十 南風来たる(3)

 腰の鱗が熱いことに気づいたのはそのときだ。火傷するほどではないが、寒い日、懐に抱く温石に似ている。


『あっ、何、何かすごく変な感じがっ……』


 シャナハが戸惑いの声をあげるや、目が回り、意識が遠のく。夢を見ていると自覚している夢の途中、あるいは人形芝居に熱中しているときと同じく、何もかもがふわふわして遠い。助けを求めようにも声は出ず、体も動かなかった。

 あたりがぼうと青く光る。洞窟の中みたいだ、と思い、託宣の夢で見た光景なのだとようやく理解が追いついた。


『もしかして……始祖竜とつながる、ってこういうこと?』


 その通り、と誰かの声が答えた。シャナハの声なのか自分の声なのか、よくわからない。頭がぼんやりして、考えがまとまらない。


『わたしの鱗を持つ者にも、存在を明かすことにする』

『わたし/あなた/おまえ/われわれは、新たな風を招くもののようだから』

『このまま進んでいいってこと? 群島と……北王国と国交を持っていいの?』

『それが竜のためなの?』

『わたし/みんなのためなの?』


 誰が喋っているのか、自分が喋っているのか、聞き分けられない。シャナハだけでなく、たくさんの気配がした。またも目眩を覚えてうずくまる。

 飛翔したときと同じ浮遊感、青い洞窟が暗闇に覆われたのも一瞬のこと、揺れる木漏れ日に周囲を見回せば、そこは王宮の一角、ナターシュもよく知っている庭の奥まったところだった。託宣の青い光景も、存在の気配も、どこにもない。


『ここに始祖竜が?』

「きっとそう。ここにいるんだ」

『よくここで泣いたよね。意地悪されたとき』

「ああ、訊き忘れちゃったね、鱗のこと……」

「ナターシュ、しっかりしろ、大丈夫か!」


 夢うつつのままぼんやりと喋っていると、肩を掴まれ揺すぶられて我に返った。

 寒々しい竜舎だった。エドワルドとシュトルフェが心配そうに瞬く。尻が冷たい。

 始祖竜とまみえたときの暗さや青さ、誰のものとも知れぬ声は、どれほど感覚を尖らせてももう感じられなかった。一方的で勝手な、いっそ暴力的ともいえる接触に、相対する存在の大きさを知らされた思いだ。


「大丈夫です。ちょっと、夢を見ていたみたいで」

「夢?」

「託宣の夢に似ていました。始祖竜が鱗を通じて話しかけきたみたいで」


 膝を払って立ち上がりながら、エドワルドが赤毛をかき混ぜる。それってすごいことなんだよなあ、としみじみした感嘆が白い息と共に冬空に散った。


「そうです、ただならぬことですよ」


 突然の同意に驚いて振り返る。

 細い目は月のごとくに弧を描き、薄い唇が酷薄に吊り上がった。蓑虫の長衣に身を包んで長い髪を寒風になびかせ、しかし当の本人は寒さを感じたふうでもない。


「カラディン……! どうしてここに……」

「どうして、というのは、手段ですか? 理由ですか? それを質問なさる意味はありますでしょうかね? 私は確かにここにおりますゆえ」


 彼がひらひらと動かした左の手のひらから、砂のようなものが舞った。手のひらを腿になすりつけて神経質に砂をこそげ落とし、さらに息を吹きかける。


「そんなに気になるなら、手袋でもしろよ」

「おお、それは名案ですね! 次回からはそういたしましょう。……もっとも、こんな大がかりな術はしばらく使う予定はありませんけれどね。この調子で石を砕いていては、蓄積が追いつきません」


 エドワルドの刺々しい口調も気に留めず、カラディンは一歩を踏み出した。城勤めの竜使いたちは皆詰め所にいるのか、姿が見えない。ファゴが威嚇の唸りをあげた。


「それで、今しがた話されていた始祖竜とはあの始祖竜ですよね? 神に等しい存在がこの国に本当に、存在しているのですね? どこにいるんです? 会わせて下さい、ぜひ」

「盗み聞きとは、魔法院のかたは品のないことをなさるのね」


 精一杯の凄みにも魔法使いは動じなかった。大仰に腕を広げてみせる。右袖がはためくのに気をとられた隙に残った左手が閃き、先だって手渡されたのと同じ便箋が現れた。


「品はないかもしれませんが、聞いてびっくりの超絶技巧なんですよ、これは。お渡しした便箋をいつまでも持っていらっしゃることにも驚きましたがね」


 上着の隠しに手をやると、捨てる間もなく存在を忘れ去っていた、魔法に関する報告とやらがくしゃくしゃのまま入っていた。


「遠話魔法の応用で、その便箋を介して姫君のお声が私に届くようにしたんです。最初はね、ただ聞いているだけにしようと思っていましたよ。ですが始祖竜なんて話が出たならば黙っていられません。敬虔なる知識の徒が神話時代の存在との邂逅を見逃すなど、死にも勝る屈辱! そんなわけで、こうして魔法でひとっとび。まかり越した次第です」

