運命の人はバーチャルYouTuberでした。

扇智史

運命の人はバーチャルYouTuberでした。

「夢見ナナさんですよね!? バーチャルYouTuberの!」


 目の前にいる人の声と名前がつながった瞬間、礼美れいみは叫んでいた。


 その女性は、平凡なコンビニの制服に身を包んで、肉まんと紅茶のペットボトルをいっしょにレジ袋に入れていた。機械的な仕草で、客である礼美の方もほとんど見ず、マニュアル通りの応答をしているだけの、どこの店頭にもいる店員その1、という風情だった。

 でも、礼美は確信していた。その人の声を、礼美はもう何千回も聞いているのだから。


 レジカウンターを乗り越えんばかりに身を乗り出し、礼美はその人に詰め寄る。


「絶対そうです! 私、大ファンなんですよ~! ほら、いつもやってるあのゲームで、いきなり後ろから走ってきたトラックに轢き殺される回! あの『う゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛~!!』っていう声と顔、私めちゃくちゃ好きで! あ、そういえばナナさんとはぜんぜん顔違うんですね! でもその顔もかわいいです!」


 ここぞとばかり、礼美は思いの丈をまくし立てる。いつもはYouTubeのコメントでしか伝えられない言葉が、怒濤のようにあふれ出る。

 息が切れそうになって、礼美は言葉を止める。その瞬間、ふと我に返って、目の前の女性をあらためて見つめた。


 黒いフレームの野暮ったい眼鏡の奥から、礼美に向けてくるその目は、困惑と怯えの気配がある。レジ袋を握ったままの両手は、微動だにしない。軽くブリーチした髪を後ろで束ね、薄くメイクしただけの顔立ちと、きっちり着込んだ制服は、あえて自分という存在を目立たないようにしているみたいだった。

 画面の中でわちゃわちゃとはしゃぎ回る、CGの夢見ナナとは、まるで別人みたいだ。『きりしま』と書かれた名札だけが、彼女の自己主張だった。


「あの……」


 おずおずと、『きりしま』さんががつぶやく。

 その声はやっぱり、夢見ナナだ。ホラーゲームの実況で、鍵のかかっていた部屋に踏み込むときとそっくりの声。


「ほかのお客様の、ご迷惑に、なりますので」

「あっ」


 礼美ははっとして、後ろを振り返った。レジ待ちの列の最後尾で、缶ビールを手にした老人が真っ赤な顔をしている。陳列をしていたパートのおばさんがあわてて別のレジに駆けつけてきて、一瞬、怒りのこもった目で礼美と『きりしま』さんをにらんだ。ひゅっ、と、音を立てそうな勢いで頭が冷える。


「ごめんなさいっ!」


 もぎ取るようにレジ袋を奪って、振り向きもせずに店から走り出る。無機質に開く自動ドアの向こうから、『きりしま』さんの「大変お待たせいたしました」が聞こえた。

 自転車にレジ袋を放り込む。レモンティーのペットボトルが音を立てる。肉まんがつぶれているかも知れなかったけど、かまわなかった。

 顔から火が出そうな気分で、礼美は自転車を走らせた。冬の空気も、彼女の羞恥心をぜんぜん覚ましてはくれなくて、家につくまでの間、彼女はずっと下を向いていた。



 その日の夜も、「バーチャルYouTuber夢見ナナ」の新しい動画が上がっていて、礼美は飛びつくような勢いでスマホをタップして動画を開く。背中を丸めて、食い入るようにスマホを凝視するその様子は、目にも悪いし肩もこる、と親にさんざん言われているけど、かまわない。


「はいどうも~、夢見ナナでぇ~す!」


 いつもの挨拶とともに、画面の中の夢見ナナは勢いよく両手を頭上で振っていた。目の覚めるような赤毛のツインテールを振り乱し、勝ち気な笑顔を画面のこちらに振りまいて、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。短いスカートが、いかにもCG、という感じで上下に揺れる。


「みんなは最近何かハマってるものあるぅ~? ナナはねぇ~、これ!」


 全身の動きで画面の右側を指し示すと、そこには最近人気のアプリゲーの画面が出てくる。シンプルだけど熱いバトルが人気の対戦型パズルゲームだ。


「今日はこちらの対戦、実況していきたいと思いま~す! 目標100連勝! おわらねぇ~! 何時間かかるんだって~!」


 カットが変わるとゲームの画面が大部分になり、左下にナナの顔だけが出てくる。

 画面の中では対戦が繰り広げられる。礼美にはルールはよく分かっていないけれど、ナナの一喜一憂する仕草を見ているだけで楽しい。

 勝てば笑い、負ければ落ち込み、ピンチになれば目を見開いて暴言を繰り出す。その暴言っぷりときたら、親や同級生はもちろん、不謹慎を売りにする生身のYouTuberでも発しないような代物だ。礼美は言葉の意味を知らなくて、ネットで検索して仰天したりした。


 礼美は、ナナといっしょに笑い、嘆き、暴言を吐く。

 その瞬間、礼美はこの上なく自由だ。


 礼美が夢見ナナの動画に出会ったのは、生活の隅々に息苦しさを感じていた時期だった。教室での人間関係がぎくしゃくし、成績が落ちたせいで両親といさかい、何もうまくいかなかった。それまで友人といっしょに笑ってみていたテレビも動画も、すこしも面白くなくなっていた。

 そんな彼女にとって、夢見ナナの動画は衝撃だった。

 最初に見たのは、彼女が視聴者のコメントに答えていく回だった。アニメっぽいCGであることに最初は違和感を持ったけれど、最初だけだ。自在に動き回り、セクハラコメントに対してあけすけな暴言を返し、視聴者から送られたイラストに全身で喜びを表現する姿に、礼美はあっという間に魅了された。

