十 南風来たる(2)

 ラズレラン王が斃れた。報せは海峡群島に、エリザベスに、隠し立てしようもなく魔法院にも伝えられた。久しく都に下りていないマグリッテも国王の死とあっては姿を見せぬわけにはいかず、ナターシュ、エドワルドとともに高山地帯を発った。ラクチやセト、ハルトらが随行し、荷運びも含めるとずいぶんな大所帯となった。

 都の町並みは先の訪問時よりいくらかは整っていたが、王宮だけでなく町じゅうにはためく弔旗のためか、人々が喪に服して外出を控えているためか、いやに静かで、そのくせ海鳴りのようなざわめきが遠くでどよめいているといったありさまだった。

 王宮の竜舎に降り立った一行を迎えたのは下の姉、エルシュとニーニャで、長姉ターニアとジャリヤ夫妻、そしてアルブランは葬儀の準備と諸外国への対応などで手いっぱいという話だった。

 マグリッテが組み立て式の車椅子に落ち着いたあと、通されたのはいつもの応接室で、茶を運んできた侍女らが退室してから、エルシュとニーニャは深々と頭を下げた。


「お久しゅうございます、叔母上さま。無沙汰をお詫びいたしますとともに、おいでを歓迎いたします。遠いところ、ご足労をおかけいたしました」

「ご足労も何も、亡くなったのは国王だし兄よ。そう畏まらないで。それよりも事情を話して。エルシュ」


 マグリッテが指名したのは理知的なエルシュで、もっともな人選だった。ニーニャは落ち着いているふうに見えるが、視線が定まらずにずっと爪をいじっている。


「先だってナターシュには父が気の病を患っていると話しましたが、お聞き及びでしょうか……はい、薬も休養も大した効果を上げず、幻を見、あらぬ声を聴き、ついには幻の世界に浸るようになってしまいました。母やナターシュを幾度も呼んで、昼も夜も母を追って王宮じゅうを彷徨い、政治どころではございません。ろくに食事も摂らぬ父はみるみる痩せましたが、それは看病にあたった者も同じです。誰もが疲弊し、早く叔母さまへも報せをと竜を飛ばそうとしましたところ、毒餌を……」

「何ですって?」

「父は自らの病気を、異状を認めようとはしませんでした。ですから、叔母さまにご報告すべきことなど何もないと言うのです。隠れて手配を進めておりましたが、どこから入手したものか毒餌を撒いて、それで竜はほぼ死んでしまって……唯一生き残ったものを何とか飛ばしたというわけです。かような事情で、ご報告がまたしても後手に回ってしまいました。ナターシュが言ってくれていたのに……」


 気丈な姉の両目から大粒の涙がこぼれるのを、ナターシュは初めて見た。父を失ったためではなく、為すすべなく竜を死なせ、誰にも頼れずにいた不甲斐なさを悔いるものだとはっきりわかった。姉の眼に浮かぶのは悲哀ではなく、燃え盛る炎だったからだ。


「私たちは弱りきって、王が病床にあると触れを発しました。天災の傷も癒えぬまま、さらなる不安を強いることに賛否ありましたが、隠しきれぬ、隠しても詮ないとの判断からです。父は若かりし頃、母と蜜月を過ごした日々を生きているようであまりに痛ましく、大臣たちも私たちも父の見る幻を強く否定できなかったのが悪かったのかもしれません。母の影を追って、父は露台から転落し、そのまま目を覚ますことなく息を引き取りました。昨日の明け方のことです」


 長い話を終え、エルシュは深々と息をついた。ニーニャが後を引き取った。


「大臣がたは早々と、次の王が誰であるかの託宣はまだかと言ってきます。玉座を空にはしておけませんが、わたくしたち、ほとんど眠ることもできずにいて……」

「わかりました。辛い話をさせてしまいましたね。ターニアたちには会えるかしら。国王が亡くなってすぐに託宣が下りるとは限りません。わたしたちの時は母が亡くなって十日ほども経ってからでした。あなた方も気詰まりで不安でしょうが、そのままでは体に障ります。順番でも、少しずつでも構いませんから必ず目を閉じてお休みなさい。いいですね?」

「有り難うございます、叔母さま。わたくしがご案内いたします」


 ニーニャが率先して立ち、車椅子を押して部屋を出て行った。ナターシュは思わず席を立って、姉の手を握る。


「エルシュ姉さま、ご無理は禁物です。わたしも、エドワルドもおります。今からでもお休みになってはいかがですか。わたしにできることはありますか?」

「ありがとう、ナターシュ。大丈夫よ。本当のことを言うと、もうあんな悲惨な父上の姿を見なくていいと思うとほっとしているの。でも、こうして安堵するのはとんでもなく親不孝に思えて……」

