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 「これは何も知らないお手伝いの独り言だと思ってくださいね」と私より古参の彼女が笑って言った。

「ごめんなさいね、お仕事中なのに。宵野様と慈恩寺様の第一印象を誰かに言いたくて」

恥ずかしそうに彼女は頬に手を当てる。

私は頷いて先を促した。

「二人とも優しそうな雰囲気だったわ。騙されやすそうだとは思ったけれど、それは私達より若いからでしょうね。遠くから見ているだけだったけれど、慈恩寺様の温かな雰囲気にも宵野様の話しかけやすそうな笑顔にも、悪い印象は持てなかったの。周りの方達もそうだったようで、仕事の合間を見つけてはどちらの方が好みかだとか、二人はいつから知り合いなのだろうかって、話していたわ。その中で一番、歳の近い友人が言っていた言葉が今でも記憶に残っているの」

目を閉じ、その言葉を思い出しながら彼女は言う。

「その子はね、私は慈恩寺様の方がいいわ。だって、宵野様はまるで風のように実態が掴めない方なのですもの。あのような方の恋人は苦労しそうだわって言ったの」

彼女は目を開け、私を食い入るように見た。

「私もね、その子の言葉を聞いて思ったの。風と言う表現は宵野様にぴったりだと。掴み所のない、何を考えているかも分からない、全てが謎なお方。そう考えるとあの笑顔も、人を騙すための仮面のようなものに思えてきて、怖くなったわ。だけど……」

 彼女は手を握り、恋する少女のように頬を赤く染める。

「私はね、そんな十夜様の方が魅力的に思えたの」

まだ彼等を見ていないから分からないが、そんなに魅力的なのだろうか。

「私と同じ考えの方も多かったわ。だけど、私よりも夢中になっている人達がいたの。宵野様への思いは例え、どんなお姿を見ようと変わらないって、信者が神様を信じる様な熱心さで言っていたわ」

 彼女は困ったように笑った。私は黙って、話の続きを聞く。

「朝が似合う慈恩寺様と夜が似合う宵野様に、皆、夢中だったわ。それだけ二人とも魅力的だったの」

 彼女から話を聞けたのは、ここまでだ。

「仕事をしないとね」と彼女に言われ、私達はそこで別れた。

私は取りに来ていた箒を手に持ち、彼女を見送る。

「もう少しくらい話していてもよかったのに」と思ったが、彼女に意見できるはずもなく、おとなしく持ち場に戻った。

廊下を歩きながら、いつ慈恩寺様と宵野様に会えるのだろうかと考えていると、

「あはははは」

 笑い声が聞こえた。

ばれない様に隠れながら、声が聞こえた方を見る。

優しい笑顔のまま人をいたぶる姿が、そこにあった。

知らない男の顔に、慈恩寺様か宵野様のどちらかだろうと目星を付ける。

どんな素敵な方でも、あんな姿を見てしまえば恋い焦がれるなんて無理だわ。

だから、この胸の高鳴りはただの恐怖に違いない。

間違っても恋ではない。

「嫌だわ」

定期的に掃除しないといけない廊下の当番であることを、ここまで恨んだことはありません。

ため息を吐いて、箒を握りしめる。

他国から来た男がまた、何か分からない薬品をばらまいているのにも気が付きます。

王はどうしてこんな方を王宮に住ましているのだろうか。

もう一度、溜め息を吐いた。

廊下の端から掃除をしなければならないのも嫌だけど、後片付けをしないといけないのも嫌だわ。

「疲れることばかり。最悪だわ」

自然と愚痴が零れ落ちた。

だけど、自分はさぼることができない臆病者だから。

遠くで聞こえる男の声を無視しながら、ゆっくりとした動作で掃除を始めました。

彼がこちらに来ないことを祈りながら、ゆっくりと箒を動かす。

どれだけ時間が過ぎたのか分からないが、柱一本分くらい掃除が進んだ時、男の声が聞こえないことに気づきました。

不安になり、つい男を探してしまいます。

逃げたのかもしれない。

他の獲物を探しているのかもしれない。

 廊下の柱に隠れながら、少し進んで男を探します。

ようやく男の姿を見つけた時、私は安心して息を吐いた。

たとえ、無言で踏みつけている彼の姿を見ても、安心してしまった。

むしろ、いつも迷惑ばかりかけている男が虐げられているのを見て、心の何処かでざまあみろ、と思っていた。

声をかけるべきか迷ったが、彼らに近づこうとする。

だけど、二人に近づこうとした足が止まった。

頭の悪い私はようやく、今の状況が悪い場面だということに気がつく。

「え? え?」

混乱したように、そう呟いていた私はその場面を呆然と見つめる。

足を男に乗せたまま、柔らかな笑みを浮かべていた彼は、男が何かを喚いているのを聞きもせず、足をあげまた振り落としました。

どうしよう? 私はどうするべき?

