八 冬麗(2)

 なるだけ早く、と急くのを嘲笑うかのごとく、みぞれまじりの雨が降って、二日後の昼に出港となった。

 婿殿の生家の馬車で港まで送られ、往路と同じく魔法使いを十人乗せた船は海原を西へと疾駆する。違ったのは、よい風が吹いたときには魔法の行使をやめて、ナターシュが海を見られるように計らってもらったことだ。

 急ぐだろうが、狭い船室に押し込められていては気も滅入る。身体の回復のためにも心の健康は重要だと、アルヤ医師がわざわざ港までやってきて皆に言い含めたからだった。

 南北大陸を隔てたとされる山脈は何度見ても圧巻で、山のてっぺんは雲に阻まれて見えない。南大陸側がよく晴れているのに対し、北大陸が重い雲に覆われがちなのも空から見るのと同じだった。この雲と山を越え、広大な大地のはるか彼方にいたのだとはにわかに信じがたい。


「国王陛下はなぜ現状を良しとされているんでしょう」

「自分がこの原始的なやり方しか知らないからだろう」


 エドワルドはにべもない。自らも多くの兄弟たちを蹴落とし、父王に死の恐怖を抱かせて王位を奪ったからさ、と早口で吐き捨てた。よほど嫌っているらしかった。無理からぬ話であるし、ナターシュにも痛いほど理解できるのだが、やるせない。


「それだけの価値のあるものだと思っているんだよ、王冠や玉座が。いや、鷹狩りや鹿追いと同じ程度にしか考えてないのかもな。どちらにせよ、支える者のことは眼中にないんだ。そうでなくちゃ、こんな馬鹿げた状態のまま放っておくわけがない」

「もしもエドワルドさまが王になったら、全部変えてしまいますか?」


 翠の眼がまるくなって、それから笑みの形に緩んだ。右舷側、そびえ立つ山の向こうにある生まれ故郷ではなく、育った地である海峡群島の方向を見遣る。


「おれは王にはならない。そんな器じゃない。変えてしまえばいいとは思うけれど……王の器に値する人間なら、枠組みを変えてしまうのではなくて、人の配置を換えたりとか、宮中行事を廃止したりとか、間接的に変えていくのかもしれない。形をできるだけ保ったままでさ。逆に言えば、それくらいできる人間じゃないと国の主にはなれないんじゃないか。おれは、海峡群島を維持してくだけで精一杯だよ」

「ご謙遜を」

「……言うようになったな、ナターシュ」


 兄王子ならば野心がないことを責めるのだろうか。王の器とは何だろう。

 個々人によって器の大きさは違う。北王国が王一人の手に余るというなら、信頼できる臣下を野から見いださねばならない。法律、教育、医療、軍事、魔法、経済、衛生、建設、治水、外交などなど、それぞれの分野に秀でた大臣を置いて、王は彼らを束ねるくらいの立場でよいのかもしれない。となれば必要なのは人脈のほかは交渉力と決断力、それをもたらすための広い視野と機知、機転、それから責任を負うだけの覚悟であって、血を分けた兄弟で争うことではなかろう。

 たった一人で民の上に君臨する王にはナターシュはなれないし、エドワルドもなれないだろう。王の力にはなれるかもしれないが。


「よき王とは何でしょう。どうすればよき王、王族として国や民に寄り添えるのでしょう」

「答えがないから、どこの国も迷走して、試行錯誤してるんだろう。どんなに良い王でも、民が法を犯して平然としているなら国は成り立たないし、公明正大な王が行きすぎて残虐に走る例だってある。一口にこうすればいい、なんてものはないさ、きっと。……強いて言うなら、迷い続けて自問し続けることくらいじゃないか」

