八 冬麗(1)

 スピカの死は、ナターシュとシャナハをこっぴどく打ちのめした。

 三階から飛び降りた時に足首を捻っていたのと、力任せに抉った右手の傷、スピカの死骸に触れたときの火傷がひどいというのでまたもや安静を言い渡されたが、言われずとも活動する気力がなく、体力もなく、食欲もわかず、シャナハと話すこともせず、眠るでもなく、ただぼんやりと天井を見上げていた。

 兄王子が見舞いに訪れるのも鬱陶しく、生返事をして追い払う。図書館へ同道してくれた魔法使いたちが具合を案じていると侍女から聞いたものの、何の感慨ももたらすことはなかった。

 右腕を食いちぎられたカラディンは魔法での治療で一命を取り留めたそうだ。焼け焦げたスピカを回収したのは魔法院で、貴重な資料として扱われているらしい。その話をエドワルドから聞いた時にはさすがに耐えきれず嘔吐し、三日ほど食べ物を受け付けなかった。

 この状態も、親しんだ竜を失ったことよりもつわりと考えられているのだろうと思うと、何もかもが馬鹿馬鹿しく、何のためにここにいるのかがわからなくなって、かといってエリザベスのもとへ帰る気にもなれずに、まなうらに懐かしい赤毛を思い描きながら天井を眺めて影の移ろいを追い、壁紙に描かれた花を数えていた。

 時間の感覚が薄れ、今日と昨日の境が曖昧になり、明日を望む気持ちが失せた。

 ナターシュ付きの侍女は変わらず優しかったが、毎朝の洗顔と敷布交換のほかは下がっているように伝えた。裏表のない好意に応えることさえ億劫だったのだ。

 そうして幾日か過ぎたのか、それとも長い一日がまだ終わってもいないのか、ぼんやりと寝台に横たわるばかりのナターシュの耳に、屋敷がひっくり返ったかのような喧噪が届いた。


『うるさいねえ』


 シャナハの声も久しぶりに聴いた気がする。

 暴動でも起きたか。横になっていても振動が伝わってくるくらいなのだ。誰かが屋敷じゅうを走り回っているか、柱に体当たりでもしているか、もしかしてよその領主どのが攻め込んできたのでは? しかしそんな騒ぎに関係があるとも思えず、そうだね、とだけ返して、壁紙の花を数える作業に戻った。

 蝶番が弾け飛ぶほど乱暴に扉が開け放たれても、また殿下が来たのか、くらいにしか思わなかった。顔を見るだけでも暑苦しいし、長い話を聞くのは疲れる。いもしない子どもを前提とした話に何の実があるだろう。


「ナターシュ! シャナハは? ふたりとも無事か? ああ、こんなに痩せて……」


 目の前に燃え盛る赤毛が現れてはじめて、呼吸が止まった。

 髪を撫で、頬を包み込む手から懐かしい熱が伝わってきて、凍えた時間を溶かした。すぐに堰を切った涙で翠の眼が滲む。

 目尻を啜られてから交わした口づけはひどく塩辛かった。


「エドワルド、さま」


 エドワルドさま! シャナハの悲鳴が喉を塞ぐ。


「うん。すぐに来れなくて悪かった。いまリズが兄上と直談判してる。誰が何と言おうと一緒に帰るからな。シャナハ、もう大丈夫だ。なにも心配しなくていい」


 彼はやはり、ナターシュとシャナハを見分けた。どうして。どうやって。疑問は何一つ言葉にならない。

 呼ばれるがままに代わる代わる抱擁と口づけを繰り返し、再び頭がぼんやりしてきたところでひょいと抱え上げられた。


「あー、これ、どうしようかな。すげえ腹立たしいぞ……くっそ、何か蹴りてえ」

「だめですよ。後でどんな難癖をつけられるか」

「わかってるよ」


 口調の荒いエドワルドは相当気が立っているようで、しかし応じた声には笑みが含まれていた。一度寝台にナターシュを下ろし、自らの上着を脱いで着せかけてから、再び肩に抱き上げる。


「まさかこんな、絵物語みたいなことをする羽目になるなんて」


 満更でもなさそうだが、上着がなければ寒かろう。ここまでは馬車だろうか。


「エリザベスさまは……」

「無事に男の子を産んで、もうすっかり元通りさ。ここまで馬車で来れるくらいに。コーティもセトもハルトも、みんな元気だ。おまえだけだ、こんなにぼろぼろなのは。皆が悲しむから早く元気になれ。なれないのもわかってる。十分わかってるけど、それでも元気に笑ってやってくれ」


 これを言われるのは二度目だ。地震のあとエドワルドたちが竜の国にやって来た時、侵略の事実に打ちのめされ屈辱に震えるナターシュに向けて、彼は涙を拭け、と言ったのだった。