『相変わらず、よく喋るよね……。じゃあで、なに? 始祖竜見たさに魔力を溜めた石を潰して、ここまで来たってこと? どうぞご覧下さいって、歓迎されるとでも思ってるのかしら。よくやるわ、まったく』


 彼の饒舌さが嫌悪感に拍車をかけているのだとようやく理解したが、当然ながら始祖竜の居場所を喋ることはできない。姉があれほどの、命を賭してまで守ると決意を見せたのだ。脅迫や暴力に屈して、国の礎を揺るがすことはできない。


『逃げよう。魔法は得体が知れなさすぎる。人を呼ばなきゃ』


 しかし、竜を残して逃げることも、城の者にカラディンの相手をさせることも気が引ける。ここにいる誰も、彼を、スピカの命を奪った魔法を知らないのだ。

 逡巡の隙をついて、魔法使いがさらに一歩を踏み出した。同時に、シュトルフェとファゴが揃って吠える。地面が震えるほどの、闘志と敵意をむき出しにした威嚇だった。指示もなくこんなに竜が吠えるのは見たことがない。応じて、同行した山地の竜が竜舎で暴れ始める。知らせるまでもなく、竜使いなり衛兵なりが駆けつけるだろう。

 その前に、できれば殴って昏倒させるくらいはしておきたい。あの魔法が人に向けられたら、と考えるだけで背筋が冷え、けれども脚は震えることなく前に出た。


「シャナハ」

『任せて』


 交替すると同時に腰のナイフで手を切った。カラディンがほう、と頬を緩める。流れ落ちる血に、竜たちが応えた。獰猛さと忠実さを溜めこんで体をたわめる。

 房の横木を取り払い、竜たちを自由にしたエドワルドが隣に並ぶ。護身用の剣は鞘の中だ。まだ正式な国交が結ばれていない状況、しかも王宮で下手に抜剣すると、これからの歩みに障ると判断してだろう。下がれと言われないことが嬉しかった。

 始祖竜との接触ゆえか、高山地帯で魔法を使うときよりも感覚が澄み渡っている気がした。竜たちの存在が手に取るようにわかる。はるか向こう、魔法が届かないほど遠くに、始祖竜の息吹をかすかに感じた。こちらを意識している。見守られている。

 大丈夫だ、とわけもなく思う。


「困りましたねえ、ことを荒立てるつもりはないんですが……騒ぎになると厄介ですし、始祖竜に届くことを期待して、とっておきをお見せしましょうかね」


 白々しく言ってのけ、カラディンは長衣の中からぞろりと長い鎖を引き出して、地面に円を作った。させまいと飛び出したエドワルドの足元から炎が噴きあがり、彼はたたらを踏んで舌を鳴らす。無粋ですねえ、と冷笑が響く。


「見ていてください、私の傑作です。きっとおふたりとも、見たことのない魔法ですよ。ほら!」


 鎖で囲われた地面が黒く染まり、なにも知らなければ穴にしか見えない円い部分から、同じくどす黒いものがにゅうと突き出るさまを、シャナハとエドワルドは言葉もなく見つめた。

 それは汚泥そのものでありながら、紛れもなく腕だった。冬の低い太陽に照らされてぬめる腕が湿った音をたてて大地に踏ん張り、全身を持ち上げるさまは吐き気をもよおすほど醜悪で、生理的な嫌悪を禁じ得ない。知らず、一歩退がっていた。


「まさか」


 へどろをこね上げたかのごとき色、翼と呼ぶにはお粗末な、空を掻く何か。胴が円の中からずるりと引き出される。いかにも粘つきを感じさせる黒いものが尾を引いて、何度か立ち会ったことのある馬の出産を連想したが、慌てて打ち消した。

 これは、いのちの誕生などではない。その対極にあるものだ。


「……スピカ」


 驚きと緊張、嫌悪と吐き気で声が掠れた。


「あれ、わかりましたか。まだまだ再現度は低いんですが、元の遺体の損傷が激しすぎて、今の私の技術ではここまで造形するのが限界なんですよねえ。あの時は手加減できませんでしたから、壊しすぎてしまいました。この通り、実際の竜とは似ても似つきません。精進せねばなりませんね」


 竜を模した黒いどろどろが、カラディンの傍らに控える。その姿を見ることも、認めることも、立ち向かうことも全身が拒否している。

 けれどもそれは竜だった。スピカだった。ナターシュとシャナハを探し求めて北の曇り空を駆け、カラディンの魔法で灼かれた友だった。

 喉が鳴って、形を残した食事を吐き戻す。こらえようもなく涙が滲んで、シャナハはくずおれた。膝が立たない。ナターシュも言葉もなく震え、怒り、嫌悪している。あのおぞましい姿を見てしまっては、体もこころも芯を探し当てることはできなかった。