「難しいですね」


 そうさ、と朗らかにエドワルドは笑った。


「けれどおれたちは三人で知恵を出し合える。それは強みだと思うぞ」

「わたしたちがお役に立てるでしょうか」

「お飾りの妻でいるつもりもないくせに」

『やっぱり、エドワルドさまってすてき。あたし、すごく好き。ねえナターシュ、あたしたち、いい妻でいようね』


 シャナハの声は感激で震えていた。ナターシュは黙ったまま頷く。声に出せば泣いてしまいそうだったのだ。



 海峡群島に到着したエリザベスの船はナターシュらと竜、そして連絡役として借り受けた魔法使い三人を下ろし、折り返し出港の準備と点検に移った。竜の国へ向かうための魔法船はすぐにでも発てるよう整えられていたが、船旅に慣れていない多くの者を慮って、翌々日の早朝に出発することとなった。

 群島の人々は気さくな領主の帰還を喜び、やつれたナターシュをいたわり、数を減らした竜がこの年若い奥方のものであることを知って憤った。

 センセイは一行の北王国語の上達を褒め、バーバラは喜色をあらわに雄牛のごとく突進してきて全員を順に抱擁し、最後のセトには熱烈な口づけを寄越した。彼は真っ赤になって、しばしの逡巡の後にぶちゅっとお返しをしたものだから、エドワルドの館ではその雰囲気のまま宴会が開かれることとなり、騒ぎを聞きつけてやってきた島民たちが手みやげを置いていくといった、結婚式のごとき騒ぎが日暮れまで繰り広げられた。


「楽しい一日でした」

「そうだな。でも、疲れただろう」


 横たわるエドワルドの肩に頬を寄せると、腕がするりと背に回った。陽灼けしづらい北の民族の白皙は、薄闇に溶けるナターシュの肌とは違って、夜のほのかな光に青く浮かびあがる。


「だって、わたしは座って笑っていただけですもの。疲れたというならむしろ」

「おれか? そんなすけすけの夜着を用意したコーティのせいだろう」


 指摘されると顔が熱くなって、内腿にじんと響いた。

 宴会がお開きになったあと、久しぶりにゆっくりと湯の中で手足を伸ばしたナターシュを待ち構えていたのは腕まくりをしたコーティだった。

 特別なときにしか着ない、爪でも引っかけたら破れそうな薄い絹地の夜着をくるくると着せかけ、胸の谷間でリボンを留め、薄く化粧を施し、あるじを完璧に整えた彼女は無言ながらに満足げだった。

 ナターシュはといえば先と同じく呆気にとられながら、鏡の中で変わってゆく自分を見つめるばかりだった。違いと言えば、薔薇茶ではなく薔薇のジャムを練った飴を転がしていたくらいで、何の進歩もない。

 波の音が満ちる寝室での夢のような時間は、ようやく、といった安堵を含んで永遠に続くかと思われた。冷静になって振り返れば、何やらはしたない格好のまま呼ばれるままにナターシュもシャナハも入り乱れて、言葉で、からだで、あけすけな懇願をとめどなくこぼし続けていたかに思えるのだが、素肌に触れるエドワルドの体温はすべてを受け入れ、許してくれた。


「すごく気がつくでしょう」

「怖いくらいにな」

「……コーティも、しあわせになって欲しいんです。わたしのことばかりではなくて」


 ハルトな、と頷いて、エドワルドはナターシュの髪を弄んだ。


「ナターシュの身の回りのことをすることも、傍にいることもコーティの幸せだと思うけどな。いなくなったとき、あの子がどれだけ取り乱したか」

「……ですよね……」

「あの子の幸せを願うなら、まずは自分からだ、ナターシュ。無茶はするな」

「できる限りは」


 いい返事だ。耳をくすぐる吐息に竦めた身を攫われ、ナターシュとシャナハはまたとろりとあまく溶け合って、押し寄せる歓喜の波に身をゆだねる。

 細切れの吐息はすすり泣きのよう、求められるままエドワルドの名を呼んで、背に縋って、貫き焦がさんと迸る雷に震えた。




 出発が翌日であったことに多大な感謝をしつつ、陽が高くなるまでうつうつと眠りの淵をたゆたっていたナターシュが身支度を調えて降りてゆくと、エドワルドとバーバラが難しい顔をして食卓を囲んでいた。