 あの日のことがありありと思い出される。非道な侵略者に差し出される我が身を憐れみ、しかしそれが王族としての義務だと言い聞かせて。それが今では、においと体温にすっかり馴染んで、欲してさえいる。首筋に腕を回して抱きしめると、かすかに海が香った。

 義務などではない。望んで、わたしはこのひとの隣に立つのだ。竜の国と、海峡群島がよりよく栄え、豊かに進んでゆくために。


「帰ろう。おれたちがここにいても、できることはない。リズもだいぶ反省してた。謝罪だけきいてやってくれ。許せとは言わないから」

「……はい」


 エリザベスが乗りつけた馬車は、移動する部屋と称しても過言ではなかった。座面は柔らかく、適度に弾力があって揺れを打ち消す。狐か兎か、毛皮が貼られた箱車は温かい。

 コーティたちが待つエリザベスの城へ向けて馬車はひた走った。エリザベスは兄王子との交渉を済ませてから別の馬車で帰ると言うのだから、剛毅である。


「馬車は馬車なんですね、船は魔法で動くのに」

「そりゃあな。馬に魔法をかけて強くもできるけど、そんな無理は嫌がるんだよ、リズが」

「そうじゃなくて、馬を使わずに箱車だけを魔法で走らせれば……あ、魔法使いが消耗しちゃうんですね」


 暖かな毛布にふたりでくるまって、がたごとと低く静かに揺れる馬車に身を委ねていると、自然とまぶたが落ちてきた。


「寝てるといい、すぐに着くから」


 外から箱車の中が覗けないのをいいことに、エドワルドの振る舞いはだんだん大胆に不埒になってゆく。止める気はなかったが、寝てるといい、と言うわりには寝かせてくれるつもりもなさそうなのが狡い。こんなふうにされて素直に眠れるものか。

 ひょいと膝の上に抱き上げられ、寝間着の上から腰の鱗を一枚ずつ確かめられる。カラディンの粘着質な手つきが思い出されて震えがはしり、エドワルドの肩に額を押しつけた。


「エドワルドさま」


 何を察したか、翠の眼差しが剣呑に細まる。だから、何でもありませんと言う代わりにゆるく弧を描く唇を貪った。シャナハが狡いと叫ぶので替わってやってから、スピカを想って一人で泣いた。




 エリザベスの長男はできたての砂糖菓子のように白くふわふわで、甘いにおいがした。留守を預かっていた領主の婿殿は豪商の次男坊で、商売の話以外には介入しないのが暗黙の了解だが、今回のことはいきすぎたとエリザベスに先んじて謝罪し、ナターシュはそれを受け入れた。

 生まれたての王子の子守に任命されたコーティ、それに兵らと打ち解けて北王国語を流暢に読み書きできるようになっていた双子はあるじの帰還に声をあげて泣き、小さな王女たちも「りゅうのおひめさま」との再会を喜んだ。

 自らの使用人でなく、コーティを敢えて大事な王子の守り役に命じたのは女領主なりの信頼の表現であったが、フェルドをはじめ留守を守る者はそのことを承知していて、エリザベスが特別に目をかけている海賊の王、そして勇敢な花嫁を、節度をもって迎えた。

 ファゴたち、竜はいささか覇気がなかった。スピカに何があったのか、彼女がどうなったのかきちんと理解しているのだ。

 こみ上げてくる涙をこらえて、竜の首を代わる代わる抱く。北国の冬に鱗は冷えきっていたが、低い歯ぎしりは優しく響いた。

 竜の飼育や繁殖、訓練を担っている高山地帯ナッシアにおいて、竜の誕生と死は珍しいことではない。けれども自らの飛竜ともなれば思い入れは格別で、特に身内と呼べる存在と縁が薄いナターシュにとっては、スピカは心安い友であり、姉妹であったから、竜たちを含めそれを知る者は誰もが彼女の死を悼み、涙した。

 屋敷をあげての歓待が済むと、すぐさま暖かい部屋に寝かされて、根菜がとろけるほどになったスープと柔らかい白パンが出され、腹がくちくなったところへ医師がやって来た。南との混血であることが明らかな、若い女医だ。北王国に来てからほぼ初めて目にする南方の肌の色と、肌の色に関わらず領主のお抱え医師になれることに安堵した。


「衰弱しておりますね」


 女医は鞄も置かぬままに言った。豊かに波打つ黒髪を頭の高い位置でひとつに束ねている。あらわになった額はつるりと丸く、彫りの深い端整な顔だちに、太い眉が凜々しい。衣服は南特有の色鮮やかな布地で、気候ゆえに露出は少ないが、体の線に沿った大胆なかたちをしていた。


