九 天泣(5)
高山地帯の冬は気温差と、乾燥が厳しい。人々は屋外での作業で冷えきった体を温泉で温め、床に就く。竜たちもそれぞれの房で体を丸めて過ごしがちで、個体によっては皮膚が乾燥してかさついたり、酷いとひび割れて出血したり、血行が悪くなって痛みや痺れが出たりするために、見回りと手当てが欠かせない。
エドワルドの献身により、餓死者、凍死者を出すことなく越冬ができる見込みだった。南北両大陸の技術者の協力が得られ、復興の資材が持ち込まれたと報告を受けて、マグリッテが頬を緩めて厚く礼を述べたことは、強張った高山地帯と群島の関係をいくらかほぐしたことだろう。
さらに、思いがけずエリザベスからも、親戚の
クレムやエリザベス配下の魔法使いたちが得意とする遠話魔法は、肉声をやりとりするばかりではなく、鏡を用いて姿かたちまで送り届けることができる。原理を聞いても少しも理解できなかったが、丸めると、全能全知の創世神のお力を借りているがゆえ、となるだろう。
それでは何の説明にもなっていないとナターシュは思うのだが、傍らの鏡の中でふんぞり返った男装のエリザベスがこちらを見て平然と「久しいな」などと言うものだから、理屈も何もかもすっ飛ばしてお澄まし顔を作り、「義姉上さまもお変わりなく」と口上を述べざるを得ないのだった。
エリザベスが言うには、北大陸は雪と氷に閉ざされている、とのことだった。南方に位置し、海に面している彼女の
「こちらは冬の間はあまり動きがないだろう。動けないし、何をするにしても天候には勝てぬゆえな。……ときに、土木事業に目覚めたと聞くが」
「またそんな意地悪をおっしゃる。都への道が先の地震で崩れ、閉ざされてしまったのです。春までには復旧させたいと、かかりきりで作業しているのですが……狭い山道で、大がかりな作業ができず」
義姉は鏡の向こうで腕を組み、これ見よがしなため息をついた。
「ナターシュ。おまえは考える頭も行動に移す思いきりも持ち合わせているのに、少々発想がお上品すぎるようだ。魔法使いをつけてやっただろう。連中を遊ばせておくことはない、給料分は使え」
「ああ、そうでした」
エリザベスが寄越してくれた魔法使いたちに肉体労働を命じるのも心苦しく、各地への連絡の他、代書や資料集め、計算など事務作業が煩雑なクレムに預けていたが、魔法を使えば重い岩もどうということはないのかもしれない。相談すると、どうぞどうぞと魔法使いたちの勤務表を調整して現場に行けるよう取り計らってくれた。
寒さが厳しく、クレムは体調を慮って外出を減らしている。せめてリフィジが魔法院から戻ってくれば、と思うが、マグリッテもそこは譲らなかった。エドワルドが傍についており、北との連絡も頻繁に交わしているが、人質扱いの不安もままならぬ思いもあろう。
魔法院との行き来もすでに五回を数え、ダリンと入れ替わりでティレを供につけたマリウスが北に向かった。
カラディンは相変わらず屋敷に居座り、書庫で寝起きせんばかりである。気紛れに山道復旧の現場にやって来たり、竜舎を覗いたり、海峡群島や北王国から派遣された魔法使いらにちょっかいをかけたりしては邪魔ですと追い払われているが、気にする素振りもなく、日々自由に生きている。
彼は曲がりなりにもマグリッテの客人であるが、その傍若無人な振る舞いには誰もが辟易していた。ある日ついにミンシャが我慢の限界を迎え、屋敷中の誰も見たことのない大きな雷を下し、霜の降りた庭に座らせてこんこんと説き伏せた結果、彼女の言うことだけは素直にきくようになり、古株の侍女の評価は天を衝くほどに高まった。
『あれだけ邪険にされてこたえないって、ちょっと凄いよね……図太くなきゃ出世できないのかな、魔法使いって。やだ、マリウスは大丈夫? ばっきばきに折れちゃわないかしら』
シャナハの毒舌もとどまるところを知らないが、マリウスが心配なのはナターシュも同じだ。彼は留学経験を有する数少ない王族であるが、頭でっかちの魔法使いに比べれば赤子も同然であろう。同じく学問の徒として好意的に迎えられれば良いのだが。
豪胆なダリンは魔法院で過ごした日々のことを、新鮮だったと笑っていたが、言葉も通じぬ中で放り込まれた異国の生活は、さぞかし不便だっただろうと思う。
「いや、私はね、魔法使いと模擬戦闘をさせてもらって面白かったですよ。南大陸では魔法使いが少ないですからこれまで考慮しませんでしたが、北王国を相手にするならば、どうやって魔法使いを制圧するかが戦の要となるでしょうな」
「騎乗して? 勝ったの?」
