第2話 14時間前
できたばかりの地下鉄の駅は、キレイではあったが殺風景だった。
駅周辺になにもないせいで、まだ人も少ない。
「人がいない…… 実家の駅よりスゴいな」
ジーンズにベージュのダッフルコートを着て、焦げ茶のショルダーバッグを肩にかけた笑美子が周囲をキョロキョロと見た。改札も無人で、広い駅構内では誰にも会わなかった。
延々と続くエスカレータに乗って、笑美子は地上に向かった。
エスカレータの上にも下にも人の姿はなかった。もし、誰かがいたら、笑美子は地元の中学生か高校生くらいにしか見えなかったのだろう。
住宅街といっても今のところは予定地で、更地が見えるだけだった。住民がいない土地にショッピングモールやアミューズメント施設があるわけもなく、名所旧跡があるわけでもなかった。
「誰もいないとつまんないなぁ」
そこでショーをやるわけではない。それでも、片隅の端っことはいえ、「アイドルの一人」である笑美子としては寂しい限りだった。
笑美子は「歌舞伎町ダンシングチームトゥエンティフォー」、KDT24のサードメンバーだった。
コマ劇場が閉館すると共に映画館も閉館してしまった時期に、活気を取り戻そうと考えられたイベントのチームだった。週末にシネシティ広場の仮説舞台で歌や踊り、コントを演じていたKDT24の活動はツイッターやブログで拡散していった。
地道な努力が評価されたのか、次第にテレビでの露出も多くなっていた。それと共に初期メンバーであるファーストチームのほかに、セカンドチームとサードチームが創設された。
だが、歌舞伎町の開発が進むと共に人気は下火になっていった。今ではゴジラビルより、KDT24を知る者の方が少なくなっていた。
人気が出ていたとはいえ、それはファーストだけで、セカンドやサードのメンバーで名が売れていた者はいなかった。
笑美子が所属する弱小プロダクション、ギャラクシー・エージェンシーは一筋の夢にすがる思いで、笑美子を所属させていた。
KDT24では毎月人気投票が行われていた。順位に従ってファーストからセカンドへ、セカンドからサードへと移動になり、その逆も行われた。
その投票にはCD、DVD、写真集などに付属された無記名投票券を使わなければならなかった。好みのアイドルの順位を上げるために、莫大な金額が動いていた。
サード最下位を三ヶ月続けると、KDT24に所属できなくなる取り決めがあった。笑美子は毎月の人気投票では最下位に近かったが、かろうじて卒業という名の放逐は免れていた。
『誰がお金を出してくれているのかな……』
トボトボと歩きながら、一瞬、笑美子は考えた。
『ありがたいことだけど…… もったいないよなぁ』
笑美子は自分の考えに首をかしげ、クスクスと笑った。
駅の外は開発途中の人工都市のようだった。切り開いた土地が広がり、ところどころに作りかけのビルやマンションが建っていた。
風が吹いていた。
コートよりわずかに濃い色のビーニーに,笑美子は手を当てた。深くかぶったビーニーは両方の耳を隠していたが、それでも寒さが染み込んでくるように感じられた。十一月にしては冷たい風が、体温だけではなく意欲も下げないか、が笑美子には気がかりだった。
笑美子はコートのポケットからメモを取り出した。それは待ち合わせの場所を記した地図だった。
「こっちかな? どっちかな? 行きたいかな? 行きたくないかな?」
笑美子は歌うようにつぶやいた。
ファンの笑美子に対する評価は「可愛いけど、どんくさい」というものだった。笑美子を気に入った一部のファンが「妹尾笑美子」を「イモワライノミコ」と言い出し、それが「イモアライノミコ」になった。
すぐに短くなって「イモノミコ」が定着した。
今では、それがさらに変化して、「ポテコ」と呼ばれる方が多かった。
笑美子自身、自分が「イケてる」とは思ってはいなかった。