 傀儡。反魂。

 山道の現場で耳にした、魔法院での「流行」とはこういうことか。遅まきながらの理解に、再び胃の腑が逆巻いた。


「腑分けの報告書を読みまして、よくもこれで生命を維持して、そればかりか人を乗せて飛べるものだと感激しました。竜とはまさに、空を飛ぶべくして生まれた存在です。空を飛ぶためだけの肉体だ。このかわいこちゃんはガワを真似ただけですから、空を飛べないのですよ、可哀想に! では知性は? 人に慣れ、軍事行動をも可能にする知性は何ゆえか? 簡単です、人なくして竜は生きられないからです。脆弱な消化器官は鳥獣の肉を受け付けぬでしょう。野生の竜がほぼ存在しないことも、このことから明らかですね。人が竜をそうしたのか、竜が人のために変わっていったのか、大変に興味があります! 始祖竜は? 始祖竜はいったいどんな存在なのでしょう? 神代の存在がこの竜の変化をどう受け止め、解釈し、許しているのか! ぜひとも対話を! 私に知識を! 真理を!」


 動けぬシャナハの血を吸った大地が鳴動した。竜たちが一斉に飛び立ち、シュトルフェとファゴがかりそめの竜に食らいつく。へどろが地に落ち、黒い染みを作った。

 警戒を鳴き交わす竜らに誘われて、ようやく武装した兵が姿を見せたものの、得体の知れぬ男と、竜に食われる黒い塊という異様な光景を前に、足が止まってしまう。

 足音もなく、エドワルドが前に出た。舞のごとき流麗な脚捌きには見覚えがある。鞘を払われた長剣が鈍く輝き、二頭の竜が上空へ舞い上がった。

 あぎとを持ち上げたかりそめの竜、そのふところ深くに入り込んだ赤毛が翻り、まばゆい軌跡を残して黒い体躯に食い込む。


『エドワルドさま!』


 ナターシュの叫びが届いたかのように、エドワルドの長剣が竜の首を刎ねた。


『行かなきゃ、わたしたちも』

『そうだね』

『わたしも行こう』


 ナターシュだけではない、幾人かの声が響いて、背筋を伸ばし、膝を、脚を支えた。

 竜の首を拾い上げたカラディンは悲愴な顔で魔法を紡いでいる。傀儡の術、かりそめの竜の活動に首は必要ないのだ。ものであれば操れるが、ものにしかその効力を及ぼさない。神を真似た傲慢さ、その幼稚さにはらわたが熱くなった。


「エドワルドさま!」


 呼ぶだけで通じた。エドワルドは剣を引き戻して魔法使いから距離をおき、尾の一撃を躱してまたも剣を突き立てる。

 攻防を目の端に捕らえながらシャナハは、ナターシュは、みなは走った。新たな魔法を組み立てようとしたカラディンに、竜たちが急降下して集中を乱す。シュトルフェの爪が首飾りを引っかけ、ファゴが踏み砕く。乗り手がおらずとも、竜たちは己の役目を理解していた。魔法がそうさせているのか、あるいは。

 こうすれば良い、と頭の中で誰かが囁いた。わたしがやる、と身軽なナターシュと走りながら交替する。カラディンの背後に回り込み、勢いを乗せて背中に体当たりした。倒れ伏した魔法使いの背を踏みつけ動きを封じる。

 そして、長い髪を掴んで、握ったままのナイフで首元から断った。


「ひやあああああ! なんてことを! なんてことを!」


 絶叫する背をさらに踏んで呼吸を奪い、ナターシュは髪束を鎖の円に投げ込む。穴は髪をあっさりと飲み込んでしまった。


『どこに通じているやら。あちらの魔法も侮れないものだな』

『仕上げだ』


 逆手に持った刃を、全体重とともに鎖に叩きつける。金属の抵抗はなく、ぱきん、と軽い音をたてて鎖が砕け、うつろの穴が閉じ、制御を失ったかりそめの竜がへどろに還り、水音とともにぶちまけられた。

 しんと静まりかえる中、カラディンの嗚咽が響く。ようやく動きを取り戻した衛兵が彼に縄をかけた。

 うなだれる魔法使いは縛められたことにも気づいていない様子だった。うっそりと見上げてくる目元にはくまが浮き、疲労と憔悴を雄弁に物語る。ざんばらの髪が風に煽られ、表情を隠した。

 驕れる魔法使いの死を、厳罰を求める声なき声には応えず、口を開く。


「わたくしたちは竜の民です。竜とともに空を駆け、海をわたり、山で暮らす民です。わたくしたちと竜は友であり、わたくしたちが竜に欠かせぬ存在であるのと同時に、竜はわたくしたちに欠かせぬ存在です。竜と親しむ民として、始祖竜の血を引く者として、かれらへの冒涜と蹂躙は許容できません」


 言葉はすらすらとこぼれた。ナターシュの、シャナハの、裡に宿る皆の言葉だからだ、と今ならわかる。


「始祖竜は、わたくしたちは、力には力を、友好には友好を示すでしょう。選びなさい、神のわざを求める理力の徒よ。過ぎた欲がその身を喰らい尽くさぬよう、よく考えて答えなさい。――あなたの、あなた方の望みは何ですか。そのために何を差し出すのですか」

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