第5話  2週間前

 連絡をしてきたひとつ下の妹の声同様に、スマートフォンを持つ笑美子の手が震えていた。


「火事? 近所で? うちのそば? 全焼!」


 あっという間に、笑美子の顔色が青ざめていった。


「みんな、大丈夫? ああ、良かった。良くないけど良かった」


 大きな瞳から涙が溢れ出た。鼻をグスグス鳴らしながら大きくうなずいた。


「私は大丈夫…… 母ちゃんと父ちゃんは? うん。がんばる。休みが取れたら、すぐに帰るから。みんなによろしくね。うん。大丈夫だよ。新しい住所が決まったらメールして…… ごめんね。何もできなくて。うん…… 分かった」


 話が終わったあとも、笑美子はスマートフォンを持ったまま呆然としていた。


 どのくらい時間が経ったのか……


 ドアが開き、同室の愛坂美穂(あいさか みほ)が入ってきた。


「あれ? ポテちゃん。どうしたの?」


 ハッとして、笑美子は美穂を見た。


「え? どうもしてないよ」


 美穂が不審そうな表情を浮かべた。


「お昼食べた?」

「え?」


 笑美子は慌てて机の時計を見た。デジタル表示が「13:08」になっていた。二時間以上もぼんやりしていたことに笑美子は驚いた。


「あ、うん…… 食べてなかった」

「なかったって…… 顔色悪いし、今日の当番、代わってあげようか」

「だ、大丈夫! 全然平気!」

「だったらいいけどさ。気分悪かったらいいなよね」

「ありがと。ご飯に行ってくる」

「待ちなって。本当に大丈夫なの?」

「大丈夫だよ」


 美穂が眉をひそめた。


「パジャマで食堂に行く気?」

「え、あ、当然、着替えるってば」


 笑美子は寮内にいる時にだけ着ている黒のトレーナーに着替えた。


 すでに食堂には誰もいなかった。


 笑美子は用意されていた自分の分の料理を冷蔵庫から出し、電子レンジで温めた。冷蔵庫の中には、もう一人分の料理が残っていた。貼られたシールには「貴臣分」と書かれていた。


「うわッ! 今日、お部屋ご飯だったんだ。急がなくちゃ」


 ジャーからご飯をよそって味噌汁をかけると、笑美子は急いで食べ始めた。


 KDT24のファーストメンバーのほとんどとセカンドメンバーの一部は自宅や自分のマンションで生活していた。寮には残りのセカンドメンバーとサードメンバーが住み、共同生活を送っていた。


 多くのメンバーはKDT総合企画以外のプロダクションに所属していた。KDT総合企画にとっては各所属プロダクションから徴収している「生活費」は大きいものだった。


 笑美子はギャラクシー・プロダクションに所属していた。ギャラクシー・プロダクションは弱小芸能プロダクションの一つで、稼ぎは数人の所属モデルの収入くらいしかなかった。


「おまえのメシ代だけでも大変なんだぞ」


 笑美子は社長に言われたことがあった。


「ま、将来稼いでくれると思っているから気にしていないがね」


 豪快に笑いながら言った社長の目は笑っていなかった。


 まだ芽が出ないアイドルたちが暮らす寮の中で、貴臣純子だけは別格だった。すでにKDT24不動のセンターと呼ばれていた。グループとしての仕事だけではなく、多くの純子単独のテレビ番組やCMに出演していた。その収入があれば、寮ではなく好きなところに住めた。


 所属もKDT総合企画直属で、ほかの者とは比較できないサラブレッドだった。比べられる者は、やはりKDT総合企画直属で、単体でCMやモデルをこなしているNo.2の高瀬川美千香くらいだった。


