03
バンッと響いた音に、自分が何をしたのか思い出す。
これは自分の物ではない。
それなのに叩いてしまった。
「やべっ……」
慌てて、勢いよく叩いた鏡から手を離す。
苛立つと物にあたる小学生じゃないのだから、高校生にもなって癇癪とは救えない。
「お金、持っていないのに。買いなおせないぞ」
高そうだよな、この鏡。
小さく呟きながら、鏡に傷がついていないか確認する。
鏡の向こうには、目や鼻や口はもちろん、きゅっと上がっている頬、右耳の近くで一束だけはねている髪、現実と何も変わらない俺がいた。
大きな音だったが鏡には傷一つ、ついていない。
「……あーあ」
傷ついてない鏡に安堵すると同時に落胆した。
鏡を割ると七年も不運が付きまとう、とは言うけれど、正しく自分の姿を映す鏡を見続ける方が不幸せと言えるかもしれない。
とんっと、人差し指を鏡にくっつける。
そのまま、自分の顔にバツをつけるように動かした。
鏡の向こうにいる俺も、笑顔のまま、同じ動きをする。
素手で触っているから鏡にべったりと指紋が付いてしまった。
「きたない」
そう呟きながら、鏡に触ることはやめない。
汚れたなら綺麗にすればいいだけだから。
そう、自分の行動を容認する。
「本当に、汚い」
人差し指で、三日月の形をしている目や自分の上がっている頬を鏡越しになぞった。
周りから見たら、いつでも笑っている変な人に見えるかもしれない。
いや、そう思っているのは、俺自身なのだが。
笑顔であることは相手に好感を与える。
変な笑い方をしない限り、悪い印象を与えることもない。
この癖をいつ頃から続けているのかなんて忘れてしまったけれど、中学生の時には既に自分の「悪癖」だったような気がする。
小学校高学年の時に、「ずっと笑顔で気持ち悪い」とか「いつも笑顔で、明るい子」とか、いろいろと言われたことがあった気もする。
低学年や幼稚園の時の写真を見ても笑顔だったが、写真に写る時は、基本的に笑顔だよな。
そもそも癖とは人が無意識のうちに、あるいは強く意識することなく行う習慣的な行動なのだから、いつからなど本人が分からないのも当たり前か。
それに記憶も本当に正しい記憶だと確証はない。
昔のことなんて、途切れ途切れにしか思い出せないし。
「あほらしい」
治らないのは当たり前だ。
別に、困ってはいないのだから。
困っているフリをしているだけで。
知識欲を充たすためだけに、頭の中に詰め込んだ本を閉じる。
無駄に増えていく知識を、頭に浮かべるのは楽しい。
何も考えてないみたいで。
自分で考えることは頭を使う。
頭の中にある本のページを捲って、思い浮かべるだけなら楽だ。
これも、俺の悪癖だろうか。
「後ろ向きに考えるのは、やめだ、やめ」
自分の顔を隠すように鏡に手をつく。
さあ、気持ちをリセットしよう。
綺麗な鏡に指紋がついてしまっているのに、さっきまでの汚してしまった罪悪感を抱かなくなっている。
いや、罪悪感なんて最初から抱いていなかったような気もするが。
「……綺麗にしないと」
どれだけ綺麗でも、鏡は真実を映すもの。
白雪姫に出てくる鏡のように。
だから、この使い方は正しいはずだ。
リセット、リセット。
気持ちを初期化。
自分の顔を隠す手を動かさず、鏡に置いた手に額をよせて呟く。
「おやすみ。ぐだぐだと悩む俺」
その声は誰にも聞かせたことのない弱弱しい声で、自分でも少し戸惑う。
それだけ今の状況に困惑しているのだろうか。
手の甲に押し付けていた額を離し、とんっと、鏡を押して手を離す。
「おはよう。新しい俺」
鏡の向こうで、俺が笑う。
うん、いい笑顔だ。
「さあて、勇者だとか、世界のことだとか考えるとするか」
少し棒読みになったが、声に出した方が何をしようと思っているのかが明確になる。
そう、今の状況が変わるわけでもない。
考えなければいけないことは、たくさんある。
食事とか、新しい服だとか、勇者のこととか。
鏡の中で、笑顔の自分が「今の貴方が一番、正しい」と変わらずそこにいる。
白雪姫に出てくる女王が鏡を手放さない理由が分かる気がした。
「うん、本当に気持ち悪いな」
さっきの行動も、笑顔の自分も。
「そうかな? 人間らしくて、素敵だと思うけど」
明るい声。
返事なんて聞こえてこないはずなのに、聞こえてきた声に目を瞬く。
一人しかいない空間だからこその行動だったのに、見られていたのか。
「誰ですかネ」
いつの間に部屋の中にいたのか。
不法侵入、やめろ。
文句を飲み込んで、声の方向に向き直る。
あれ? いない?
部屋の中にいるはずなのに、どこにも見えない。
ああ、そうか、そうだよな。
どうして、姿が見えないのか分かった。
声をかけてきた人物は、気づかれない様に扉の近くに立っているのだ。
移動してみれば、すぐに姿が見えた。
「やあ、こんにちは」
最初に目を引いたのは、体の線を隠すように全身をすっぽりと覆った黒いマントだ。
ほとんどの人が「魔法使いの恰好?」と、言いそうなマントを着ている。
その次に、目に留まったのは、白い色に近い、ほんのり金を含んだ明るい髪。
耳の下あたりか、それよりも上で括る方が綺麗に見えるだろうに、白金色の髪を左側に寄せ、肩の前あたりで縛っている。
この世界に黒髪はいないのだろうか。
さっき見た女の髪とか、水色だったけど。
二次元の存在みたい。
あながち間違っていないのか?
「この世界にやって来た異界の人。私はセオドア。ただの魔法使いさ。セオと呼んでくれても、親愛を込めてテディと呼んでくれても構わないよ」
見慣れない赤い色の瞳を細めて、そいつは言った。
いや、初対面の相手を愛称で呼ぶのって、ハードル高いと思うんだが。
心の中で突っ込む。
「セオドアさん、何のご用でしょうか」
しかめっ面になりそうな顔を、真顔に戻しながら言った。
相手は気にした様子もなく、勝手にベッドに座る。
部屋の明かりに当たってキラキラと輝く髪がはねた。
男なのか女のか分からない中性的な顔立ちと日に焼けたことがない雪のように白い肌。
肌を隠しているのか、目を隠しているのか、眼帯で顔の三分の一ほどが隠れている。
肌に映えるような黒色だからだろうか、違和感を覚えない。
少し勿体ないようには、見えるが。
前髪を左側に流して隠そうとしているのか、眼帯に前髪がかかっている。
どうしてか、その目を見た瞬間に形容しがたい気持ちが込み上げてきた。
恐怖? いいや、違う。
興味? それも違う。
その気持ちが何なのか分からない。
シャボン玉を壊さず、手で掴もうとしているみたいに、捉えられない。
今は考えるな、目の前にいる人物に集中しろ。
必要ないことだと、振り払い相手を見る。
「座ってお話でもしないかい?」
何のために来たのか、いつ来たのか分からない、自称魔法使いは自分の隣を叩きながら言った。
「私は、君と話したくて来たんだ」
楽しそうな笑み。
ゆったりとした動作で足を組んだ自称魔法使いの観察するような赤い目に、俺の姿が映し出されている。
目が笑ってないことくらい気が付いていた。
無理に笑みを作らなくてもいいのに。
自分を棚に上げて、そう思った。
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