「それほどまでに辛い毎日を過ごされたのです。手をこまねいていたわけではないでしょう? 姉さまだって心を痛めていらっしゃったでしょう? 顔も出さなかったわたしに比べればずっとずっと孝行なさっています。父上だって許して下さるはずです」


 病に蝕まれた父の姿を、ナターシュは一度も目にすることがなかった。父王は威厳と冷徹の象徴であり、誰よりも近寄りがたい存在だったから、言葉さえ阻む幻に囚われた姿を想像することすらできない。けれども、周りにいて手を差し伸べ、声をかけ続けた兄、姉たちの壮絶な苦しみは思い描くことができた。


「姉さま、わたしもお話したいことがたくさんあるんです。北王国に渡ったことや、もうすぐ山道が復旧することや、今の高山地帯のこと……いろいろです。落ち着いてからで構いません、どうかお時間を割いてくださいませんか」

「山道を? あなたが?」

「はい、詳細は省きますが、海の民や北王国の技術者と魔法使いが協力してくれていて、春までには復旧できそうな見込みです。そうすれば竜がなくとも行き来できますし、竜が死んでしまったのならいくらかお分けします。わたしもマリウスも、都ももっと竜使いを増やすべきだと考えていて……ああ、そうじゃなくて……」


 何を話しているのだかわけがわからなくなって、言葉を切る。エドワルドの大きな手が背を押した。その温もりにはっとして、項垂れる姉を抱きしめる。


「大丈夫。きっと大丈夫です、姉さま。こんな時に寄り添うためのきょうだいではありませんか」

「……わたくしたちのことを、本当にきょうだいと呼んでくれるの、ナターシュ……?」

「もちろんです」


 エルシュはナターシュやシャナハに対して意地悪をすることはなかったが、他のきょうだいを止めてくれることもなかった。過去を忘れはしない。それでも、忌まわしい記憶と、ナターシュとエルシュが血の繋がった姉妹である事実は、しっくりと両立するのだった。


「もちろんです、姉さま」


 エルシュがしゃくりあげる。涙にくれる姉をエドワルドが支え、私室へと連れて行った。




 王の血を引く六人が鮮明な夢を見たのは、それから三日後のことだった。



 示し合わせたかのように朝食の席に揃った一同の視線はターニアに向いていた。


『長子ターニアを新たな王とする』


 夢の中で聴いた声は高くもなく低くもなく、女性とも男性とも判断できぬもので、しかしながら始祖竜のものだとはっきりわかった。理屈ではなく、自らの身体に始祖竜の血が流れているのだとった。

 夢は全員に共通していた。洞窟の中だろうか、薄暗いのに視界に障りはなく、ひとりきりで立っている。周囲は青や翠、紅や橙、玉虫のごとくに色を変えており、始祖竜の声を聴いた後は誰もがその場に横たわり、さまざまな光景を見た。

 ターニアは活気ある王宮と城下町を、アルブランは港とたくさんの船を、エルシュは笑顔を浮かべて駆けまわる子どもたちを、ニーニャは賑わう市とそこを行き交う多種多様の人々を、ナターシュとシャナハはあまたの竜が暮らす高山地帯を。


「あれは、始祖竜が目指す国の姿ではないかしら」


 ニーニャが首を傾げ、アルブランは遠くを見て嘆息した。


「本当にいるんだな、始祖竜って」

「そりゃあいるでしょう。国をずっと助けてきたって、大人たちが見てきたみたいに言うんですもの。ナターシュとシャナハだって鱗をもらったわけだし」

「誰も見たことがないんだろう。姿を隠す理由があるのか」


 ひとしきり自分の夢や始祖竜の不思議について語り合い、やがて一言も発しないまま黙々と食事を口に運ぶ長姉ターニアに再び視線が集まった。


「姉上、どうして黙ってらっしゃるんです」

「始祖竜の声を聴いたんですよね? 姉上にも同じことを言っていたんですか」


 声をかけられ、はじめてターニアは食事の手を止めた。ゆっくりと口元を拭って、大きな食卓のどこでもない場所に視線を落とす。大役を授かったにしては気負いも怯懦もなく、茫として表情が薄い。

 皆が息を詰めて見守る中、長姉は自らのこめかみを指さした。


「始祖竜はここにいます。……いえ、実体は他のところにいますが……王と、竜が認めたわずかな者だけが始祖竜の居所を知っています。国の根幹に関わる秘密ですから、誰にも教えられませんし、話そうとしたところで竜が止めるでしょう。そう、対面せずともわたくしの声は竜に届きますし、竜の声はわたくしに届きます。この国の王になるとは、こういうことだったんです。わたくしとて、つい昨夜知ったばかりですが」

「つまり、話が通じるということですね。父上も始祖竜に伺いを立てながら政治を進めたんでしょうか」


 アルブランの疑問に、ターニアは首を振った。


「始祖竜と通じてはいますが、それは始祖竜に国政の是非を問うためではありません。もっと大局的な……国やわたしたち王族にとって重要な転機となることがらを問うため、それから国が竜たちの生存に障りない環境であるかを確かめるためです。曖昧な言い方になってしまいますが、王が生命を賭すべき存在であることは間違いありません」


