九 天泣(2)

 連れだって戻った一行にミンシャは目を丸くしたが、すぐに大きな卓と椅子を執務室に運び込みお茶の支度を調えた。マグリッテは隙のない領主の笑みを浮かべ、遅くなったことを咎めるでもなく、エドワルドにカラディンを紹介している。

 椅子を引いてくれた夫の手はいつになく冷たい。怪しい蓑虫の長衣の男が、右腕と引き替えにスピカを焼き殺した魔法使いであることを知り、そして不在の間にマグリッテが大胆な決断をしたことで警戒しているようだった。

 マグリッテ、マリウス、カラディン、エドワルド、そしてナターシュ。エドワルドにマグリッテが助力を請うてからわずか三月。竜の国は海峡群島の領主と縁を結び、北王国の内陸に住まう魔法使いまでもが同席している。かたく閉ざされていた国の扉は重く錆びつき、開くことなどないと思っていたのに。

 動じていないのはマグリッテとカラディンだけで、マリウスは落ち着きなくもぞもぞしているし、エドワルドは猛獣の眼で魔法使いを睨みつけ、卓を蹴倒さんばかりだ。


「ナターシュはカラディン殿と面識があるとか。話が早くて助かるわ」


 返事もせずに、カラディンは茶に五つほど飾り砂糖を放り込んだ。隣のマリウスが身を引いている。そんな息子を一瞥し、女領主は軽く指を組んでナターシュとエドワルドに視線を寄越した。


「驚いたでしょう」

「ええ、ええ、もちろんです。いつから北王国と対話を考えていらしたんです?」

「漠然とね、考えてはいたのよ、ずっと。実現できると確信したのは、エドワルド殿下が魔法の船を飛ばして高山地帯に来てくださったとき。実行しようと決めたのは、あなた方が行ってしまって、リフィジやクレムやホークや……海の民たちに北王国の様子を聞いてからね。魔法院は政争に関与しない中立の立場と聞いて、南の一部の国が成し得ている平和を北王国が望むなら、力添えができると申し上げたの。竜にも興味を示してくださってね、引き替えに私たちが失った始祖竜との繋がりを取り戻す手助けをしてくださるわ」

「武装平和は真の平和ではないと私は考えておりますが、マグリッテ殿はそうではないと?」


 エドワルドの声は尖っている。カラディンに対する敵愾心か、マグリッテに対する不信か、武装平和への反発か、ナターシュには本心をはかりきれない。


「もちろん、交戦状態よりはましといった程度でしょう。ですが殿下、現状、北王国で王族どうしの和平を支えるのは極端に偏った力関係か経済制裁、利害の一致です。国と国においてもそれは同じ。隔たりも困難も不平等も、何もかも取っ払って仲良しこよしとはゆきませんでしょう? そもそもそれが可能ならば別の国である必要はないのです。一つの国になればよろしい、となる。かといって規模が大きくなれば、あちこちで意見の相違が出てくることでしょうし……北王国がそうであるように。武装平和が破られないのであれば、もっとも進んだやり方のひとつだとわたくしは思っておりますの。戦を仕掛ければ与えた被害と同じだけ、あるいはそれ以上に痛手を被る。だから友好関係でいる。それでよろしいじゃありませんか」

「軍備が増強されゆくだけです。相手に少しでも損害を与えるべく、一人でも多くの兵を、一頭でも多くの馬を、竜を求めるでしょう。もしや相手はより厚く備えているのではと疑心暗鬼がつよい武具を、魔法をと欲求をかきたてるでしょう。際限がない」


 絞り出される低い声には、自らも竜を求めた引け目が滲む。それが説得力を奪ってゆくことに彼も叔母も気づいていた。


「憚りなく申し上げれば、愚かなのです。わたくしたちは誰もが。もちろん、敵対する二者が武器を捨て、手を取り合って歩んでゆけるならそれで良いのです。けれど丸腰になれば殴られる。最善など選びようがないから妥協する。もう少し俗な言い方をすれば落としどころを見つける。それが外交というものでしょう?」


 なるほど。エドワルドは呟き、顎に手を触れて物思いに沈んだ。それもわずかのこと、すぐに力を取り戻した翠玉がカラディンを射抜く。


「魔法院の狙いは何だ。いや……まず、これは王族の誰かの差し金か、それとも魔法院単独での動きか、それを聞いておこう」

「単独ですよ。実り多いと判断すれば、各地の領主に打診する形ですね」

「仲介料などと称して、上前をはねるわけだな。魔法院らしいやり方だ」


 魔法使いは色の薄い唇を歪めた。笑うのが下手なところまでマリウスに似ている。


「褒め言葉と受け取っておきましょう。検討を重ねてより良き手段を選ぶのが知性であり、我々の誇るところですから。利ありと判断すれば海峡群島へお話を持ちかけることもありましょう」

『こいつさ、こんなだけど魔法院ではけっこうな重役なんじゃない? そうでもなきゃ怪我を押してはるばる派遣されてくることもないだろうし、こんな大口叩いたりできないでしょ』


 もっともだと頷きつつ、叔母の様子を窺う。本心をすっかり覆い隠した外交用の穏やかな笑みに、体をかきむしりたくなった。帰ってきてから、この笑顔しか見ていない。ひとたび北王国の王子と契りを交わせば、もはや外交相手でしかないのか。