それでも、ファンとの交流会で「イモー」とか「ポテコー」とかの声援をかけられると、笑顔で応えるものの複雑な思いがあった。
今では仲間内でさえ「せのお」「えみこ」と呼ぶ人間はいなくなっていた。同僚や先輩たちは「ポテちゃん」と呼ぶ。
口の悪い者たちは、さらに短く「ポテ」だけだった。
笑美子がKDT24を知ったのは、KDT24がやや有名になり始めての頃だった。今考えると、チームに入れたことは「運」だけだったように思えた。
その時より「前」だったら資金がなく、募集はなかった。その時より「後」だったら、入団希望者が多く、笑美子程度では入れなかった。
わずかな隙間のようなチャンスを笑美子は、モノにしていた。
人気もなく、そのため資金もなかった厳しかった時期を笑美子は知らなかった。今では末端の欠片の笑美子でさえ、グラビアやその他大勢の仕事で稼げていた。
知らないうちに、タレントのいないギャラクシー・エージェンシーで唯一の稼ぎ頭になっていた。が、厳しい状況には変わりがなかった。
その状況を打開できるチャンスが、今日だった。
チャンスを譲ってくれたKDT24の先輩、貴臣純子の好意のためにも、こんなところで逃げ帰るわけにはいかなかった。
自らの心の奥底を見ようとするように目を閉じ、笑美子は意思を確かめた。
『覚悟はできているッ!』
笑美子はメモをポケットに戻して歩き出した。
意気込みに反して、トボトボと……
すでに初期メンバーのうち半分は退団していた。辞めていった理由はさまざまで、卒業と称して独立した者もいた。
初期メンバーの一人に、現在センターの貴臣純子(たかおみ じゅんこ)がいた。女優としての美貌と演技力を持ち、モデル並みのスタイルで、歌唱力も折り紙付きという、KDT24でも一、二を争う実力者だった。
その貴臣が笑美子に話をして、チャンスを教えてくれ、しかも、譲ってくれていた。
「純子先輩が応援してくれたんだから、頑張らなくちゃ」
笑美子はチャンスを譲ってくれた純子に感謝していた。
駅舎を出ると、まばらな人影がさらに少なくなった。バスやタクシー、迎えの自動車に乗り込んで次々と姿を消していく。
笑美子が歩いていった先は、バスロータリーだった。将来を見越して広く取っているが、実際にはバスはあまり走っていないようだった。タクシー乗り場にもタクシーが一台止まっているだけだった。
「本当に待ち合わせは、ここなんだろうなぁ?」
商店街さえない駅前の寂れた光景に、笑美子は心細くなった。
ゆっくりと、あたりが暗くなっていった。長く伸びた影が、大きな影に飲み込まれていった。
遠くからエンジン音が聞こえた。
低いエンジン音は次第に大きくなった。
赤いスポーツカーが見えたと思うと、急ハンドルを切ってロータリーに入り込んできた。
笑美子から少し離れた場所で、スポーツカーは止まった。エンジンが止まると、世界から音が消えたように感じられた。
『なんかすっごく静か……』
街の静けさに、笑美子は少し表情を変えた。
下位チームでも、売れていなくても、アイドルグループの一員だった。妙な連中に拉致されるわけにはいかなかった。いざとなったら走って駅に逃げられるように身構えた。
ドアが開き、細身の女が外に出てきた。冬も間近いというの薄いシャツとミニスカートにロングブーツという姿だった。
大きなサングラスをかけ、薄手のマフラーをゆったりと巻いて顔を隠している。
「かっこいい……」
笑美子は女のスタイルの良さとファッションに見とれた。すぐに、ダッフルコートにデイパックという自分の姿を思い出し、口を尖らせた。
『あの人の方がアイドルかモデルっぽいなぁ。顔も小さいし、いいなぁ』
笑美子が見とれていると、女が笑美子を見つめていることに気づいた。ジッと見つめられて笑美子はハッとした。
ドライバーが女性と分かって少し安心していたが、サングラスで隠れている女は無表情のままだった。
