029

「そんな嫌そうな顔をなさらないでください。危害を加えようと思っているのではないのだから」

緊張のせいだろうか、少し赤みがかっている頬を髪で隠すようにうつむきがちに彼女は言葉を口にする。

 隠しきれていない顔の半分に優しく微笑みを浮かべている彼女は、さっきまでの幼い大人の庇護下にいなくてはいけないか弱い少女のような雰囲気ではなく、艶のある大人の女性の雰囲気をまとっているように思えて、戸惑う。

それはさっきの余裕がある大人の雰囲気とは、また違ったものだった。

部屋が少し暗いせいだろうか、陰が彼女の輪郭を曖昧にぼかしている。

外見に見合わず、俺より年上だったりするのだろうか。

その可能性も否めない。

この世界では、自分の常識は通用しないのだから。

「宵野様?」

 現実逃避の様に考えていたことが泡の様に消えていく。

張り付けているはずの笑みにヒビが入っているのが自分でも分かった。

女っていうのは何歳でも怖い。

どうやったら、相手の気をひくことができるのか分かっているのだ。

あの気持ち悪い女のように。

ああ、嫌だな、いやだ。

母親と一対一で話をしなければならなかった時のような焦りを抱いている自分と、冷静に考えている自分がいる。

ぐるぐると目の前がシェイクされるような感覚に、手足から熱が引いていくのがはっきりと分かった。

彼女と母親は全然似ていないのに母親の姿が重なって見える。

目の前に物があったなら彼女にぶつけていただろうし、怒鳴り散らしていたかもしれない。

俺は分かりやすくパニックになっていた。

「宵野様?」

 その混乱から抜け出すことができなかったせいか、普段なら言える返事をどれも言えずにいた。名前を呼ばれたのに、ただ一言も返事ができずにいる。

「…………」

 何かを察した彼女は困ったように笑いながら俺の手を引っ張り、部屋の中へと促した。

扉の閉じる音がやけに大きく聞こえたような気がした。

痛みがはっきりと分かるように舌を歯で噛んでから、息を吐く。

大丈夫、大丈夫。

自分を安心させるように心の中で呟いてから、無言になった部屋の中で少し冷静に頭を回転させた。

今、この状況で彼女が俺を殺すことはできないはず。

そもそも殺す気なんてないのだから、そこは警戒しなくても大丈夫だろう。

殺す気があるなら、今がその時だしな。

彼女の変化は確かに戸惑うものがあるが、欺く気があるのなら戸惑っているうちにベッドにでも誘い込めばいいだけの話だから気にしなくてもいいはずだ。

そもそも彼女が俺にあまり触れないことに、そういう可能性がないのだと勝手に安心している。

ああ、もう本当に、どうしてあの人のことになるとここまで焦ってしまうのか。

ああ、トラウマだけを与えて消えるなんて、本当に嫌な母親だ。

息を吐くだけの苦笑をする。

「宵野様、落ち着かれました?」

 優しく包みこむような笑みを浮かべながら俺の顔を覗き込みながら問うてくる彼女に、頷く。

優しい彼女。

気持ち悪いと考えてしまう自分が、少しだけ嫌になる。

ああ、そういえば。

どうして俺を見て驚いていたのか聞くいい機会でもあるということを今、思い出した。

聞くために口を開こうと思ったが、自分が会話をするタイミングを見失っていることに気づき何も言えなくなる。

会話をするタイミングを見失っていることに気づいてしまうと、彼女に声をかけることすら面倒に思えてきた。

黙っていた方が得策かもしれない。

そう考えてしまえばそれ以上の案がないように思えてくる。

黙ったまま彼女を見ていると彼女は少し悲しそうな笑みを浮かべて言った。

「……信じてもらえなくてもいいです。警戒するのは理解できますから」

 そんな彼女の表情に罪悪感を抱く、わけはなかった。

本当は言葉を口にするタイミングを見失っただけ。

焦りすぎて考えることに時間を使いすぎた自分のミス。

彼女もそのことは分かっているのは分かっているのだ、本当に上手な奴。

そこから何かを言われる前に、会話を変えることにした。

「神楽木は何のために俺と話がしたいの?」

 会話がそれたのかは微妙、というか純粋な疑問を口にしただけだった。

それ以外に話題という話題がないから仕方ない、と心の中で言い訳をしておく。

 漸く俺が喋ったからか、彼女は安心したように息を吐き出してから返事を返す。

「因香で構いません。……何を話したいかと聞かれますと、そうですね。貴方のことでしょうか」

 口元に笑みを浮かべながら、彼女は言う。

誘惑するような物言いに首を傾げる。

どうして彼女が俺に興味を示すのか分からなかった。

どうして、なんで。

幼い子のように、疑問を何度も口にしそうになった。

「何で、俺のことを知りたいんだ?」

 光助のことを知りたいと言うのなら彼女もおっさん達と一緒なんだな、と納得できるが、俺のことを知りたいと言われると疑問しか浮かばない。

そこまで、彼女と関わりがあったわけでもないのが理由の一つだ。

何の行動も見られていないはず。

そんな俺の質問に、彼女は何かを思い出したように目を少しそらしてから笑みを浮かべる。

そして、くすくすと笑いながら言った。

「それはセオドア様が気にかけてらっしゃる方だからでしょうか」

 その言葉に、「は?」と声が漏れる。

彼女は魔法使いと面識があったのかと驚いてしまった。

俺が知らない絆があるのは当たり前だろうが、無意識のうちに魔法使いとこの国の人は関わりが薄いものだと思っていたところがある。

どうして、そう思ったのだったか。

「……魔法使いと知り合いなんだ」

 偽ることのない本音が口からこぼれた。

その言葉に彼女は、不思議そうに首を傾げる。

そして言った。

