018
期待のこもった子どもの様な目が、靴から視線を逸らさない。
少しでも動いたら、今度は攻撃されるだろう。
そう思うと動けずにいた。
ひ弱そうに見えるが、飛び道具を持っているかもしれない。
「うん、そうだな、そうしよう」
靴をじっと見ていた彼女は、急に顔を上げて俺の顔を見て笑った。
悪戯っ子のような笑みを浮かべて、決定事項のように俺を指差す。
「お前、研究対象にぴったりだ」
笑顔で言った彼女から逃げる様に、体を後ろに引く。
笑みが少し引きつりそうになった。
これ以上、面倒事に巻き込まないでくれ。
声に出して抗議しようと思ったが、彼女の立場がまだ分かっていない。
下手な行動はしない方がいいだろう、と考え直す。
彼女は楽しそうに上から下、下から上と眺めていたが、何かに気付いたのか動きを止めた。
少し驚いたように目を見開いてから、楽しそうに笑っている。
何だ? 何に気が付いた?
視線の先が分からず、戸惑う。
特別な物、持ってたか?
今、持っている物を思い出しながら、彼女を注意深く見る。
逃げるために隙を見つけたい。
笑顔を崩さない様に、警戒されないように。
それだけは気を付けて彼女と対峙する。
ずっと笑顔を心がけていても、表情だけではすぐにばれてしまう。
心から笑っている表情と無理に笑みは作っている表情は、分かりやすい。
不自然な状態の笑顔でいるのは心理学者やカウンセラーみたいな専門の人だけでなく、勘のいい人にはすぐに違和感を抱かれてしまう。
だからこそ、相手に気付かれない様に、ばれない様に、技術を身につけないといけない。
雰囲気、体の力み具合、足の位置、目線等々。
あくまで自然体のように見える笑顔が一番、騙しやすいのに気が付いたのは小学生の時だ。
笑えば、周りは安心する。
笑えば、誰もが俺を甘やかす。
笑えば、集団の中にいても追い出されない。
そのことに気が付いてしまえば、止められなかった。
今だから思うが、だから悪癖になったのだろう。
「ひひひひ、嬉しいな、嬉しいな」
彼女は楽しそうに笑っている。
ああ、今すぐ逃げ出したい。今すぐ家に帰りたい。買ったばかりの本が山積みになっていたはずだ。外に干してある洗濯物が気になる。
現実から逃げる様に、いつも通りのことを考えようとする。
あ、そういえば。
漸く、特別な物だと言っても可笑しくない物を思い出した。
魔法使いから貰った髪飾りがあったな。
ポケットの上から、それを確かめる。
誰かに後ろから引っ張られたかのように、自然と足が下がった。
「本当に、興味がわく」
彼女は色の薄い唇を舌で舐めて、草食動物を狙う肉食動物のような目で俺を見ている。
逃がさないという意思表示だろうか、俺の腕を強く掴んできた。
自分の欲求のためならなんだってすると言いそうな彼女の態度は好ましいが、それは俺が巻き込まれていなければの話だ。
ああ、面倒くさい。
そう思うのに、彼女の手を振りほどくことはしなかった。
拒んで彼女がどんな行動にでるか分からなかったし、何より女だから。
女は何よりも怖いものだから。
それを彼女はどう受け取ったのか、顔を伏せたまま動かない。
ゼンマイが切れたオモチャのように、動かなくなった。
彼女は顔を伏せたまま、変な笑い声を上げている。
頭が痛くなってきた。
雨の日に傷が痛むみたいに痛い。
考えることを放棄したくなってくる。
彼女は顔を伏せたままの状態で言った。
「俺に気に入られたことを光栄に思えよ」
自信たっぷりの言葉に、笑いそうになる。
遊びでやった恋愛ゲームの中に似たような登場人物がいた気がする。
そう思うと、余計に面白かった。
「俺に気に入られるなんて、彼奴くらいだからな」
子どもが宝物を自慢するかのように、彼女は言葉を続ける。
「俺の特別な研究対象」
彼女は、綺麗すぎる笑みで俺を見た。
魚が死んだときの様な目が俺の姿を映す。
まるで、水の中に引きずり込まれたような気持ち悪さを覚えた。
「逃げるなよ」
氷の入ったコップを触っているかのような冷たさが、彼女の手から伝わってくる。
人の姿をしているはずなのに、人とは違うモノに思えた。
妖精や悪魔を信じているわけでは無いが、そういうモノがいるのなら人の皮を被っているかもしれない。
そう考えると、余計に気持ち悪く思えた。
「では、研究室に行こうではないか」
最初から俺が一緒に行くことに頷いているかのような気軽さで彼女は言う。
俺は柔らかい笑みを浮かべて、彼女に答えを返した。
「お断りです」
断られるとは思っていなかったのか、呆気に取られたような顔で見てくる彼女の腕を振り払う。
彼女の手は簡単に外せた。
「何でだ? お前が断る理由はないだろ?」
首を傾げて、そう言ってくる彼女に頭が痛くなる。
理由がないと思っているのも問題だ。
だが、断る人の方が多いだろう言い方で頷くと思っているのも問題だ。
子どもの我が儘のように思える。
額に手を置きながら彼女を見れば、不思議そうな顔をしながら俺を見ている。
説明するのも面倒くさい。適当に、理由を言ってればいいか。
「……ほら、この死体を処理しないといけないだろ? そのままにしておくわけにもいかないから」
そう言えば、彼女は少し拗ねたような顔をして黙った。
この汚いままなのが駄目なことは理解しているらしい。
「だから、悪いけど行けないんだ」
そう付け加えても彼女は黙ったまま、何も言わなかった。
何かを考えているのか、彼女は顎に手を当てて動かない。
今のうちに逃げよう。
彼女から視線を逸らさない様に、後ろに下がっていく。
あと二、三歩すれば背を向けて逃げよう。
そう思いながら足を下げていると、彼女が口を開いた。
「俺がどうにかしてやる。これくらいの事なら、簡単に消せるからな」
得意げな笑みを浮かべて、彼女は言う。
俺は間を置くことなく首を横に振った。
どういった処理の仕方をするのか分からなかったからだ。
何より、逃げるために用意した理由だし。
「……何で?」
彼女は少し苛々したように呟いた。
お前から逃げるためだけど?
そういう思いを込めながら、
「すみません」
謝罪する。
彼女は不満そうに眉根を寄せて、俺を睨んだ。
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