女が笑美子のそばに近づいてきた。笑美子が少し後ずさりすると足を止めた。
「逃げるんじゃない。こっちにおいで」
女が面倒くさそうに笑美子を呼んだ。
「はい! 今、行きます!」
条件反射的に背筋を伸ばすと、笑美子は女に駆け寄った。
「あんた、日頃、どんな生活をしているか、丸わかりだ」
女は苦笑した。
「ほら」
女がジャケットに手を入れ、何かを取り出した。笑美子は差し出されたものに目を凝らした。街灯の明かりで、かろうじてカードに描かれている図柄が見えた。
ダイヤのキングが描かれたカードだった。
笑美子は慌てて背負っていたショルダーバッグを下ろした。バッグからダイヤのクイーンのカードを出して、女に見せるようにかざした。
女がサングラスを少し下にずらした。疑われているような視線に、笑美子の背に冷たい汗が流れた。
「本物ね…… それにしても、この子が?」
よく通るキレイな声に笑美子は聞きほれた。
女は怪しむように笑美子を見つめた。わずかなためらいを感じているようだった女が肩をすくめた。
「ま、いろいろいるからね。最近のファンの好みはよく分からないし。アイドルらしくないのが混ざってても、私には分からないね」
『キレイな声が失礼なことを言っている、気がする……』
笑美子の思いが顔に出たようだった。
「アイドルがそんな顔をしない。おいで。助手席に座って」
笑美子は小走りに車の左側に走った。
外見通り、中は狭く感じられた。女がキーを回すと、腹に響くエンジン音がよみがえった。
車の中は暖かかった。笑美子は軽くため息をついた。
「シートベルトした? 行くよ」
名乗りもしないで、女はアクセルを踏み込んだ。タイヤが鳴り、笑美子の体がシートに押しつけられた。
少しすると、速度が落ちた。
珍しそうにドアを見ていた笑美子が、レギュレーターハンドルを回した。窓が下がり、冷たい風が入ってきた。
「こら! そこらをいじるな」
笑美子は慌ててハンドルを逆に回した。
「窓が開くとは……」
「知らなかった?」
「いつもウィーンだから」
「パワーウィンドウだよね。あんたくらいの年じゃ。このMGB GTV8には、あんな愛想のない装置は付いていないんだ」
笑美子は女の横顔を見た。
『どこかで見たことがある気がするんだけどな』
走り出してしばらくして、女がチラッと笑美子を見た。
「ひとりごとだけどさ。最近はあんたみたいなのがファンに好かれてるの?」
笑美子は少し考えてから答えた。
「どうでしょう? 悔しいけど、やっぱりお姉さんみたいにスタイルが良くて、小顔な美人が人気あると思います。ひとりごとですけど」
笑美子のたわいないひがみに、女は笑みを浮かべた。
「いじらないの?」
「いじる?」
「顔」
「ああ、もう少し人気があれば考えるかもですけど。まだまだ」
「ま、いじるのはいつでもできるから。声が変わってるから案外いいのかもね」
「声?」
「少し、スザンナ・ホフスっぽい」
「スザンナ・ホフス?」
「少しは勉強しなさい」
信号で車が止まった時、女は慣れた手つきでモニタを操作した。スピーカーから「マニック・マンデー」が流れ出した。
五分ほど走ると、民家が少なくなった。殺風景な造成地だけが見えるようになった。
さらに走ると、こつ然と幾つかのマンションが立ち並ぶ場所に出た。ほとんどの窓に明かりが灯っていない。
大きな駐車場で車が停まった。
「降りて」
女に言われ、笑美子は車を降りた。
女はサングラスを車内に置いて、外に出た。
笑美子は女のそばに寄って、その目を初めて見た。
「思い出した! その垂れ目! 高柳亜美(たかやなぎ あみ)だ!」
亜美は嫣然と微笑み、笑美子を手招きした。笑美子はニコニコしながら、そばに近づいた。
亜美が右手を動かして、中指と親指で輪を作った。そして、よく通る美しい声で囁いた。