「なにかあったんですか」

「クレムから連絡があった」

「国に、何か……?」


 久しぶりに聞く名だったが、竜の国、海峡群島、エリザベスの三者は定期的に連絡を交わしていた。ナターシュとエドワルドらがなし崩し的に北王国へ向かったこと、ナターシュが第一王子に拉致され、無事戻ったものの、スピカが死んだことも竜の国にいるクレムに伝えられ、彼女からマグリッテに知らされているはずである。

 対して、クレムからは復興の具合や人々の様子を伝える連絡が主だったのだが、先ほどもたらされた報せは、竜使いたちが北大陸に向かう算段をしている、もしかすると第一王子と接触するつもりなのでは、との不穏なものだった。マリウスに見張られ、連絡を遅らせるよう言われたために隙を見てお伝えしている、帰還を急いで欲しい、と。


「できるのか、そんなことが」

「竜さえ嫌がらなければ。ですがあの山脈を越えるとなると、相当な高さですから寒さや息苦しさにも備えねばなりません。簡単とは言えませんが、どうして……」

「エドワルド殿下に渡りをつけるんじゃないの?」


 口を挟んだのはナターシュのためにスープと丸パンを温めていたバーバラだった。


「だってナターシュ様を拐かしたじゃないですか。抗議のひとつやふたつ、入れたっておかしくないでしょう。飛竜ならこんな山、何てことないんだぞって見せつけることにも繋がりますし」

「ええ、それはわかるんですけど、叔母……マグリッテは国政に関わっていませんから、独断で北王国とことを構えるのは」

「でも、ここと行き来をもつとは断言したじゃないか。口約束だけど……いやちょっと待て、誰か北王国語を喋れる人はいるのか? いないよな?」


 ナターシュは頷き、匙をとって食事を始めた。すぐに腹ごしらえしておく必要がありそうだったからだ。


「ちょっと出てくる」


 エドワルドが椅子を蹴って飛び出し、バーバラも察したように厨房に去った。何やら話し声がする。彼女の相手をしているのは双子のどちらか、恐らくはセトだろう。コーティの高い声が混じり、何やらごそごそしている様子だったので声をかけ、竜の世話に出ていたハルトも呼び戻し、皆で食卓を囲んだ。


「どうなっちゃうんですかねえ」

「何のために山越えなんか……これからの季節、竜にも負担ですよ」

「それを知らないおばさまじゃないし、無理を通すならダリンたちだって反対すると思う。でもきっと、竜を殺せる魔法のことは知らないだろうから早く伝えないと……」


 双子がしゅんとうなだれる。州境の川でナターシュを守りきれなかったことを、彼らはずっと気に病んでいるのだ。


「わたしは大丈夫。でも、下手に竜で近づくのは危険だと思う。殿下は竜を欲していらっしゃるし、魔法使いたちも竜に興味があるようだし。感情論かもしれないけど、近づきたくない」

「マグリッテさまは考えの浅い方ではありませんよ、姫様。竜が発つ前に高山地帯に戻って、これまでの話を全部聞いていただきましょう」


 コーティに宥められて、何とか食事を終えた。焦っても仕方ないよと言うシャナハこそが早口で、冷静さを取り戻す。

 エドワルドが戻ってきて、出港を早める旨を告げた。息が上がっている。


「北王国での顛末も高山地帯に……マグリッテ殿には伝わっている。それでもあいつと対話をと望んでおられるらしい。急ごう、荷をまとめてくれ」

『何だろう、すごくいやな感じ……』


 慌ただしく港を離れた魔法船は沈む太陽を追って西を目指す。翌朝、海を渡って北に向かう十騎ほどの翼影を見張りが発見した。落胆の声があがる。

 船は二日目の昼過ぎに竜の島に到着し、高山地帯へ向けてふわりと舞い上がった。

 北へ飛んだ一団が戻ってくる姿が確認されることはなく、戻る姿を雲が隠したせいだと誰もが願っていたが、そうではないということもまた、誰もが知っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る