08

 掴んだと思った瞬間に、ぼとり、と腕の形を保っていたものが崩れて地面に落ちる。

音をたてて落ちたそれは、液状となって血の中に溶けていった。

「あ?」

 思わず、自分の手と地面を交互に見てしまった。

波紋を描いているが、血の水溜まりが広がっている様子はない。

手には何もついていなかった。

だが、スライムを触ったような感触が残っている。

「また今度」

 ざらついた声で彼が何かを言った。

聞き取れなかった声に「え?」と聞き返しながら顔を上げる。

どろどろとチョコレートが融けだすように、彼の体は崩れていた。

顔が見えなくなり、足や腕がなくなり、体がなくなっていく。

汚れていない手を拭って、彼の体が床に溜まっている血と混ざりあっていく様子を見ながら息を吐いた。

「一歩遅かったってことか。なんか悔しい」

 とぷん、と音がして、しずめの姿は血の水溜まりの中に消えた。

そういう技があるのか。

それとも、元々、液体になれる種族なのか分からないが、貴重な情報源を逃がしてしまったのは勿体ない。

「あーあ……」

 水溜まりの中に足を入れて、ぐちゃぐちゃとかき混ぜてみる。

ぱしゃり、と地面に散らばった液体が跳ねて、靴とズボンを汚した。

血と何かの液体が混ざっていくだけで、塊のような物はみつからない。

彼の体が完全に溶けたのを確認して、足早にベッドに向かう。

この世界が自分たちのいた世界とは異なることは分かっている。

だけど、魔法があるという一番の違いを、まだ信じきれていなかった。

「あー、もう、知らん。めんどい。疲れた」

 ベッドに寝転がり、ポケットに入っている物を取り出して、ボイスメモを止めた。

適当な名前を付けて保存する。

黒のカバーをつけている新しい携帯の画面には圏外の文字が見えた。

やっぱり、電波はないのか。

分かっていたが、どこにも繋がらないようだ。

「……お腹すいた」

 画面の明かりが、ゆっくりと消える。

それを確認してから目を瞑った。

 これから先、猫もどきのような、俺を殺そうとする奴はたくさん現れるだろう。

勇者という名の権力者が二人以上いた場合、どちらかを祭り上げようとするのは当然だ。

そいつらにとって都合のいい方を手元に置いて、邪魔な方を処分する。

欲望に忠実な大人たちの考えそうなことだ。

にやにやと気持ちが悪い笑みを浮かべる大人を想像して、「あほらし」と言葉が漏れた。

 王様の姿なんて知らないけど、死ねばいいのに。

なんて、八つ当たりじみたことを考えてしまう。

 どんな世界でも綺麗なものだけで作られている場所はない。

それは分かっている。

だが、大人たちの勝手に巻き込まれたくはない。

 ぐっと唇を噛んだ。

こんなところに連れてこられても、まだ面倒なことに巻き込まれないことを期待している。

そんな自分が、一番馬鹿なのかもしれない。

「あほらし」

 もう一度、口に出して言った。

大人たちの企みにも、王様の言葉にも、おとなしく従うつもりはない。

どうにかして逃げてしまおう。

頬がゆるむ。

 そうだ。すべて、あいつに押し付けてしまえばいい。

間抜けで、弱虫で、正義というものが好きで、俺をヒーローだと崇めるあいつに。

あいつなら、喜んで受け入れてくれるだろう。

与えられた役目をこなし、期待された大人たちのいる場所で、決められた通りの言葉を選んで、「正義のヒーロー」になってくれるはずだ。

そして、主人公の様に周りから崇められ、称えられながら、王様から可愛い姫を貰い、色んな人から祝福されながらパッピーエンドを迎える。

 その様子を想像して笑った。

ああ、俺が何も言わなくても、あいつは迷わずに選ぶんだろう。

都合のいいゲームのキャラのように。

そうなってくると、気になってくる。

初めから殺されそうになっている俺と初めから道具としか見られていないあいつと、

「可哀想なのは、どっちなんだろうな」

 まあ、向こうだろうけど。

ふあ、と欠伸がでた。

 あ、死体どうしよう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る