092

 その日の夕方から特訓が始まった。正確にいうとその日の夕食からだ。

 ラオスーは僕に木で出来たふたつの短い棒を渡した。箸(チョップ・スティック)というらしい。持ち方を教えて、これで食べ物を掴め、とラオスーはいった。

 案の定、僕が少し力を入れると、それは手の中であっさりと折れてしまった。

 テーブルの上に山盛りの木の枝を置くと、ラオスーは僕にナイフを手渡した。

「材料はまだまだたっぷりあるぞ」

 こうして僕はせっせと木を削り、箸を作っては壊し、を何度も繰り返した。結局、その日はナイフとフォークを出してもらった。

「お前たち西部の人間の食事には風情というものがなくていかん」

 ラオスーが作ってくれた料理は、これまで食べたことのない不思議な味だった。野鳥の肉を透明なお酒で蒸したものだ。味付けはほとんど塩だけ。

「物足りなさそうな顔をしておるな」

 器用に箸を使いこなしながらラオスーがこちらを見た。

「薄味ですね」

「まったく、お前たち西部の人間は素材の味を楽しむということを知らん」

 どうやら「西部の人間は」というのがラオスーの口癖みたいだ。


 夕食後、僕は散歩に出かけた。よく晴れた夜で、ふたつの月の明かりが地面にふたつの影を作っていた。濃くて長い影と淡くて短い影。地球の月はひとつしかないそうだ。なんだか物足りない気がする。

 僕は大きくジャンプした。体が軽い。どこまでも走っていけるような気がする。夜の冷たい空気が気持ちいい。気の向くまま、僕は夜の荒野を駆け抜けた。サキの家の近くを通り過ぎ、いつしか僕はライブラリまで来ていた。

 こんな夜遅くでも入れるんだろうか。僕はサキがやったように、手のひらを壁にかざした。ドアが音もなく開いた。

 天井の透明なガラスを通して、月明かりが廊下の白い壁をほのかに照らしている。僕はサキに連れられた部屋のドアを開けた。

「こんばんは、レン」

 部屋に入ると、すでにシルがいた。どういうことだろう。インターフェイスが立ち上がっている。部屋の灯りは点いていない。闇の中にぼんやりとシルの姿が浮かんでいる。

「今日は来客が多いですね」

 どういうこと? と僕が尋ねようとしたとき、視界の隅で人影が動いた。ぎくっとして振り向くと、月明かりを浴びたガラスの壁を背に、黒いシルエットの人物が立っている。

「また会えて嬉しいよ、レナード・マーシュ君」

 その黒い人影――ファントムがいった。

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