 なぜ純子が寮を出ないのか、誰もが不思議に思っていた。


 食事を終えた笑美子は手早く食器を洗った。急いで純子の食事を温めて、トレイに用意した。笑美子はトレイを持って、エレベータで三階の角部屋に向かった。


 笑美子はエレベータを降りて、純子の部屋に向かった。ドアの前に立ち、深呼吸した。それから、軽くノックをして声をかけた。


「妹尾笑美子です。貴臣先輩、失礼します」

「開いてるわよ」


 純子の声が聞こえた。


「入ります!」

「どうぞ」


 笑美子はトレイを落とさないように気をつけながらドアを開けた。


 笑美子たちはワンルームを二人で使っていたが、純子の部屋はベッドルームとリビングの二部屋だった。どちらも十畳あり、広々としていた。


 リビングを通り抜けてベッドルームに入ると、純子はベッドの上で体を起こして手紙を読んでいた。


 純子が手紙から顔を上げた。


『ノーメイクで寝癖がついてても、純子先輩は美人だなぁ』


 笑美子が見とれて立っていると、純子が話しかけた。


「今日はポテちゃんの当番?」


 笑美子は一瞬のうちに現実に引き戻された。


「はい。貴臣先輩…… 遅くなってすみませんでした」

「うん? 何を謝ってるの?」

「食事の時間が遅くなって……」


 純子は壁の時計を見た。


「もうこんな時間か。いいのよ。そんな顔しないで」


 笑美子の泣きそうな表情を見て、純子は慰めるように言った。笑美子はトレイをサイドテーブルに置いた。


「食事の間、リビングの掃除をしてます」

「そう…… ありがとう」


 どこかから、風が、弱い風が吹いてきたように純子は感じた。


 リビングに行きかけた笑美子を純子が呼び止めた。


「ちょっと待って、ポテちゃん、何か心配事でもあるの?」


 笑美子は表情を一瞬こわばらせた。すぐに笑顔を見せた。


「いえ…… ないです」


 純子は黙って笑美子を見つめた。それだけなのに、笑美子の両目から涙が溢れ出した。


「嘘はダメよ」

「あ、あれ…… 本当に、何でも、ないんです」

「こっちに来なさい」


 純子は持っていた手紙をサイドテーブルの上、トレイの横に置いた。


「こっちに来て、ここに座って」


 笑美子は言われるままに純子に近づき、ベッドの上に座った。純子に顔を向けることができず、スリッパを履いた足を見ていた。


「どうしたの?」

「あの…… うちが燃えちゃったんです」

「うち? ご実家が火事にあったってこと?」

「そうです。近所の火事のもらい火だって…… 妹から連絡があって」

「ご家族は?」

「みんな無事です」

「休みをもらって帰りなさい」


 純子の声は優しかった。


「ダメです」


 笑美子は初めて純子の顔を見た。


「うち、貧乏だから。父ちゃんと母ちゃん、がんばってるし。妹は受験があるし…… 爺ちゃんと婆ちゃんは体弱ってるし…… ここで私が仕事を放っちゃうわけにはいかないんです。もっとがんばって稼がなくちゃ」


