九 天泣(1)

「おばさま! 戻りました、ナターシュです! シャナハも無事です!」


 船を下りて一目散にマグリッテの屋敷まで駆けたナターシュは、行き合った者への挨拶もそこそこに叔母の執務室の扉を叩いた。


「あら、ナターシュ。元気が良いこと。お帰りなさい」


 マグリッテはこれまでと変わらぬ簡素なドレス姿で車椅子に座り、脚を切って高さを調節した文机に向かい合っていた。


「海峡群島や北王国はどうだった? 片づけてしまうから、お茶にしましょう。たくさん話を聞かせて頂戴。エドワルド様も、お変わりなく」

「戻りが遅くなりましたこと、お詫び申し上げます。うちの者はお役に立っておりますか?」

「大助かりですわ。ああ、待って、待って。先に着替えてきて。支度が調うまでに、これを書き上げてしまいますからね。ミンシャ、お茶の準備を!」


 悠長にお茶をするつもりはなかったが、エドワルドに背をつつかれて退出した。古株の侍女ミンシャがまああ、と飛び上がる。


「姫様、よくぞご無事で。行方知れずと伺って、どれほど心配しましたことか……!」

「大丈夫よ、ミンシャ。それより、リフィジとクレムはどこ? 無事を伝えておきたいんだけど」


 すっかり色の抜けた髪を頭のてっぺんで丸めたミンシャは目をぱちくりさせた。


「リフィジ様は北王国に向かわれましたが……何もお聞きでないのですか? クレム様は別邸におられるはずですが」


 エドワルドが去ってからも、夫妻は別邸を指揮所として海の民らに指示を出しているのだとミンシャは首を傾げる。礼もそこそこに、また走った。

 リフィジが北に向かった一団に加わっている、と聞いてエドワルドの眼が爛々と輝いた。それも当然のこと、リフィジは彼の部下である。マグリッテが何を命じたとして、従わねばならぬ義理などない。エリザベスの臣下筋のリフィジが、頭を二つも飛び越えたうえに、エリザベスと敵対関係にある第一王子の懐深くに出向くなど考えられない。何らかの理由があるはずだった。マリウスがクレムを「監視」したことといい、穏やかではない。

 小道を抜け、花の姿こそないが手入れの跡が窺える花壇を脇目に、別邸の扉に縋りつく。内側から開いて、ナターシュはつんのめった。


「やあ、ナターシュ。お帰り」


 マリウスは離れの鍵束をこれ見よがしにじゃらつかせながらうっそりと笑った。幼い頃から笑うことが得意ではなく、ぎこちなく唇を持ち上げる不器用さを好ましく思っていたが、くまの浮いた、疲れきった眼をぎらつかせていては悪い印象しかない。


「マリウス、クレムは? リフィジが北王国へ向かったのは本当?」

「本当だよ。昨日発ったから……海から見えたかな。きみが帰ってくる前には話を進めておくべきだって言ったんだけどね。リフィジさんが渋るものだから」

「何をした」


 背後のエドワルドが獰猛さをむき出しにする。同い年の従兄弟は少しも動じなかった。


「人聞きの悪いことをおっしゃらないでください。何もしていませんよ、殿下。ただね、クレムさんのお薬の作用を少し強める薬草茶がこのあたりで好まれていると教えて差し上げただけです」

「恥ずかしくないの、そんなことをして」


 だから、とマリウスは長い髪を揺らし、鍵束を鳴らした。紫の眼は何も映していない。うつろな表情がカラディンとそっくりで、背筋が粟立った。

 この同い年の従兄弟は、シャナハを除けばいちばんの話し相手で、友であり、競い合う仲だった。国や高山地帯ナッシアの行く末を憂いた仲だった。どうしてこんなことになってしまったのだろう。


「何もしていないよ、今のところはさ。ものには順番があるんだ。いま海峡群島を敵に回すつもりはない。せっかく築いた縁だよ、軽率な判断で壊してどうするんだ」

「ナターシュと私のことをもののように言うな。政略も国益も見越しての結婚だったことは認めるが、そちらの目論見の駒として扱われるのは不愉快だ」

「エドワルド様もナターシュも、どうしてそう喧嘩腰なんです? お疲れなんでしょう、湯でも使ってゆっくりしてくださいよ。クレムさんなら中にいますよ」


 無造作に差し出された鍵束を奪って、エドワルドが駆けてゆく。頓着せずに小道を戻ろうとするマリウスの腕を掴んだ。感情のない眼が思いがけない高さにあることに、いまさらのようにどきりとした。


