中編
剛造との結婚と、それらにまつわる諸々の手続きは、彼のマンションの一室で行われた。立ち会ったのは剛造の顧問弁護士と税理士、それに二人の娘・好美と晴美たちだけだった。
弁護士と税理士は二人の資産に関する書類を用意しており、道代は説明を聞きながら書類に目を通してサインをし、判を押すだけだった。
互いに何かあった際は、財産は公平に分配する。住んでいるマンションは二人の名義にして、そのままどちらかが亡くなっても継続して住むことができる、生命保険金の受取人欄は互いの名前を記入するなどなど、道代にとっては申し分ない内容だった。
そして最後に婚姻届にサインを交わし、実にあっけなく結婚は成立に至った。道代にとって、人生で一番スムースに進んだ婚姻届。若干拍子抜けするほどであった。
しかし…
「おめでとうございます、奥様。今後とも末永く、よろしくお願いいたします」
弁護士と税理士が、道代を「奥様」と呼び、改まった態度で挨拶を述べた瞬間、道代の中にじわじわと喜びが湧き上がってきた。
これでこの男の財産は手にしたも同然だ。2~3年ほどしたら、病気やら交通事故やらで死んでくれればいい…
「お父さん、おめでとう」
「道代さん、父をよろしくお願いしますね」
ニンマリしていた道代を現実に引き戻したのは、のほほんとした二人の娘たちだった。
「さぁ、堅苦しいのはここまでですよ。さっきから隣の部屋で『みの和寿司』の職人さんが待っていますからね。さぁ、先生方もどうぞ」
「お父さんも、今日は特別だからね。お酒も少しだけなら大丈夫よ」
なじみの寿司職人を自宅に呼び寄せての、身内だけの披露宴パーティーは、道代の思惑とは裏腹に、終始和やかな雰囲気だった。
「ああ、さすがにちょっと飲みすぎたかな」
客人らが帰った後、剛造がソファで大きく伸びをする。最近は医者に酒を止められているが、この日はめでたいのだからと、少しばかりハメを外したのだ。とはいえ、 久々の酒で相当酔いも回ったらしい。
「もう酒はいらんな。おい、道代。お茶くれ」
「あ、はいはい」
何気ない会話のはずだった。しかし、
「ちょっと、お父さん!」
「何よそのモノの言い方は?」
娘たち二人が、剛造に詰め寄って文句を言い始めた。
「結婚した途端にそれ? 道代さんのこと何だと思っているの!」
「そうよそうよ、お茶が欲しいなら自分で淹れる、さもなきゃ『道代さん、お茶を淹れてください』と、ちゃんと頭を下げてお願いしなさいよ!」
娘二人にガミガミと言われ、さしもの剛造もシュンとしょげてしまい、自分でキッチンに向かった。その様子を見ながら、晴美がぼやく。
「まったくもう、ああやって偉そうに振る舞うから、ヨシコさんにも…っと、あっ」
「ちょっと、晴美ちゃん!」
「…ごめん」
幸い、剛造には聞こえなかったようだが、道代の耳にはしっかりと聞こえた。見れば、好美がこっちにも目配せして、人差し指を口の前に立てていた。
「あ、あのね、好美さん」
「はい?」
「この前のことなんだけど…ヨシコさんって?」
好美は、ごっそり買い込んできたという土産をテーブルに並べていた。晴美はそれを色々と物色している。二人とも剛造たちと同居こそしていないが、近くに住んでいて週に1~2度は様子見で顔を出す。
この日は好美が北海道へ取材旅行に行ってきたからと、お土産を届けにやって来たのだった。ちょうど剛造がトイレに立ったのを見計らって、道代が先日の「ヨシコさん」について、おずおずと切り出した。
「あ、それ…ですね」
「もう、晴美ってば。余計なこと言うから!」
「ごめんなさい…」
「ごめんね道代さん、心配かけちゃって。実はね…」
娘二人の話によると、ヨシコさんとは、剛造が前に付き合っていた年配の女性のことらしい。半年ほどの交際期間を経て、籍を入れようかという話になった矢先に、急に彼女が姿を消したというのだ。
「ほら、父さんって昭和な男でしょ? この前みたいに相手の人に対して亭主関白丸出しな振る舞いをするから、ヨシコさんが逃げ出しちゃったんじゃないかって」
「父は父で、えらく落ち込むし、愚痴こぼすし、八つ当たりするし、もう大変だったのよ」
「でも、半分は父のせいじゃないかって思ったら申し訳なくてね。…道代さん、もし父が、何か道代さんに対して失礼なマネをしたら言ってね。今度はあんな偉そうなこと言わせないから」
「―んー? 俺がどうかしたかぁ?」
「あら、父さん。ねぇ『白い恋人』食べる?」
「お、うん」
しれっとして話をそらす好美と晴美、喜々としてお菓子の包みを開く剛造を横目で眺めつつ、道代は内心のざわつきを必死でこらえていた。
―もしもし、道代。久しぶり。はがき見たわよ、ご結婚おめでとう!