 頭の中で、そんな言葉しか出てきませんでした。

「ぐっ」

男が苦しそうに呻いているのが、聞こえた気がします。

彼は、その声に満足したように笑みを深くし、さっきと同様に足を振り上げては落とした。

お腹の辺りを踏まれているせいか、男は本当に苦しそうに呻いている。

その様子をまるで気にもせず、彼は笑っている。

優しげな笑みのまま、足を上げては下ろす。

踏む。踏む。踏む。踏む。踏む。踏む。踏む。踏む。踏む。踏む。踏む。踏む。踏む。

その様は、子どもが地団駄を踏むような様子を想像させる。

 そんな行為が始まってから私は物陰に隠れていたことも忘れて、じっと彼を見ていた。

何もすることはできず、ただ眺めていた。

「随分と楽しそうだと思わないか?」

そんな私の肩を、いつの間に近くにいたのか他国から来た男と同じような立場の女が掴んで楽しそうに言葉を吐く。

「…………」

 恐怖で言葉がでなかった。

「おやおや、黙りかい? 酷い人だ」

本当にそう思っているのか怪しい言葉を吐きだしながら、女は声を出して笑いだした。

ひひ、と喉の奥をひきつらせたような笑い声に、私は知らず知らずのうちに箒を強く握りしめる。

まるで、嘲笑されているように感じる笑い声だ。

彼の声が聞こえなくなるので止めてほしいものです。

「貴女も笑ってなくて、この状況を解決する方法を考えてくださらない?」

つい、口調がきつくなる。

考えていなかったことを他人に押し付けようとしていたせいだろうか、そんな私の心の内に気づいていたのか、女は尚更馬鹿にするように笑い続けました。

「ひひ、お嬢さんは随分と気が強いようだ。そういう子は嫌いじゃない。だけどな」

女は、意味ありげに言葉を切って私を見る。

私は何が言いたいのか分からなくて顔をしかめてしまった。

女は私のそんな顔を見ながら、言葉を続ける。

「身の程知らずな馬鹿は嫌いなんだ」

 がっ、と鈍い音が間近で聞こえた。

どこかにぶつけたのか体が痛い。

何が起きたのか分からなくて、混乱する。

何? 何が起きたの?

理解するよりさきに、女が私の髪を引っ張りました。

強い力で引っ張られたせいか、痛みに顔を歪めます。

そんな私の気持ちなど知らず、女は低い声で言葉を続けました。

「ただの人間が俺に命令するな、気持ち悪い。ただの人間が俺の行動に口出しするな、気色悪い」

さっきまでの女とは別人のようだった。

笑っていた顔が、今では表情を削ぎ落としたかのように無表情になっている。

「俺、これでも一応、体は女な訳だし気をつけていることもあるんだけどさ? それでも、我慢ならないことあるんだ。あんたみたいな女とか見たら腹立つわけ。だから、俺のために死んでくれ」

女はそう言ってベルトと呼ばれる場所にくくりつけられた小さな小瓶をとりだし、コルクを抜いて中に入った液体を私にかけました。

キラキラとした虹色の液体が私の体を濡らします。

冷たさも熱さも感じない不思議な液体だ。

「きゅうに、何、をするのですか!」

私は、女の手を振り払いながら声を出す。

慌てて口を手で覆った。

彼に聞こえたかもしれない。

女は何も答えない。

無表情のまま、私を見ていた。

それが不気味だった。

この人はどうしてこんなことをするのだろうか。

なんで? なんで? なんで、なんで?

頭の中を埋め尽くす、疑問に答えなんてでてこない。

それでも何度も繰り返し、頭の中に浮き上がってくる問いかけ。

「勇者の世界で言えばエンサンって言うらしいのだけど、俺のはまだ完成品じゃあないからさ、時間をかけて空気に触れさせないと効果がないんだよな」

ひひひ、と笑いながら女は何かを言っている。

そう説明されても、自分がどうなるのか分かりません。

ふざけないでください。

 言葉が口から出る前に全身に痛みが走った。

熱い水を頭からかけられたような、熱さと削り取られるような痛みに思考が完全に停止する。

「はっ……ぐっ……」

言葉にならない何かが口から漏れ出す。

「ひ、ひひひひ、それじゃあお休み」

最後に見たのは、歪な笑みを浮かべた女の後ろ姿だった。

その背に向けた言葉は、果たして彼女に聞こえたのでしょうか。

声に出ていたのかも分からない。

私には分からなかった、この痛みが何なのか。

痛い、痛い、痛い。

こうやって生きていることが奇跡のような痛みが体を襲う。

例え、顔の半分や肩や胸に酷い傷跡が残ろうとも生きていることが大事だと思えた。

 だれか、たすけて。

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