「『先輩』をつけろよ。ちびすけやろう」
「いてッ!」
デコピンを食らった笑美子が、おでこを押さえた。
「分かりました。亜美先輩」
「ま、元は同じチームの人間だから、それで勘弁してあげる。ついておいで」
「どこへ?」
「心配しなくていいよ。着替えてもらうだけだから」
正面のマンションの階段を亜美は上っていった。
二階に上がると、階段そばの部屋の前でチャイムを鳴らした。
「誰だ?」
「私」
ロックが外れる音がした。ドアが開け、丸坊主の巨漢が顔を出した。男はジロジロと笑美子を見た。
「こいつ、か?」
「そうらしい」
「これでアイドル? 世も末だな。おまえの方が今でもアイドルっぽいぞ」
「失礼なことを言うな。こう見えてもカード持参者だよ」
泣きそうな笑美子の表情を見て、さすがに気の毒になったのか、亜美がフォローした。
「まったく大衆文化というのは分からんな。何がヒットするか、さっぱりだ。仕方がない。入れ」
亜美に背を押され、笑美子は部屋に入った。
部屋に入ると、男は壁の時計に目をやった。
「時間通りだな」
「遅れるわけにはいかないからね」
「もっともだ。おい、キョロキョロしてんじゃない」
衣服が並んだ棚を覗いていた笑美子は飛び上がった。
「はい!」
笑美子は男をじっと見つめた。
「なんだよ」
「今度は思い出した! 北海道ノーザンプロレスの五色沼開悟(ごしきぬま かいご)だ!」
巨漢は目を剝いた。
「よく知ってたな」
「五色沼スープレックスがかっこよかったです」
「そうか、そうか」
五色沼に手招きされ、笑美子は顔を前に出した。五色沼の指が笑美子のおでこを弾いた。
「さんをつけろよ」
「ごめんなさい」
おでこを押さえながら、笑美子は謝った。
「引退して十年は経つんだがな」
「ちっちゃい頃に婆ちゃんと見てました」
五色沼はさみしげにため息をついた。
「オレもそんな年かよ。まぁ、いい…… スマホを持ってるだろう。よこせ。タブレットとかノートPCも、だ」
「スマホだけです」
五色沼が右手を出した。笑美子はコートのポケットからスマートフォンを出して渡した。五色沼はビニール袋にスマホを入れた。
「靴を脱いで、よこせ」
笑美子は履いていたニューバランスを脱いで、渡した。
渡された靴を受け取りながら、五色沼が言った。
「なんだ。この靴は」
「ニューバランスのジョギングシューズ、です」
「かかともない。色気のない靴だ。アイドルが履く靴じゃないな……」
少しぎょっとした様子で、五色沼が靴を見た。
「足は幾つだ?」
「二つ」
「バカ。サイズだ」
笑美子は口ごもった。
「その…… 二十……」
「七はあるだろう」
「ないよ! 二十六だよ!」
五色沼の深いため息を聞いて、笑美子はまたもや涙ぐんだ。
すぐに五色沼がカゴを放ってよこした。カゴの中には灰色のトレーナーの上下と紐のない安物のスニーカーが入っていた。
「隣の部屋で着替えろ。下着以外はこの中に入れるんだ。ピアスだかイアリングだかも外せ」
「ニューバランスもイヤリングも買ったばっか……」
「うるさい。あとで全部返す。貧乏くさいアイドルだな」
五色沼が笑った。
「貧乏なんだよ! だから、来たんだ!」
思わぬ大声に、五色沼は一瞬たじろいだようだった。
「カードだけは忘れるなよ。それだけ持って、とっとと出て行け」
五色沼の声を背に、笑美子は隣の部屋に向かった。
「おい……」
笑美子の背に五色沼が声をかけた。
「貧乏を笑って悪かった」
「いいんです…… 大きな声を出してすみませんでした」
笑美子が着替えて部屋を出るまで、五色沼がしゃべることはなかった。
「行くよ」
亜美に促されて、笑美子は部屋を出た。
車に乗ると、亜美が黒い布を出した。
「後ろを向いて」
「それは」
「目隠し。ルールだから」
「はい」
笑美子はシートベルトをしたまま、後ろを向いた。目の上に布が置かれ、ゆるまないようにきつく縛られた。
