九 天泣(3)

 自室に戻って地図を掴み、携帯用の筆記具だけを鞄に入れた。長らく不在にしているのに、掃除が行き届いていることに胸が詰まる。

 外交相手などではなかった。マグリッテはナターシュがいつ戻ってきてもよいよう、部屋を整えてくれているのだ。行動で、結果で示せばきっとわかってくださる。

 竜舎では竜使いが集まってセトとハルトの帰還を祝っていたが、息を切らして駆けてきたナターシュに気づくと、皆ぎょっとしたふうに会話を止めた。


「ひ、姫様、どうなさったんです?」

「お出かけですか? なら、俺たちも一緒に……」

「そうね、セト、ハルト、一緒に来て。あと、わたしが乗れそうな竜は空いてる? 慣れてなくてもいい、急ぐの」


 ただならぬものを察したのだろう、竜使いたちは速やかに立ち上がった。


「どちらへ? お戻りが遅くなるようでしたら灯りも用意しますが。マグリッテ様はご承知のことなのですか?」


 ダリンの右腕である竜使いラクチが首を傾げる。急な外出を咎めはしないものの、口うるさいのは鷹揚な長の補佐をしているゆえか。几帳面な性格の彼女のことは、歳の離れた姉のように思っている。

 連れられてきた竜は真珠光沢の鱗を持つ、たいそう優美な個体だった。鱗は半透明で、周囲の色を孕んで淡く輝く。名前はシュトルフェ、愛玩用に高値がつくだろうと、まさに蝶よ花よと育てられていた。安易に乗り回してよいものではない。


「え、いいの? 怪我させちゃうかも……。鞍も慣れてないんじゃ」

「それが、姫様が群島に向かわれてから、急に活発になりまして……鞍をつけて人が乗らないと暴れるようになったんです。今じゃ一、二を争うおてんばで、とてもじゃないですが繋がれて撫でられてよしとする性格じゃありません。……スピカは残念でしたが、どうぞシュトルフェに乗ってやって下さい」


 ラクチの言葉通り、シュトルフェの藍色の眼は好奇心に輝き、早く飛ばせろと無言のままに催促してくる。鞍をつけられても嫌がる素振りを見せず、首を撫でてやるとぐんと伸びをした。スピカほど慣れていないから、甘えは見せない。けれども、飛ばせてくれるならば何も言うまいと逸っている。つまらない騎手ならば許さない、との矜持も感じられた。


『なるほど、かわいこちゃんだ』


 楽しげなシャナハに、シュトルフェは気づいているだろうか。


「ラクチ、聞いて。崩れたままの山道を開通させようと思ってるの。北王国の魔法院なんて、これまで何の縁もなかったところと手を結ぶのが良策だとはどうしても思えないのよ。都が人員を割けないって言うなら、わたしがやる」

「……お志はご立派ですが、どうやって? 土木工事の知識がおありなのですか」

「それを言われるとつらいし、何もわからないけど、こちらが動かないとずっと蔑ろにされたままだし、海峡群島に詳しい人がいるなら助力を頼むわ。あっ、えっと……海峡群島の人も、『これまで何の縁もなかった』んだけど」


 ラクチは唇を歪めて皮肉げに笑った。


「おわかりならいいんです。人手ならこちらからも出せるだけ出しますから、危ないことはなさらないで下さい。下の様子が気がかりで、山道の復旧を望んでいるのは誰しも同じです。町の者だって余裕ができればお手伝いできるはずですから」

「大丈夫。ありがとう、ラクチ。今日は様子を見るだけだからすぐに戻るつもり。行ってきます」


 お気をつけて、と竜使いらに見守られ、ナターシュはシュトルフェに跨がって空に舞い上がった。元気の良い飛翔を抑えつつ、飛び立った双子と合流する。

 南に向かう、と手信号を送り、先頭を飛ぶ。すぐに双子が後を追ってきた。山道に沿って飛び、崖崩れ、地割れ、陥没や隆起など、通行に障りがある地点を地図に記し、どのような状態かを詳しく添えた。