「そりゃどうも。ねぇ、房江。いきなりだけど、このごろ芳子と連絡取っている?」
―芳子? そういや最近とんとご無沙汰ねぇ。…なぁに? 彼女、どこかで下手こいたの?
「ううん、そうじゃないんだけどね。どうも、今の旦那、私の前に付き合っていたのが芳子だったかもしれないの…」
―へぇーっ? そりゃビックリね。
「それが、どうも彼女らしくない話で…スッキリしないのよ。何も取らずに急に逃げ出したって」
―まさかぁ、あの芳子が?
「…やっぱりアンタもそう思う? そうよね、いくらなんでもありえないよね」
―まぁまぁ、芳子なんて名前、どこにだっているわよ。…でもねぇ、そうねぇ…?
「何よ?」
―最後に芳子と話したのって、いつ頃だったか覚えている?
「…2年前…? いや、3年前…かも。何でも、金持ちの爺さんたぶらかしている最中だって笑っていたけど」
―でしょ? アタシもそれくらい前の話なのよ。電話でね、落ち着いたら連絡するわ~って話だったけど。ねぇ、彼女の電話番号は?
「かけてみたけど、もう使われていないみたいなの。メールも同じ」
―ふーん。正体ばれそうになって逃げたのかしら。
「彼女に限ってそんなことはない、と言いたいところだけど…」
芳子は、道代や房江の同業者であり、彼女たちにとっては尊敬する先輩でもあった。
自称「銀座のホステス崩れ」の彼女は、決して美人ではない。しかし、どこかナヨッとした湿り気のあるオーラをまとっていた。気がつけば男たちは鼻の下を伸ばし、財布の紐を緩め、正気に戻った頃には骨の髄までしゃぶり尽くされているという始末だった。
「スキを見せなきゃ男はなびかないよ」
「結論は自分から言わないの、男の側から言わせるんだよ。そうすりゃ、向こうも自分が騙されたなんて思わないのさ」
詐欺の手口、男を陥落させる手口は数多く教えてもらった、しかし、彼女は自分自身に関することはあまり話さなかった。多分、話してもどこからどこまでが本当なのか分からないだろう。嘘に嘘を重ねた老女だ。年の頃は恐らく70過ぎ。最後に話したのは多分、電話だった気がする。
「チョロそうな爺さんだよ。でも、そういうのこそ、気をつけて仕事しないとね。おっと、これ以上は言わないよ。慎重に、慎重に…」
童女のような可愛い声で、カモになりそうな相手のことを、そんな風に言っていたっけ。狙いをつけた相手にはしっかり食らいつく。そんな彼女が手ぶらで逃げるなんて、天地がひっくり返ってもありえないはずなのに…。
「まぁ、それとなく探ってみるわ。あの娘たち、特に妹の方は口が軽そうだもん」
―そう? それにしてもまぁ、旦那の連れ子たちとうまく打ち解けているみたいね。
「そうなのよ。今度の秋の連休には、一緒に別荘に行こうって誘われているの」
―あらあら。仲のよろしいこと。
「本当、あんな純粋な人たちを騙しているなんて、ちょっとばかり良心が咎めるわ~」
―やぁだ、嘘ばっかり!
ケラケラ笑う房江に、少しだけホッとした。
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