「気分が悪くなったらいいなよ」
「了解です」
車が走り出した。
車の速度が速くなったり、遅くなったりした。何回も左右に曲がったことは笑美子にも分かったが、すでに駅からどのくらい離れたのかも分からなくなっていた。
突然、車が大きく曲がり、タイヤを鳴らしてバックして停まった。エンジンが止まり、静かになった。
「着いた。目隠しを外していいよ」
笑美子は目隠しを外した。
「日本、ですよね?」
「当たり前でしょ。降りなさい」
二人は車から降りた。
目の前に森があり、その先にはライトアップされている豪奢な白い洋館がそびえ立っていた。
「すっげぇ……」
笑美子は目を丸くして、つぶやいた。
森の中を通る一本道を二人は歩いていった。
亜美の後ろを歩いていると、笑美子は自分が捕まった脱獄囚のように思えてきた。
「どこが違うのかなぁ」
笑美子の声に亜美が振り返った。
「なんか言った?」
「亜美先輩、歩くのかっこいいから。あたしは囚人みたいで……」
亜美が苦笑した。少し離れると、腕を組んで笑美子を眺めた。
「歩いてみて」
言われるままに歩くと、すぐに鋭い声が飛んだ。
「背筋伸ばす! 下向かない! あご引いて! 膝曲げない!」
言われた通りにして、笑美子は派手に転んだ。
「いてて…… 歩くのがこんなに難しいなんて」
「そんなことじゃ、モデルの仕事取れないよ」
「モデル? 私が?」
笑美子は膝を払う手を止めた。
「まだ十代でしょう? 足の大きさからしたら背が高くなりそうだし」
笑美子の表情が変わった。目を見開いて、亜美を見ている。亜美が不思議そうに尋ねた。
「どうした?」
「バカの大足って言われることはあっても、背が高くなるなんて初めて言われたから…… ありがとうございます」
何でもないというように、亜美は肩をすくめた。
「すぐには無理そうだね。今日は奴隷歩きで歩きなさい。せめて背筋をまっすぐ伸ばすことを心がけて」
「はい」
二人は森を出た。
明かりに照らされた洋館は城のように大きく見えた。
笑美子が見とれていると、すぐ近くで「キィ、キィ」という金属のこすれる音が聞こえた。
笑美子は音のする右を見た。
老婆が車椅子を押していた。老婆も足が悪いのか、片手に杖を持っていた。
笑美子は亜美に声をかけた。
「亜美先輩、手伝ってきます!」
「え、あ! おい! やめろ!」
亜美の制止も聞かず、笑美子は走って二人に近づいた。
「あばあちゃん、手伝います!」
二人の老人は顔を見合わせた。
黒いスーツを着た四人の男たちがどこからともなく現れた。まるで大気に溶け込んでいたかのようだった。
「身の程知らずの小娘が!」
男の一人がそう罵って笑美子に走り寄ろうとした時、車椅子の老人の口がわずかに動いた。
「よい。捨ておけ」
老人の一言で男たちの動きが止まり、一瞬で闇の中に姿が消えた。
鋭い音が耳を打った。老婆が杖で石を突いた音だった。
「御前の思し召しじゃ。その娘も通すがいい」
老婆の声に亜美の前に立ちふさがっていた二人も、一瞬で姿を消した。
笑美子は振り返って亜美を見た。亜美がこわばった笑みを浮かべた。
「自分で求めた運命だよ。行きなさい」
亜美のよく通る美しい声に笑美子はうなずいた。
笑美子は恐る恐る老人たちに近づいた。
「ごめんね。おじいちゃんとおばあちゃん。あんなに人がいるなんて知らなかったんだ」
「よいよい。いい子じゃな」
車椅子の老人は満面に笑みを浮かべた。
「はて? しかし、お前はここにそぐわんな」
老人は老婆を見た。
「知っておるか?」
老婆は笑美子と亜美をじっと見つめた。すぐにニッコリと微笑んだ。
「知っておりますよ。二人共、新宿の者ですよ」
「おお、そうか…… そう言えば、そっちの背の高い方のお嬢ちゃんは見覚えがある。純子を支えておった一人じゃな」
「恐れ入ります」