 平地に降りて、休憩がてら地図を確かめる。皆で記憶と照らし合わせ、復旧案をとりとめなく話し合いながら、町には大工がいるが、彼らの力だけでなく、土木事業の専門家の手が必要だろうと結論する。


「道を通すだけ通して、またすぐに崩れちゃ意味がないですし。安全を確認するためには専門家が必要ですよ」

「そうだ、雨が降ったときにも備えた方がいいんじゃないでしょうか。崖が緩んで崩れたらおおごとです」

「なるほどねえ……」


 この山道は記録が残っていないほど古くからある。かつて、山地には野生の竜が生息しており、人々が捕獲や世話のために通ったのが最初ではと語られていた。


「大きな橋や危ない川がないのは良かったね。資材と人手さえあればすぐに復旧できそうじゃない?」

「けど姫様、ずいぶん思い切りましたね」

「そうですよ、あっちで着飾って過ごしてたのとは別人みたいです」


 そうだろうか。元々着ていた軍服姿に戻っただけだし、北王国の盛装には憂鬱と虚栄がつきまとった。美しい装いと化粧が隠すものも多くあるだろうが、簡素な軍服が動きやすくて良い。ドレスや華奢な靴では、竜に乗れないではないか。

 そういえばエドワルドは一度も、着飾れとは命じなかった。花嫁衣装を誂えたときこそ楽しげだったが、乗り気だったのはバーバラやお針子たちで、彼は隣でにこにこ笑って、似合うとしか口にしなかった。群島での生活や船上での活動に向かないから敢えて勧めなかったのだろうと思いたい。


「姫様はこうやって、活発になさってるのが似合いますよ」

「俺たちでよければいつだってお供しますからね」

「うん、じゃあ明日もまた来ましょう。これから寒さが厳しくなるけど、春になるまでには何とかしたいな。……こういう見通しが妥当なのかもわからないけど。不勉強だなあ」


 思いがけずこぼれた弱気に、しかし双子は何言ってるんです、と朗らかに笑った。


「妥当な判断をするために専門家がいるんですよ。姫様の専門は竜。それでいいじゃないですか。全部の事柄を広く浅く知ってても、使い道がありません」

「ほら、剣も槍も弓もかじってる兵より、剣の達人だけど槍はからっきしだとか、弓は抜群に巧いけど格闘戦には向かないとか、そういうやつの方が使えるでしょう。きっとそれと同じです」

「ああ……そう言われると」

「だから姫様があらゆる分野に精通していなくても、きっと誰かが手助けしてくれます。姫様は知識を得るより、俺たち一人じゃできない大きいことを率先して始めたりとか、集まった人たちをうまく使ったりとか、あっちこっちの折衝とか……そんなのがお役目なんだと思いますよ」


 そっちの方が百倍難しいし面倒じゃない、とシャナハが口を尖らせるが、双子の言うとおりだと思った。

 誰も手をつけようとしない山道の復旧も、ナターシュが指揮を執れば賛同者が集まるかもしれない。詳しい者を呼んできて、適正な価格と工期で安全な道を通すのが役目なのだとすれば、たしかに難題であるし、ある程度の知識が備わっていなければ「適正」の判断もできない。


『人の上に立つって、他人事だと思ってたけど違ったね……。そんなことがあたしたちにできるかな』


 気弱な声が聞こえたわけでもあるまいに、双子たちは活き活きしている。もう日が

暮れようとしているのに、今からでも働きますと言い出しそうだ。


「大丈夫ですよ、姫様。姫様の力になりたいってやつはたくさんいますから、姫様はいつも通りにしていればいいんです」

「力仕事は俺たちに任せてください」


 何を根拠に、と思うが、双子たちの親愛と忠誠は疑うべくもなく、ナターシュは頷いて明日に備えることにした。マグリッテとカラディンを止められない以上、成り行きを心配しても意味がない。春までに山道を開通させると心に決めて、寝台に潜り込んだ。

 エドワルドは何かを考え込んでいて上の空だった。背中をさすると、少しだけ頬の線が和らいだ。

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