「セオドア様は私たちのことをまだ伝えてらっしゃらないのですね」

 その言葉にまた俺が首を傾げる。

私達のことを伝えていないとはどういうことだろうか。

言葉そのものを考えるのは簡単なことだが、その中に込められた意味がよく分からない。

意味ではなくこの場合は魔法使いの意図が見えないと言うべきかも知れない。

本当は分かっているのだ。

それに気が付きたくないだけで。

だから、今はそのことを考える時ではない、と疑問を片隅に放り投げる。

今は考えた答えを彼女に肯定してもらわなければ話が進まない。

「神楽木……因香さんの他にも、魔法使いの知り合いがこの国にいるの?」

 彼女は俺の疑問に頷いて顔を伏せる。

彼女の綺麗な髪がその動作によって彼女の顔を半分隠した。

今度はしっかりと髪がその顔を隠すような面に変わる。

髪で半分顔が隠れたせいで彼女の表情がうまく見えなくなった。

その状態のまま彼女は俺の疑問に返事を返した。

「彼女の名前はエルマといいます。……聞き覚えがありませんか?」

 エルマ。

その名前は俺の世話係を任された子と同じ名前だった。

聞き覚えがあるかと聞いてくるということは、多分、それで正解だろう。

「あの髪を肩までのばした小さな女の子だよね?焼け爛れた痕があったから、覚えやすかった。確か、エルマ、アルティだっけ?」

 俺の腰くらいしかない背のメイド服を着た顔の半分が焼け爛れた大人っぽい少女を思い浮かべながら彼女に言うと、彼女はため息を吐いてから呟く。

それは独り言のようにも聞こえる話し方だった。

「そう、貴方には傷を見せたのですね、彼女は。この世界の生き物事情を知っていない貴方の前だったから油断していたのでしょうね。あの傷がどういった意味を持っているのか、分からないのだから」

 彼女の口から紡がれる言葉に、疑問ばかりが増える。

俺の答えは間違っていないようだが、彼女にも何か秘密があったらしい。

何故、と考えても、それはエルマにしか分からないことだから考えるだけ無駄だと思う

だから、疑問は口にしない。

それよりも不思議に思っていることがある。

「あのさ、聞いていいか。獣みたいな姿をした奴がいたと思うが、あれって魔族じゃないのか?」

 ずっと考えていたことだ。

魔族というのは魔力を持った赤目で黒髪の人だとセオドアが言っていたが、それ以外を魔族と呼ばない理由は知らない。

魔力のある人と人ならざるものの違いは何なのだろうか。

人だから迫害するのだろうか。

そう思いながら彼女の言葉を待つ。

彼女は顔をさっきより顔を伏せて俺の質問に答えた。

「……魔族は、魔力を持った人です。魔力を宿してしまった人です。勿論、魔力を宿すのは他の種族にもいます。けれど、その魔力は微量です。しかも、大人になる過程の中で消えていきます。しかし、魔族である彼らの中にある魔力は消えません。消えないばかりか、増え続ける一方です。異世界人の血がなせるものだと考えますが、どうなのでしょうね。人ではないものは、人ではない種族として認めることができますが、魔力を持った人は、どこにも分類できません。人ですが人ではない。人なのに人とは違う。他の国では何と言うか知りませんが、この国ではそんな彼らのことを魔族と言います」

 彼女の話を聞き、ああ、差別の名称みたいなものかと心の中で納得する。

言いたくないのに俺の質問に答えてくれた彼女には悪いが、考えていた可能性の一つを肯定されて少しがっかりしていた。

どこの世界にも、差別は消えないのだと実感して。

彼女は話を聞いた俺がどんな対応をとるか気になるようで、手を握ったり、親指と中指を擦り合わせたりしながら俺の返事を待っていた。

彼女の期待に答えられるか分からないが、優しく聞こえるように言葉を口にした。

俺が話を聞いて思ったことを正直に。なんて、心の中で言ってから舌を出す。

ああ、おかしい。

「俺はさ、この世界の住人じゃないし、まだ魔族って呼ばれる人達にも会ってないから分からないけど。それに差別されることを知っていても体感したことが分からないけどさ。いや、俺たちの世界は無意識に差別も区別もするか。後、これは因香の感情を否定している訳じゃないから怒らないでね。

上から見ているだけで、かわいそう、かわいそうって思うのは傲慢だと思う。彼らが何を思っているのかを理解する気も無いくせに同情するのは、彼らを侮辱するだけだから。それと、これは俺の質問に答えるためだと分かっていてもさ、人だと認めているなら人なのに人とは違うって言葉は使っちゃ駄目だと思った」

 俺が言った言葉に因香は、顔を上げて何か言うために口を開こうとしたが、俺が話を遮られないように少しだけ大きな声でもう一度、言葉を紡いだ。

「って言うのは建前で、正直に言うと魔族がどうこうって正しい現状も知らないし、俺に関わりがないならどうでもいい。因香の話を聞いても、今の俺が思うことなんて疑問が解消されたな、くらいのものだ」

俺の言葉の続きに因香は困惑したような表情のまま俺を凝視してから納得したように頷いた。

「……貴方は自分が一番大切なのでしょうね」

 因香の目からは、落胆と羨望がごちゃ混ぜにされたような複雑な色が読み取れた。

そんな彼女に告げる。彼女の言葉は半分しか当たっていないことを。

「俺はね、因香の言う通り自分が大切だけど、自分を幸せにしてくれる家族が一番大切かな」

 例えば、勉強を教えてくれた祖父だとか、人との関わり方を教えてくれたおばさんだとか。

 偽りなく微笑みながら言うと彼女は唇を噛みしめて、羨ましいと言いたげに小さく呟いた。

「ずるい」

 その言葉に俺はただ笑みを返した。

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