「精のつく温かいものを少しずつ食べて、思い煩うことなく過ごせばすぐに良くなりますよ。ですが、身体が治ろうとしていない。お心当たりはございますか」

「あります……でも、もう大丈夫です。大丈夫じゃないかもしれないけど、でも、きっと」


 頷きながら聞いていた女医は、ナターシュの脈をとりまぶたを裏返し、舌と爪の色を見るなどひとしきり全身の具合を確かめて、背後に控えていたエリザベスに頷いた。


「病の気はありません。治る時が来れば治りましょう。わたしどもにできますのは、そのお手伝いのみです」

「わかった。ご苦労」


 女医の報告もエリザベスの返事もあっさりしたもので、拍子抜けする。義兄のところのしわしわの老医師は何度も繰り返し質問し、万一にも見逃しがあってはならぬと言わんばかりに目を寄せて、あらゆる事項を確かめていたものだが。


「ええと、あのう、魔法での診察はしなくてもよろしいのですか」

「必要ございません」

「何だ、してほしいのか」


 返ってきた言葉はやはりそっけなく、しかも老医師の診断よりもよほど自信に満ちている。ナターシュとてどこが悪いとも思わないが、この差が信じられない。同じ国、隣り合う領地でこんなにも違うなんて。


「してほしいわけではないですが、あちらの先生とはずいぶん違うようですから」

「必要なことはすべて伺いましたし、拝見しました。これ以上に調べる意味がありません。そのような時間があれば、別の患者を診たいのですが」

義妹いもうとよ、ハリ・アルヤ医師は多忙なのだ。凄腕だからな」


 長椅子に体を投げ出し、相変わらず男ものの衣服に身を包んだ義姉は白い歯を見せて微笑んだ。出産を終えて、衣服はすっきりした形の北王国のものに変わった。前開きのシャツは白い襟がまぶしい。羽織った毛織物は目が粗く、糸が細かに染め分けされているのか、深みのある上品な灰色だった。ざっくりとした着こなしなのに、だらしなく見えない。豊かな金髪を高く結い上げ、形の良い耳を輝石が飾る。並々ならぬ色気にくらくらした。

 アルヤ医師は領主だろうが王女だろうが意に介さぬ様子で、次の診察がありますので、と去って行った。無駄のない洗練された動きが気に入られたのだろうと、すぐに察しがつく。


「ということだ、ナターシュ。私が無理を押したせいで、済まなかった。どれほど謝罪の言葉を積んでもスピカの命に足りぬのは承知しているが、愚かな姉を許してくれ。竜の国と共存したいとの思いに変わりはない。返答を急がせるつもりはないから、故郷くにに帰って、無事を報告してくるといい。そちらには魔法使いがおらんのだろう、一人二人、連絡係をつけようか」

「我が国に興味のある方でしたら、喜んで。今は慌ただしくしていますから、ろくにお構いもできませんが、寒さはこちらに比べればずいぶんましですよ」


 エリザベスは巻き貝のごとく頭上で渦をつくる髪を揺らして笑った。


「すぐに手配しよう。寒さが苦手なやつをな。船の準備も進めている。そなたさえ良ければ、明日明後日にも出港できよう」

「有り難うございます、義姉上」

「中央は十分に牽制したつもりだが、何をしでかすかわからん。魔法院の飼い犬が入れ知恵せんと構えているからな。くれぐれも注意してくれ」

「魔法院……カラディン殿ですか」

「そう。兄は単純馬鹿だが、条件次第では魔法院が裏で糸を引きかねん。竜の遺骸が奪われたと聞いた。つらいだろうが、利用されると覚悟しておくことだ。連中の知識欲と好奇心は変態的だからな。そちらで把握していないことを魔法で突き止めたとしてもおかしくはない」


 兄王子の口から聞いた、腑分け、の一言が胸を抉る。しかしめそめそしている暇はない、エリザベスの言うとおり、覚悟しておくべきことだった。


「承知しております。南と西の山脈が我が国の盾となってくれましょう。義姉上こそお気をつけください」

「案ずるな。同じ血を分けた兄妹である以上、避けては通れぬ道だからな。こう言っては何だが、慣れている」

「……それでも、和解の道はないのですか」

「兄が私の考えを認めぬうちはね。もとより、先に殴りかかってきたのはあちらだ。戦う意思はないが、黙って殴られているわけにはいかん」


 はい、と頷きながら、エリザベスが戦わないと宣言しても、兄王子からすれば「戦わないという戦い」なのだろうなと思う。被害妄想と言ってしまえばそれまでだが、疑心暗鬼を拭い去るには溝は深く、決裂の時間が長すぎたのだ。

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