 そっと純子が手を伸ばした。


「あの…… 私、稼がないと」

「分かったわ」


 純子の手が笑美子の肩を抱いた。力を込めている様子はなかったが、笑美子の体が純子のそばに引き寄せられた。


 抱きしめた笑美子の耳元で、純子が囁いた


「がんばったわね。でも、今だけはがんばらなくていいのよ」


 その声を聞いて、笑美子は大きな声で泣き始めた。



 純子は嗚咽する笑美子の背中を優しく撫ぜながら、自分がとった行動に驚いていた。


『人に優しくしたのって、何年ぶりだろう?』


 呆然とするほど、純子にはその記憶がなかった。


 純子にとってKDT24は人生の全てだった。そのためには仲間との会話よりも、自己の向上を優先させていた。


 発声や体力強化などの基礎から、踊り、歌、演技など、やるべきことは山ほどあった。


 逆に、自分についてこれない者には興味がなく、冷淡だった。


 世間は「孤高の女王」と褒めそやしたが、そうではないことを純子自身が知っていた。


 ただ自分より劣っていると考える人物に割く時間がないだけだった。


『人のことを気にしていては、一位になれない』


 それが純子の考え方だった。


 そのせいで、KDT24の下位メンバーとの関係が微妙だということにも気づいていた。


 かつてのNo.2、高柳亜美はぶっきらぼうだったが下位メンバーの面倒見がよく、年下から慕われていた。


 現No.2の高瀬川美千香も亜美ほどではないが、下位メンバーからの相談をよく受けている。


 そのような関わりが純子にはなかった。


 恐れられているわけではなかった。だが、親しくなりたいとも思われていない、というのが純子の実感だった。


『アレのせいかしらね』


 純子はサイドテーブルの手紙をチラッと見た。


『自分のグループのみんなには嫌われていないけど…… ほかのグループのメンバーには思いっきり憎まれてるからな』


 自分が初めて「早乙女選抜」の手紙を受け取った時のことを純子は思い出した。


 差出人が書かれていない封書には、日付と地図が書かれている一枚のカードと「幸運を」と書かれた手紙が入っていただけだった。


 手紙の言葉を読んで、当時の純子は毎晩考え込んだ。


 幸運を祈る、幸運をあげる、幸運をください……


 送り主が「幸運」をどうしたいのか、純子には分からなかった。


 ただ、自分は「幸運を手に入れたい」と心から願っていた。


 純子はカードに従い、その日、その場所に行った。


 そこで純子は思いがけない「幸運を手にする」ことができた。だが、それが「幸運」だったのかどうか、今では悩むことがあった。


 失ったものと比べて、それが幸運に値することなのかどうか。


『私のところに手紙が来たのは運だった。そして、幸運を手に入れたのも運だけ……』


 自分がしてきた努力の全てを否定されたようで、純子は顔を歪めた。厳しいトレーニングも寝る時間を削っての練習も、全て運だけにすぎない……


 そうではないことを純子は知りたかった。


 笑美子の背中を撫ぜていた手が止まった。


『もし、この子に手紙を渡したら…… 運をつかんで運だけで生き残れるのかな?』


 同情心ともいたずら心ともつかない、奇妙な感覚が純子の心を覆った。


『私は資格をなくしたし…… この子が、私の部屋に、今、来たのも、運なのかもしれない。でも…… ほんとだったら、亜美に声をかけて聞くべきなのも…… 。美千香に相談する方が先か』


 そこまで考えて、純子はハッとした。


『私達三人は似すぎている』


 純子は自分たちのことを考えて、苦笑した。


『ストイックで生真面目、運に左右されることを嫌い、自分で道を切り開くことを好む、か』


 自分の力を信じなければ、アイドルなど続けられない。だが、「早乙女選抜」はその運を選ぶものだった。


『自分は矛盾の中でくたびれ果てたのかもしれない』


 自分の中にあったもやもやがはっきりしたように、純子には感じられた。


『この子に私は助けられたのかな?』


 純子は笑美子の背中を軽く叩いた。


「さぁ、もう泣きやみなさい」


 純子の表情は決意に満ちていた。



 純子の声に、笑美子は泣き声を押さえた。


「ごべださい。ネグリジェ、ぐちゃぐちゃ」

「いいのよ。さ、顔を洗ってきなさい。場所は分かる?」

「わがりまず」


 笑美子がそそくさとリビング奥の洗面所に向かう様子を見て、純子はクスッと笑った。


「案外、面白そうね。今年の『早乙女選抜』は」


 笑美子がいない間に、純子はジーンズとサーモンピンクの薄手のセーターに着替えた。カードを持ってリビングに向かい、ソファに座って笑美子を待った。


「あ、すみません。掃除……」


 笑美子の目はまだ赤かったが、顔を洗って気分はすっきりしたようだった。


「いいわよ。今日は。それよりも座って」

「はい」


 笑美子は純子の前に座った。


 純子は一番大切な条件を聞こうとして、眉をひそめた。


「実際聞こうとすると聞きにくいものね……」

「なんですか?」

「ええとね…… ポテちゃん、ボーイフレンドいる?」

「いえ…… うち、恋愛禁止じゃないですか?」

「そうよね…… いえ、違うんだけど…… こういう聞き方じゃダメか」


 同期や後輩とガールズトークをしたことがない純子が言葉に詰まった。


 笑美子のキョトンとした顔を見て、純子は諦めたようにため息をついた。


「分かった…… 分かったわよ。あのね…… もう、しちゃった?」

「えッ?」


 笑美子は少し考えて、顔を赤らめている純子を見て質問の意味に気づき、純子以上に真っ赤になった。


「え、え、いえ、そ、そ、それはぜんぜん、まだまだです」


 慌てふためく笑美子の声に純子は笑った。


「いいのよ。それを聞かないと話を進められなかったから」

「ほんとですよ」

「いいわ。信じるから」


 純子は安心して、次の質問をした。


「ポテちゃんの今の願いは、何?」


 突然の問いに笑美子はまばたきした。純子の視線に耐えられず、笑美子はテーブルに目をやった。


 少しして、低い声で笑美子は答えた。


「お金がいっぱいほしい、です」

「どんなことをしても?」

「悪いことじゃなければ、なんでもやりたいです」

「たぶん、ぎりぎり正しいわね」


 純子は満足そうに言った。


「善悪が関係ないところだけど、参加者の邪な心を許さないだろうからな。『早乙女選抜』は。それに、ほかの人たちはともかく、あの二人は絶対許さないし」

「なんですか?」

「ううん。こっちの話」


 自分たちのことに気づいたことで、選ばれる「早乙女」たちには共通点があると純子は気づいていた。自分を含めて、良くも悪くもアイドルとして「純粋で、熱心」だった。誰もが「そうありたい」と考え、そのためだけに努力をしていた。