亜美が背骨が折れるのでないかというくらい、勢い良くお辞儀をした。それを見た笑美子も慌ててお辞儀をした。
「よいよい。ハハ。愉快な子じゃな」
老婆が目を丸くした。それを見た老人が、いぶかしげに老婆を見つめた。
「どうしたんじゃ?」
「御前が笑ったのは何十年ぶりでしょう」
「笑った? わしが? ハハ、そうじゃな。愉快な子じゃよ」
「ほんに」
二人は笑美子を見つめた。老人は感心したような声で言った。
「純子もよくやってくれたが…… この子が真の早乙女なのかもしれんな」
「さようで。早乙女とはこういうものなのかもしれんませんね」
老婆が笑美子に声をかけた。
「では車椅子を押してもらおうかの」
笑美子はうなずいて、老人の背後に回った。老婆は亜美の横に立った。笑美子と亜美は老婆が持つ杖に一匹の龍が掘られていることに気づいた。
「お前は運をつかみにきたんじゃな」
車椅子から声がした。
「そうです」
「それは楽でもあり、大変なことでもあるが……」
「覚悟しています」
「覚悟、か」
老人はため息をついた。
「人の努力や覚悟ではどうにもならんのじゃよ。わしらが欲しているものは、そんなものでは手に入れられん」
老人は手を打った。
「しかし、それを手にできれば、お前は欲しいものを手に入れられるじゃろう」
笑美子には、よく分からない話だった。
「親切のお礼をしたいところじゃが。わしらも場所を作れはしても、見ていることしかできんのじゃよ」
「お礼だなんて」
「そうじゃな。お前はそんなことを求めてわしらに近づいてきたわけではない。珍しいことにな。そうそう、この辺で止めておくれ」
老人の声に笑美子は足を止めた。
「ここからは、そのお嬢ちゃんにお願いしよう。わしらの入り口は、お前さんの行く入り口とは違うでな」
笑美子は亜美と替わった。
亜美は二人の老人の前で恐縮するように手を前で組み、体を縮こまらせた。
車椅子の老人が亜美に声をかけた。
「そう縮こまるな。お前も純子と共にわしらを支えてくれた一人じゃ。恐縮するのはわしらの方じゃて」
「滅相もございません。オキナ様」
老婆が亜美を見つめた。
「お主も資格があるに。なぜ望まなかったんじゃ?」
亜美は深い絶望の表情を浮かべた。
「私は…… 純子に会って…… 自分の器を知りました。参加者として、ここに来ることを望みませんでした」
老婆がうなずいた。
「賢明じゃな。確か…… 高柳亜美、と言ったかの」
「はい。オウナ様」
オキナと呼ばれた老人とオウナと呼ばれた老婆は視線を交わした。言葉はなかったが、オキナは鷹揚にうなずいた。
「お前には別な仕事を授けよう。わしらと一緒に来るがいい」
「思し召すままに。オキナ様、オウナ様」
オウナが亜美を見つめた。
「お前の運命も、この子が持ってきたようじゃな」
「そうなのかもしれません」
亜美は満面に笑みを浮かべた。
不思議そうに見ている笑美子を見下ろしてから、亜美は右手を上げた。
「私は用ができた。オキナ様とオウナ様についていかなきゃならなくなった。あんたはあそこから入るんだ」
亜美が指し示した入り口は、二本の大理石の石柱がある豪奢なエントランスの向こうにあった。奥の入り口は、手前のそれと比べたらお勝手口のように質素に見えた。
笑美子のガッカリしたような表情に、オキナは再び面白そうに笑った。
「質素じゃろう?」
「ええ、ちょっと……」
「あっちから入って、立派な方から出てくるんじゃよ。その逆よりは良いじゃろう」
笑美子は少し考えてから頭を下げた。
「おじいちゃん、ありがとう」
亜美が笑美子に声をかけた。
「転ばないように、しっかり歩いていくんだよ」
「ここまで、ありがとうございました」
笑美子は頭を下げ、一人で歩き出した。
亜美に言われたように背筋を伸ばして……
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