 カラディンの言葉は、入札と思えば大したことはなかろう。よりくみしやすく利をもたらす、都合の良い相手を選ぶのは当然のことだ。北王国において独立した権限を持つらしい魔法院が、国内の王子王女のもとへ魔法使いらを派遣するのも情報収集のためだろうし、持ち札を増やすべく竜の国と折衝を重ねるのも不思議ではなかった。

 これまで国交がなかった事実は、未来における断絶を保証しない。言葉が通じ、落としどころが見つかれば、海原も山脈も荒野も、何の隔たりにもならないだろう。急展開にエドワルドが腹を立てているように見えるのは、スピカのこともあろうが、マグリッテと魔法院の両者に出し抜かれた格好なのが一番の要因なのかもしれない。

 高山地帯の意向としてマグリッテが魔法院とも通ずる道を選ぶのであれば、それに反対するには個人的な感情や恨みではなく、確たる論理が必要だろう。それを持ち合わせていない以上、外交用の面を被ったままできるだけ多くの情報を引き出すのが望ましい。

 武装平和に落ち着くのは考えものだが、反論の材料が少ない。マグリッテも魔法院も、より良い状態が存在しうるなら、そちらを是とするだろうことが唯一の望みだった。エドワルドの流通、高山地帯の竜。それらでどんな役が組めるだろう?


「おばさま、北へは誰が?」

「ダリンとティレ、それに竜の魔法の使い手としてヴァシオと、通訳としてリフィジ殿に同行願いました。ゆくゆくはマリウスにも北王国へ向かってもらうつもりでいます」


 ヴァシオは竜医でもある。竜使いの長であるダリンをはじめ、満足な数が揃っているとはいえない竜医をひとり北王国に遣るくらいなのだから、叔母の本気が伺えた。


「ナターシュ、私はね、都で人間を相手に権謀術数を巡らせるより、高山地帯で竜を育て殖やすことが向いていると思って、ここで暮らすことを決めました。竜に親しむ者が多くついてきてくれて、この脚でもほぼ不自由なく暮らせていますし、竜を番わせ殖やし、育てる手順も、訓練の方法も、書を著せるほど確立できました。竜は戦力としても愛玩動物としても各国で喜ばれ、高値で取り引きされていますね」

「はい」

「私に課せられた責務はほとんど果たしたと思っています。ダリンやラクチや……ナターシュ、あなたもですが、竜を愛し慈しむ者が後を継いでくれるでしょう。それでもあとひとつ、せねばならないのは我々の地位向上です。竜使いたちが不便な暮らしを強いられ、何もかもが都の後回しにされる現状が耐えられないのです。竜の国を謳い、竜に頼って生きるならば、竜に寄り添って生きる我々もまた誇られるべきではないかしら。何も崇め奉れと言っているのではなくてね、やりくりに奔走せずともよいくらいの予算と人員をつける……それを誰もが当然と思うようになってほしいの。都と高山地帯は平等だと、災害が起きても見過ごされることのない、そんな土地になってほしいのよ」


 そのために高山地帯に力と知識と金を蓄えるのか。ひとつ間違えば反乱ともとられかねない、危険な手だ。懸念が顔に出たのか、しかしマグリッテは朗らかに笑い飛ばした。


「誰も気づきやしませんよ。教えてやらない限りはね。特に今は自分たちの身の回りのことにかかりきりでしょうから」


 でも、それは。ナターシュは口ごもる。父王の具合が悪く、都のきょうだいたちも忙殺されている。高山地帯が蔑ろにされていることは否めないが、悪気はないのだ。きっと、マグリッテがこれまで独力で切り盛りしてきたから、今回も大丈夫だと思われているだけで。見捨てるつもりはないとみんな言っていた。口約束ではあるけれど、果たされていないならもう一度交渉に行ってもいい。

 山地の存在が軽んじられているのは明らかで、しかし平等を訴えるためになら何をしてもいいとは思えない。国交のない他国に争いの火種を蒔くことで得た力に、何の説得力があろうか。

 力を蓄えれば、都の人々は竜を抱く土地を、マグリッテを恐れるだろう。だがそれは土地や人々の役割に心を動かされてのことではない。都が何らかの方法でより力を蓄えれば、すぐに忘れ去られるに違いなかった。竜に親しみ竜と暮らす山の民は再び、僻地の変わり者として隅に追いやられる。


「山道は……崩れたままですか。都との交易はまだ?」

「まだだ。誰も山道にまで手をつけられないでいる」


 答えたのはマリウスだった。声には苦渋が滲む。物資の乏しい高山地帯では生活の再建が精一杯で、それさえも海の民に頼ってのことだ。竜を守り、竜を守る人々を守るのが第一で、第二第三の懸念にまで手が回らないでいるのだ。


「では、わたしがやります。北の国との交渉に、わたしが出る幕はなさそうですから。高山地帯のために、この国のために、できることをするのがわたしの務めです。早速視察に参りますので、失礼いたします」


 誰もが目を丸くして、立ち上がったナターシュを見ている。意味を問う視線から逃れるように、執務室を辞した。

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