 気づけば、礼美は徹夜で夢見ナナの動画を全部見ていた。見終わった後は、お気に入りの回を何度も繰り返して見ていた。夢見ナナの声は、退屈な授業や陰湿なクラスメートの声よりもはるかに鮮明に、礼美の胸に焼き付いた。

 最後の方は、ずっと泣いていた。画面を見すぎて目が疲れたせいじゃなかったと思う。

 運命の出会いだった、と、今でも思っている。


 最新動画を見終わって、礼美は動画のコメント欄を開く。今日もたくさんの人たちが動画にコメントをつけている。もちろん礼美も何度かコメントをしたことがある。たぶん、夢見ナナはコメントを全部は見ていないだろう。礼美のことなんて知りもしない。だから礼美は今日だって、あの『きりしま』さんに対してハンドルネームを名乗ったりはしなかった。

 今日もコメントをしようと文字を打ち込みかけて、手を止めた。


 夕方のことを思い出して、また、顔から火が出そうになる。スマホの画面に額をくっつけ、ベッドに突っ伏す。

 だって、これは運命だと思ったのだ。夢見ナナの声を持つ人が、あんなにすぐそばに、学校の近くのコンビニにいるだなんて。遅刻しそうになって朝ご飯を食べそびれたのも、先生に呼び出されて下校時刻が遅れたのも、おかげで夕方にはすっかりおなかが空いていてコンビニで買い食いしようと思ったのも、全部運命だった、って。


 だけど、『きりしま』さんにとっては迷惑だったんだろう。

 自分が夢見ナナの中の人だなんて、周りの人に知らせているわけはないのだから。そんなの、礼美にだって分かる。

 そういう現実のしがらみとは離れているから、夢見ナナはあんなに自由なのだから。


 もしも礼美のせいで『きりしま』さんや、夢見ナナの自由が束縛されたりしたら、いくら謝ったって償いきれない。

 そう思うと、動画にコメントもできないし、あのコンビニにもしばらくは顔を出せない。

 また不自由になってしまう気がして、礼美はため息をついて、こつん、と額をスマホにぶつけた。



 そう思ったのに、それから一週間、礼美は件のコンビニの前を通りかかるたびに自転車を止めてしまうようになった。ガラス窓越しに店内を眺め、『きりしま』さんの姿を探す。

 今日も『きりしま』さんは、そこにいなかった。

 あんまり長居したら不審に思われるから、すぐに立ち去る。そのたびに、後ろ髪を引かれるような気持ちになるけれど、同時に、一刻も早く離れなくちゃいけない、と思う。

 ふたたび自転車のペダルを蹴ろうとした、そのとき。


「待って!」


 忘れるはずもない声がして、礼美はその場で硬直した。


「やっと会えた……!」


 たたたっ、と、駐車場のアスファルトを蹴って、駆け寄ってくる足音。


 おそるおそる振り返ると、あの地味な眼鏡をかけた顔が、笑みを浮かべていた。コンビニのレジに立っていたときよりもくっきりしたメイクで、強めのアイラインが表情を際だたせる。私服はシンプルだけれど、ほっそりした『きりしま』さんのスタイルによく似合っていた。

 『きりしま』さんの唇から、白い息がこぼれた。


「この間はごめんね。バイト中はもう完全に店員モードだから、フリーズしちゃって。お釣り間違えてなかった? 後から誤差出て、たぶんあのときかな、って思って、だからお金返そうと思って探してたけど、なかなか会えなくって。はい」


 ごそごそ、っとポケットから小銭を出して、こちらに差し出してくる。なすがまま、礼美はそれを受け取る。『きりしま』さんは、両方の手のひらで礼美の右手を包むようにして、丁寧にお釣りを返してくれた。礼美の方は覚えてもいなかった、ほんの些細な額を。

 十円玉は、ひんやりと冷たい。


「……あの」

「?」


 『きりしま』さんは、小首をかしげる。その仕草は、なるほど、夢見ナナそっくり。


「コンビニ、クビになったんですか?」

「……なわけあるかい!」


 ほんのワンテンポ遅れて、『きりしま』さんは笑顔で突っ込んだ。その一瞬の間合いが、夢見ナナと『きりしま』さんの違いらしかった。

 苦笑を浮かべ、『きりしま』さんは言う。


「養成所のレッスンあるから、あんまり夕方のシフトは入らないの。先週はたまたま人がいなくって、無理して入ったら、そしたらあなたが」

「養成所?」

「声優目指してるの、わたし。だから”夢見ナナ”は喋りの練習と、あと宣伝」


 はにかみながら、自分の夢を口にする彼女の瞳は、冬の澄んだ空気を映して輝いている。その声を紡ぎ出す唇は紫がかっていた。


「今日はどっちも休みで、だから、あなたを探してたの。ここで待ってたら、会えるかな、って」

「どうして」


 あんなに迷惑かけたのに、と、礼美は訊きたかった。

 でも、『きりしま』さんの目を見たら、そんな質問は何も言えなくなってしまった。だって『きりしま』さんはすごく嬉しそうで、礼美のことなんてすこしも迷惑に思ってないみたいで、むしろ礼美を待ち望んでいたんだ、と、分かったから。


 こんなに肌を白くして、真冬の路傍に突っ立って、人を待ってたんだから。

 こんなに幸せそうに、自分の夢の話を人に語るんだから。


 『きりしま』さんは、満面の笑みで、礼美に言った。

 その声を、礼美はずっとずっと、忘れなかった。


「運命かな、って、思っちゃったから」

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