「マリウス、どういうことなの、どうして急に北王国に人を遣ったりしたの?」

「急に、じゃない。前々から考えていたことだし、ちゃんとリフィジさんやクレムさんに話を聞いて決めた。王族たちが王位を巡って泥沼の争いをしていることとか、エリザベス殿下が竜に興味をもっていらっしゃることとかね」


 それがどうして、第一王子のところへ使者を遣ろうと結論されるのだ。北王国に竜を持ち込んで、新たな火種を作って、竜の国は何を得るのだ。カラディンが魔法で竜を殺したことはとうに知られているだろう。魔法使いが稀な南大陸の国々とは違って、竜の所持や飛行能力は有利を約束しない。


「そんなことをしても、わたしたちの利にはならないでしょう。戦の種を蒔くだけよ。それに北王国の魔法は竜を殺せる。……スピカが死んだの」

「ああ、聞いたよ。……残念だった」


 初めてマリウスの表情が揺らいだ。ナターシュとスピカの仲をよく理解している彼だからこその煩悶が見え隠れし、北王国へ人を遣ったことに全面的に賛成しているわけではないのだとわかった。


「北王国は大きくて豊かな国だった。もちろん、問題がないわけじゃないけど、そんなのどこでも同じでしょう。魔法使いたちはわたしたちの知らないことをたくさん知っていたし、知識に対する姿勢も前向きだった。竜に興味を持ってる人もいるし、スピカを、ふ、腑分けしたって聞いた。竜のことはわたしたちがいちばん詳しいつもりでいるけど、もしかするとわたしたちの知らないことを発見しているかも。いつまでも竜に頼っていてはまずいって、マリウスも言ってたじゃない」

「そうだ。ここは狭くて何の特徴もない島だよ。文化の発展も技術も周りの国々に比べてずっと遅れてるし、竜に頼りきりで生きてきたくせに気位だけが高い。だから見下されてるって、それを認めることから始めなきゃならない。都で呑気に暮らしてるあの人たちに、自分の姿を見つめる勇気と自信があると思う?」


 少なくとも、先だって訪れたときのきょうだいたちは、国の行く末を真摯に憂いていた。その場にいなかった彼に伝わりはしないだろうけれど、ナターシュは知っている。

 だから、とマリウスは続けた。懐かしい声は疲労と諦めを乗せて重く沈む。


「北王国へは竜を売り込んでいく。あちらの王族が身内争いにかかりきりのうちは、西も南も安泰ってわけさ」

「そうして両陣営に竜を売れば、どんどんお金も転がり込んでくるって計算?」

「そういうこと。均衡が保たれているうちに、どんどん北の知識や技術を取り込んでさ。僕も魔法には興味がある。竜の魔法とは全然違うらしいし。何にせよ、竜を飛ばせば山脈なんてどうということはないだろ。東から船を回すより、ずっと安くて簡単だ」

「それだけの竜をどうやって確保するの。そんなに簡単に殖えるものじゃないし、今の人手じゃ訓練する竜を増やすのは難しいし。竜は生きものだよ、わたしたちが自由に生死を操っていいわけない!」


 ざり、と土を踏む音がして、人の気配に振り向いたナターシュは驚きに言葉を失った。小道を慣れた足取りで歩む長衣の裾は、本心を窺わせぬ蓑虫の色。


「ごもっともなことですが、手を下すのは我々です。姫君がお心を煩わせることはございませんよ」


 ややぎこちない共通語だった。砂色の長い髪と、長衣の右袖がはたはたと風に揺れる。


「カラディン……」


 空気が粘つく。胸が痛んで喉が灼けつくようだ。驚愕とともにこぼれた名に、彼は大仰な礼で応えてみせた。はずみで奇妙な装飾のついた趣味の悪い首飾りが揺れて、うへー、とシャナハが舌を出す。

 エドワルドではなく、魔法院に渡りをつけたのか。胸騒ぎが冷静さをかき乱す。


「お元気そうで何よりですよ、姫君。このたびこうして学術交流の一環で竜の国にお邪魔することになりまして。実際に竜を見て、竜の魔法に触れることができるなんて、夢のようです」

「まあ、そういうこと。きみたちが船の上から見たのが最初だったわけじゃないってことさ。さて……どうしようかな」


 マリウスの真意はわからぬまでも、穏当な響きでないことは明らかで、ナターシュは身構えた。駆けっこと隠れんぼで負ける気はしない。だが、逃げてどうなる? どこへ逃げる?