 ひとしきり、皆が唸って咀嚼を試みる。では、腰の鱗は? ふと兆した疑問を口にするか、黙っているか考えているうち、エルシュが声をあげた。


「仮定の話なのですけど、わたくしたちが……国が、竜を切り捨てるような政策を是とした場合は」

「始祖竜が止めるでしょう。始祖竜は竜たちと人間の共存を願って、わたくしたちの祖先に血を与え、共に生きることを決めたそうですから。ここは竜の国。竜との共存以外に道はありません。ですから……ナターシュ、シャナハ」


 呼ばれ、姿勢を正す。姉の眼には昨日までとは違い、確かな覚悟が光り輝いていた。小国とはいえ、華奢な肩にのしかかる責任と決断の重みはいかばかりか。冠など戴かずとも、ターニアは紛れもなく国を負って立つ女王だった。


「高山地帯に届いた新たな風を、わたくしは歓迎し、支持します。エドワルド殿下との、海峡群島との架け橋になってくれませんか」

「もちろんです、姉上」

「かつてわたくしたちがあなたに与えた非道を、心ない振る舞いを忘れよとは申しませんし、都合のよいことだと嘲笑して構いません。けれども民のために、あなたの築いた信頼と親愛を分け与えてはくれませんか。よりよき国を目指すために、勇敢さと寛容さをわたくしは見習いたい。ナターシュ、シャナハ。ここに謝罪します。どうか、この不甲斐ない姉に力を貸してください」


 椅子を降りたターニアを止める。ずいぶん痩せて、鎖骨が浮いていた。父の看病で苦しんだ痕跡はすぐには癒えぬだろうし、今日からは国のあるじとしての責務も待ちかまえている。幼い日々の痛みをなかったことにはできないが、これから支え合うことに異論はなかった。


「わたしも始祖竜に生かされた身です。夫も強くよしみをと申しておりますし、わたしの身の軽さがお役に立つのなら、喜んで架け橋となりましょう。そのためのきょうだいですし、皆がそれぞれに違う国のありようを見たのでしょうから」

「ありがとう。頼りにしています」


 あまりゆっくりもしていられないのだ、と彼女が女王の顔で席を立ったことでお開きとなり、ナターシュはエドワルドを誘って竜舎に向かった。


「新しく竜を住まわせる前に、一応見ておこうと思って」


 竜使いらに尋ねると、事件後ただちに清掃を済ませたとのことだった。ひとつだけ寝藁が敷かれた房は、高山地帯へ使者を運んだ生き残りの竜が使っていたものだろう。かれは復路を飛ぶことができずに、あちらで休んでいる。もともと群れで生きる獣だ、少数で暮らすのは負担が大きい。


『うん、かなり具合が悪かったみたい。ひとりぼっちで、苦しかっただろうな……。しばらく療養させた方がいいかもね』


 向かい側の房では連れてきた竜が体を休めている。あるじの姿を認めてシュトルフェとファゴは目を輝かせたが、飛べるわけではないと知るとつんと拗ねてみせた。鱗を拭くだけで我慢してもらう。

 がらんとした竜舎を見るだけで胸に寒風が吹きすさぶ。ターニアが語ったように、父と始祖竜も不可思議の力で繋がっていたのだとすれば、どうして竜は父を病から守ってくれなかったのだろう。どうして竜の血を引く父が毒餌を撒くに至ったのだろう。

 鱗を拭き清めながら、エドワルドにぽつぽつと託宣の夢や、ターニアの話したことを告げる。彼は作業の手を止めず、口を挟むことなく最後まで耳を傾けていた。


「だから……始祖竜の居所を知っているのは王のほかにほんのわずかなんだそうです。おそらく、マグリッテ叔母さまとか」

「そうか、鱗をもらったんだものな」

「はい。そんな素振りは見たことがありませんし、わたしたちのことをきっかけに知ったのか、それ以前から知っていたのかはわかりませんけど……でも、もしかしてわたしたちのことを、死なずに済むよう始祖竜に頼んでくれたのは、父さまなのかなって……」


 不意に涙があふれた。

 父との思い出などないに等しい。人前で父と呼ぶことを禁じられ、抱かれることも共に食事をすることもなかった。声も匂いもほぼ記憶になく、年始に王宮に赴いた際、社交辞令じみた挨拶を二言三言交わしたのが最後で、何を言い、どんな返事だったのかも覚えていない。

 それでも、涙は流れた。悲しくもないのに。エルシュのような安堵でもない、理由のない涙がこぼれ、気遣わしげに鼻面を寄せてきたシュトルフェと、手を止めたエドワルドの胸に縋って無言で泣いた。

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