 人によってはアイドルとしての地位を高めるためには相手を蹴落とすことも厭わなかった。人間的には許されないことでも、「アイドルでありたい」という強い意志があれば平然と行った。


 ただ、そこには「邪な心」はなかった。純粋にアイドルを願う者には、それが許される世界だった。


 純子は自分を憎んでいるだろうライバルたちを思い浮かべた。ひと癖もふた癖もある連中だったが、こと「アイドルとして存在する」ことにかけては純子も一目置く、熱意に溢れる者たちばかりだった。


『ポテちゃんは、ここに来て二年か…… 熱意はあるけど、あいつらとは全然違いそうね…… この子は』


 純子は面白そうに笑美子を眺めた。


『アプローチの仕方は人それぞれで、そこに到達できればいいわけだし』


 そう考えて、純子は微笑んだ。


「絶対稼げるとか、手に入れられる、って話じゃないんだけど」


 純子が話し出した。


「もし、なんでもやるっていう気があるんだったら、これをあげる」


 純子がカードを笑美子の前に置いた。


「なんですか?」

「聞かなきゃやらない子にはあげれないの」


 純子の即答に、伸ばしかけていた笑美子の手が止まった。こわごわ顔を上げて、笑美子は純子を見た。純子は肩をすくめて見せた。


「本当は言っちゃいけないから、教えてあげられないだけなんだけどね。カードを裏返して」


 笑美子は大切そうにカードに触わり、裏返した。裏には日付と地図が書かれていた。


「これだけ、ですか?」

「そう、それだけ。それだけでどうするかを、ポテちゃんが決めなさい。今すぐに」


 笑美子は日付を見た。


「二週間先ですね」

「そうね」


 笑美子が唇を噛んだ。


「一つだけ…… いいですか?」

「答えられるかどうか分からないけど」

「絶対なんてないから、それはいいんです。でも、稼げる可能性はあるんですか」


 純子は痛ましそうに、はるかに自分より若い後輩を見つめた。


「そう…… ポテちゃんに運があれば」


 笑美子の表情が変わった。


「分かりました。行きます」

『決断の早い子だ』


 思いがけない笑美子の言葉に、純子は少し驚いた。


「もう今日はいいわよ。ご苦労様ね。カードはなくさないように。それと人に見せちゃダメ。あなたが思っているより貴重なものだから」

「分かりました。失礼します」


 笑美子は大事そうにカードを手にして部屋から出ていった。



 ドアが閉まってから、純子はため息をついた。


「ああ、これで役目から解放された」


 それが安堵のため息であり、自分の年寄りじみた声に、純子は思わずギョッとした。


「それだけ『早乙女選抜』は重かったんだ」


 つぶやいて、純子はクスクスと笑い出した。


 純子は背伸びをした。ここ何年も感じたことがなかった開放感があった。


「肩の荷が降りたって、こういうことなんだ」


 一つの責任から解放された。


『これで運の尽きなのかな?』


 純子は首をかしげ、自分の心の中を覗き込んだ。


「私は運だけで、この仕事を続けられたわけではない。人の運を吸い取って、この地位を築いたわけでもない。それに、まだまだやりたいことがたくさんある」


 誰かに宣言するように、純子は力強く言った。


 運を否定するつもりはなかった。その存在を一番知っているのは純子だった。だが、それは一つの要素でしかない事も一番知っていた。


「ポテちゃん、か」


 少しぼんやりした表情の、垂れ目の少女の顔を純子は思い浮かべた。二年経っても垢抜けない、どことなく子供っぽい少女を送り込んだ先でのことが心配になった。


「亜美に頼むのもお門違いだし…… 美千香、か」


 自分が「早乙女選抜」の資格を無くしたことを伝えた時の美千香の表情を考えると、純子は気が重かった。


「絶望させちゃったからなぁ……」


 何の気無しにとった行動が、戦友とも言える美千香を傷つけたことに純子は心を痛めていた。


「それでも…… 美千香に頼むっきゃない。それで危険の幾つかはポテちゃんに届かなくなる」


 美千香にどう話しかけたら良いのか、純子は考え始めた。トレーニングルームに二人きりになる時が一番良さそうに思えた。


 それで笑美子が選ばれるかどうかは、純子にも分からなかった。そもそも、二人が代わることが許されることなのかどうかも知らなかった。


「ま、運をつかんで帰ってきたら、教えられることは全部教えてあげようか」


 純子は急に空腹を感じた。

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