラムズの方を見た。彼は頷く。髪の毛を掻いた。


「男は性欲があって、いつでもしたいと思っている。それを知っているから、女はそう簡単に体を許さない。つまり、性行為をしようとはしないってことだ。だがあんたのあんな台詞は、むしろその逆だ。自ら襲ってくれと言うようなものだ」


 わたしはごくりと唾を飲み込んだ。口の中が乾燥してくる。


「つまり、さっきみたいにキス……されるってこと……?」

「俺は手の甲にしかキスしなかったが、あれだけで終わるわけないだろ? 首にもするだろうし、なんなら唇にするのは当たり前だ。知らない男に唇にキスされるぞ」

「え? え? ああやって聞くと?」

「そうだ。娼婦は普通の女とは違って、男と性行為をする対価に金をもらっているんだ。男は女と性行為がしたい。金が欲しい女がそれを利用して、自分の体を使っていいから代わりに金をくれと言うんだ」


 あ、頭が痛くなってきた……。どうしてそんなことをするの? 性行為は愛情表現で、子供を作るための方法じゃないの?

 それを金儲けに使うの? どうして? そして男は誰でもいいから性行為をするの? 愛情表現なのに──?


 ラムズはわたしから目線を外して、話を続けた。


「性行為は愛情表現であると同時に、ただの性欲から生まれる『食欲があるから食べる』というような行為と同じなんだ。食べ物は店に売られているだろ。それと同じだ。性行為も売られているんだ」

「そんな……。人間って、おかしいわよ。愛している人以外とそんなことをするの? キスもするんでしょう?」

「ああ。キスもする。性行為自体はあんたが想像できないような行為だ。人魚は本来できない。下半身に尾があるからだ。でもあんたは今下半身は人間だ。だからやろうと思えばできると思う」


 膝の上で、ぎゅっと掌を握った。自分の足を見る。下半身が変わったことで、そんな変化もあったなんて。


「つまり、わたしも襲われたらキスだけじゃなくて性行為もされるってことよね?」

「ああ。しかも、メアリにとっては屈辱でしかないんじゃないか? 少なくとも人間の女が襲われた場合は、怖くて抵抗できないし深く傷つくと聞いた」


 抵抗できない────。

 たしかにもしもあれが他の男の人だったら、抵抗できなかったんだろうか。魔法はあるけど……。でも何人もの人に襲われたら魔法でも太刀打ちできない。それにいつも襲われているのとはなんだか違う。上手く言えないけど、殺意とは違うというか……。


 知らない男の人や、好きでもない人に唇にキスをされるなんて想像できない。そんなこと人魚の中では有り得ない。

 そんなの嫌。ありえないよ。



「とにかく、『男と寝た』という発言も、『性行為がしたい』みたいな発言も、全部娼婦の女が言うようなことだ。つまりメアリが『色んな男と性行為をしてもいいと思っている』と思われる。これは人間の価値観ではあるが、メアリは娼婦のようにはなりたくないわけだろ。それなら言うな」

「わかった。もう言わないわ……」

「ああ。だが、もちろん恋人同士ならそう言ってもいい。一応愛情表現としての性行為も存在するんだ。でも、俺とメアリは恋人じゃないし、そういう意味で言ったわけじゃないだろ?」

「そういう意味?」


 ラムズは笑ってこちらを見る。鋭い瞳に嗤笑ししょうが浮かんだ。


「俺が好きで、俺に愛してほしいからそう言ったのか?」

「ら、ラムズに愛してほしい?!」


 つまりラムズに愛情表現としてキスをして欲しいってこと……? いやまさか、そんなわけないでしょ。そんなこと改めて聞かれるとむしろびっくりするっていうか、心臓に悪いってば……。


「そんなわけ、ないでしょ……」

「まあ、だよな」


 ラムズがわたしから顔を背けた。月の光のせいで、目元に影ができる。髪の毛の白銀の煌めきと、目元の影はひどく対照的で、歪な感じがする。そして、なんだかラムズは落ち込んでいるように見えた。

 ──もしかして傷つけた? たしかに「愛して欲しいわけないでしょ」なんて言ったら傷つくわよね。ちょっと言い過ぎたかな……。



 わたしはそろそろとベットの上で動いて、少しずつラムズの方へ近付いた。


「ラムズ?」

「うん?」

「その……別にラムズが有り得ないとか、傷つけるつもりじゃなくて……」

「ああ、心配したのか?」


 ラムズはニヤリと笑って、こちらへ手を伸ばした。わたしの髪をさらりと撫でて、そのまま頬に手を載せる。

 ひんやりとした温度が全身に回った。


「あ、あの……」

「ん? ああ悪い」


 ラムズは依然奇妙に笑ったまま、手を放した。


「ま、とにかく。愛している者以外に、そういう発言はするなってことだ。人間だろうが、他の使族だろうがな。性行為をする使族は人間以外にもいる。人魚にとって、子供を作る方法とか、"愛"ってものは大分違うんだろうな。人間はけっこうテキトウだ。愛なんて本当に育んでいる者はいないんじゃないか」

「二人以上の人と付き合うのは……」

「ああ、それも性欲のためだろうな。人間は同じ女とだけじゃなく、色んな女ともしたいらしい。まあこれは、人間が他の使族よりも、子孫を残したいという欲求が強いからだろう」

「そうなの?」

「たぶんな。他の使族にもそれぞれ子供の作り方があるが、人間ほど色んな人と子供を作ろうとはしないからな。人間は数も多いだろ」

「そうね。人魚は誰とでも作ろうとは思わないもの……」

「人間は弱い分、数を増やそうとするのかもしれない。そうそう、ちなみにこれは人間の男に限った話じゃない。女の中にも、誰でもいいから男と性行為がしたいと思う奴がいる。性欲は、人間は男も女も持っているんだ。多くは男の方が性欲が強いが、女が強い場合もある」

「女も、なんだ……」


 なんだかショックかも……。人間って、ちゃんと人を愛せないのかな。みんなして、愛情表現なのかただの性欲なのか分からないような性行為やキスをするのね。片方が愛情表現だと思っていて、片方がただの性欲でしている場合もあるのかしら。そんなのって可哀想だわ……。子孫を残すためなら仕方ないのかもしれないけど。



 視線を逸らしたラムズに、もう一度声をかけた。彼はベッドに手をつけているから、わたしはその腕に少し触る。


「あの、結局答えを聞いてないんだけど……。ラムズ自身はその、性欲、みたいなの、あるの?」

「うん?」


 ラムズはわたしの方を見て、唇をぐにゃりと歪ませた。


「俺がメアリと性行為がしたいかってことか?」

「え、あぁ、うーん。そうなる、かな……」

「そうだな。そっちはともかく、キスはしてもいいかもな?」


 ラムズはそう言って、わたしの頭をぽんと叩いた。彼はベッドから立ち上がる。昨日と同じく、ラムズは「もう寝ろ」と言った。奇妙な微笑を顔に貼り付けながら───。




 ◆◆◆




 朝起きて、ここが船じゃないことを思い出した。ラムズはもう隣にいない。なんだか温かい夢を見た気がする。今でも痛くなるほど大切な声が聞こえたような……。きっとそう、これはまた──。わたしは頭を振って、夢を追い出した。

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