『エドワルドさまも、クレムもおいてくわけにはいかないし。カラディンとうまく利害関係を一致させれば、義兄上への牽制になるかもしれない。難しいところだけど、逃げたら負けだよ、確実に』


 そう、その通りだ。逃げて隠れて流されて、ここまで来た。自分の手で選び取ったものはほんの少し。もう先送りはできない。ならば、答えはひとつだ。


「わたしは逃げも隠れもしない。おばさまとカラディン殿のお考えをしかと聞かせていただきますわ」


 ナターシュに高山地帯統治の決定権はない。それは痛いほどに理解しているが、エドワルドや海峡群島との橋渡しになれるのは自分だけだ。他人の威光を借りているようで気に食わないが、王女として黙ってはいられない。


『ナターシュ、ちょっと替わって』


 声は不機嫌一色で、その理由もわからないのは珍しいことだった。首を捻りながら交替する。シャナハは眼に力を込めて、カラディンを睨んだ。


「お望みのものはご覧になれましたか、魔法で。北王国ではそうして他人に気安く魔法をかけるのがお作法なのでしたらご免なさいね、とても不愉快だったものですから」


 正面から尖った声を叩きつけられた魔法使いだけでなく、マリウスとナターシュも揃って驚きを見せた。


「それは……失礼いたしました。うーん、まさかこんな短期間で魔法の気配を探れるようになるなんて、竜の魔法とは近しいものなのかもしれませんね……」

「失礼にあたるのでしたら、止めていただけます? わたくしだけでなく、この国のあらゆる存在に対して、探知の魔法を無断でお使いになることを。学術目的であれば礼を失することは許されるとでも?」


 話せば話すほど腹が立ってきて、シャナハは大きく息を吸う。ナターシュは何も感じていないようだが、魔法の目で探られるのはとても不快だ。何がどう、と言い表すことは難しいが、不躾に眺め回されているような、周囲でひそひそと聞こえよがしな噂話をされているような、そんな不安と苛立ちと不気味さがある。

 何の魔法までかはわからないまでも、魔法をかけられている、と察知できることはカラディンに対して強みとなるだろう。


『そういえば……縛めの魔法を破ったよね。あれもすごかったよ』


 シャナハには魔法が感じられた。だからどこをどうすれば打ち勝てるかもおぼろげにわかったのだ。確信はなかった。けれど姉にできないことなら、自分が頑張るしかない。結果として魔法は破れたから良かったものの、原理がわかっているわけではないので、常に抵抗できる自信はない。原理といえば、竜の魔法とて何から何まで理解しているとはとても言えないのだ。

 竜の魔法は国に伝わる秘術だと言い聞かされ、血を流して恩恵にあずかってきた。どうして血を流すのだろうか。いつ血を流すことが必要だと気づいたのだったか。マグリッテやマリウスは髪を魔法の力に変えるが、その差は何なのか。

 シャナハは魔法について何も知らないし、何も教えられていない。継いでいくことを目的とするなら、確かに変だ。説明できないことはたくさんあって、しかしそれがふつうなのだと思っていたから違和感を抱くこともなかった。

 カラディンが語ったように、体系だった学問として扱われてはおらず、誰もが「何となく」と曖昧にしたままなのは改めるべきだ。竜の魔法で何ができるのか、できないのか、魔法の使い手であるシャナハでさえその限界を知らない。

 きちんと由来を調べ、整理したならば竜の魔法は学問として扱われ、論理で枠組みが定められるかもしれない。そうすれば魔法との差異も明らかになり、魔法に対抗するすべもはっきりするに違いない。不愉快な男だが、カラディンは権力には無頓着だ。魔法を究めるため、などと煽ってやればその気になるかもしれない。そして重要なのは、交流が密になれば、彼、あるいは彼が所属する魔法院を通じて義兄を牽制できる可能性がある、ということだ。

 学術交流そのものは悪くない。問題は、政治への介入がありうることと、エリザベスや海峡群島の反応だ。彼女らは竜の国があちこちに良い顔をするのを嫌がるだろう。

 ああもう、面倒くさい。誰か答えを教えてほしい。このカードを切れば、すべてが丸く収まりますよという最強にして万能の選択肢を授けてほしい。

 別邸からエドワルドが一人で出てきた。カラディンを胡乱げに睨んで、次いでシャナハに目を遣って訝しげに眉を上げた。問われる前に口を開く。


「では、お茶にしましょうか。きっと叔母さまがお待ちかねでしょうから」

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