「騎乗して、です。勝ったときもあれば負けたときもありましたが、我々は魔法に不慣れですから、放たれた魔法を回避するのは至難の業です。先んずべく突撃をかけるか、太陽を背にして目を眩ませつつ近づくか……特に複数の魔法使いを相手にしたときは厄介ですね。相手がどんな魔法を使うかもわかりませんから、備えようがない。火の玉や氷の槍あたりの飛び道具は警戒しますけど、それよりも恐ろしいのは地味な魔法ですよ」
ダリンが話すと、作業中ながら誰もが聞き耳を立てる。高山地帯いちの武勇を誇る竜使いがどんな経験をしたのか、聞き逃すには惜しい話だったのだ。昼の休憩には一同が車座を組んで、ダリンの武勇伝に耳を傾けた。
「地味な魔法って?」
「見えない網で動きを封じるとか、視界を曇らせるとか、耳や鼻を惑わせるとかですね。変なものを見てしまうと、まともに飛ぶことすらできやしませんから」
ほほう、と皆が息をつく。
「魔法を防ぐ魔法って、あるの?」
「ございますが、盾を生じる魔法はいわゆる飛び道具的な魔法にしか効き目がありません。幻惑系の魔法に対抗するには気を強く持つのが一番です。陣を描いて魔法を無力化する『場』を作る魔法もございますが、『場』の中にいれば魔法を使うこともできませんので、守りに徹するならまだしも、使いどころが難しい術です」
ナターシュの視線を受けて答えた魔法使いの言葉に、またもほほう、とため息がこぼれた。
「新しい魔法ってのは存在するんですか。あるけど誰にも知られてない魔法とか」
ハシャ一家の若衆が上げた声に、魔法使いはそれです、と身を乗り出した。
「もちろん存在しますよ。魔法は理ですからね、例えば、炎を生み出す術が存在するなら、生じた炎を消す魔法も存在するのです。先ほどの盾の魔法などがそうですね。命題が真であるならば対偶も真です。新たな魔法はそのようにして見つけ出されることが多いのですよ。研究にも流行がありまして、今は傀儡の術ですとか、反魂ですとか、そういった研究が盛んなようですけれども、魔法院では新たな魔法を見つけ出すことを生涯の題目に掲げている方も多くおられます」
『傀儡とか反魂とか、穏やかじゃないねえ、魔法院は。人形でも動かすのかな? ん、でも、それが労働力になるならちょっとしたものか。兵士とか、開墾とか、堤作りとか、使いどころはありそうだものね』
そばかすの残る魔法使いのぎこちない共通語に、若衆は顔じゅうに疑問符を浮かべていたが、何となくわかった、と頷いた。
「人が作ったものはいつしか壊れる、みたいなもんだな」
高山地帯の民と海の民と魔法使い、所属を異にする三者ははじめよそよそしかったが、半日もともに作業をすると、言葉が不自由であっても意思の疎通には滞りがなくなる。人見知りや警戒心が強いなど、個々人の性格はあれども、おおむね円滑に作業は進んだ。
魔法使いらが作業に加わってからは、進捗も増した。崖の強度を調べてくれたり天候の変化を察したり、あるいは「あの人はどうも具合が悪いようです」などと教えてくれたり、とかく細やかなので重宝する。
誰もが魔法の便利さに感嘆し、いちいち驚くものだから、最初は寒空の下での作業に渋々といった様子だった魔法使いらも次第に機嫌を良くし、頼まれる前に自ら岩を砕き、指示の声が通るよう拡声魔法を行使するのだった。
作業の様子を見る限り、仮に国を開いたとしても北王国の人々ともうまくやっていけそうではある。言葉や風習、文化の違いはあるが、助け合いに感謝し、寒さに震え、沈みゆく太陽の赤さに目を奪われ、目標の達成に喜ぶのは同じだった。
利害が一致しているからか。では、竜を繁殖させ、あらゆる陣営に売りつけることで武装平和を実現させると、誰がどんな利を得て、その陰で誰が涙を流すのかと考える。
シュトルフェが小さく啼いて我に返った。この真珠色の竜はわずかの間にナターシュにもシャナハにも慣れ、飛行経験が乏しいなりに意を汲んでくれるようになっていた。言葉をかければ喜びを示し、鱗を磨いてやれば得意げに光を弾かせる。
壮年で落ち着きを獲得していたスピカに比べて、彼女は若く好奇心旺盛で、ともすれば興味を引かれたものに反応してナターシュの存在を忘れかけるなど、騎乗訓練が浅いがゆえの行動もあるが、竜に「あれはなに?」と尋ねられるなど久しく忘れていた感覚で、できるだけ応えてやりたいと思う。器量好しでおてんばの性格を疎ましく思うことはできない。
喉を鳴らす竜が視線で示す先を見遣って、息を呑む。
はるか遠くに霞む都の町並み、宮殿の尖塔に旗が翻っている。弔旗だ。
「ダリン!」
指先を追い、無言で都を見たダリンの目が細まった。
「ここは私が預かります。屋敷へお戻りください。竜が……こちらへ向かっています」
「お願い」
シュトルフェに飛び乗って、一気に上空へ舞い上がる。袂から流れ込む冷気に体を縮め、姿勢を低くして高山地帯まで駆けた。
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