七 雨氷の野に眠る(3)

「失礼ですが、それを提言なさってはいかがですか。州境の戦線も緩みきっておりましたし、意地の張り合いに付き合わされる兵が哀れです。戦費だってかさむでしょう」

「エドワルド殿下に提言ですか? 自らが勝利するためには兄弟姉妹を殺し尽くし、よその領地の田畑を焼き払えばよいと考えるような方ですよ。それも戦術といえば聞こえはいいですが、野蛮だと早く気づいていただきたいものです。自らが王となって立ったときの眺めはかくや、とね。焼け野原に満ち満ちる怨嗟と新たな王への不満が見えない方……見えても腕力で刈り取れるとお思いの方に平和的解決を説いても無駄です。むしろ私の命が危険だ」


 茶器を置いてふと立ち上がったカラディンは窓の外に視線を投げ、遠慮も何もなく伸びをして肩をぼきぼき鳴らしたあと、不意に振り返った。


「姫君もお可哀想なことですよ。よりにもよって視察の日にあの場に居合わせたなんて。お腹の子まで人質に取られてね……。竜の魔法では何ともならないのですか? 竜を操るためのすべでしかないのですか」

「操るのではなく、心を通わせます」


 どちらでも同じですよ。さらりと躱して、彼は卓と椅子の背に手をつき、無作法なほどに顔を近づけてきた。


「腰にその秘密があるのですか」

「えっ」

「竜の魔法の秘密が。さっき、私が始祖竜を侮辱したとき、あなたは右の腰に触れたんですよ。現にね、何か不思議な反応がある。魔法とは違いますけれど、魔法に反応する何かがあるんです。隠しても無駄です、教えてはくださいませんか」


 冷酷な薄紫の眼は怜悧さと隠しようもない好奇心にぬらぬらと輝いている。頭の中で警鐘が鳴り響いた。


『やばいよこいつ! 逃げよう!』

「教えるも何も……こ、これは、わたくしたち王族に伝わるものですから。竜の魔法の使い手が施す王族の証しです。軽々しく人に見せるものではありません」

「嘘ですね。ひどく汗をかいていらっしゃいますよ、姫。暑いのかな……薬草茶で巡りが良くなったのかもしれませんね」

「離して! 人を呼びますよ!」


 薄く笑んだカラディンが人差し指で唇を押さえるなり、ナターシュの声が消えた。どれだけ口を開け、声を張り上げようとも喉が痛むばかりで、その間に寝椅子に放り出される。


「暴れると動きも封じますよ。それとも、そういうふうにされるのがお好みですか。あの赤毛狐も野蛮と卑賤の血を受け継いでいますから、下々の遊びをご存じでしたでしょう」


 吐き捨てられた赤毛狐なる言葉が誰を指すとはすぐにはわからなかったが、理解した瞬間にナターシュはカラディンの頬をひっぱたいていた。薄紫の眼が剣呑に細まって魔法が全身を縛る。望まぬままに両腕が頭の上で交差し、立て膝のまま脚を開くといったはしたない姿で声も出せず、指先すら動かせぬまま寝椅子から魔法使いを見上げる格好となった。

 拒絶の言葉も抵抗も、魔法に絡め取られてむなしく消える。


「素直に見せてくだされば、こんな面倒なことをせずとも済んだのに」


 やれやれとため息をつきながらも、カラディンは興奮に頬を染め小鼻を膨らませてドレス越しに鱗を撫でさすった。エドワルドが鱗を辿る指先は膝が笑うほどの喜びを覚えるのに、どうしてこんなにも違うのか。


『ナターシュ、替わって! スピカが来る!』


 シャナハの声には強い確信があった。スピカ? どうして? わけもわからぬままに主導権を渡す。

 シャナハは目に見えない魔法のほつれに爪をかけ、一気に引き裂いた。思い通り、たちまちのうちに魔法の呪縛が破れる。


「スピカ!」


 驚きに目を丸くするカラディンを突き飛ばし、大きく窓を開けた。南向きの窓から見える空は寒々しく曇っていて重い。すぐに低い雲を貫いて芥子粒ほどの黒点が現れた。ぐんぐん近づいてくる。


『スピカ!』


 背に人を乗せている時、竜は人に負担がかからぬ速度でしか飛ばない。しかし、まっすぐに館めがけて飛んでくるさまはまるで矢のよう、竜の本性を思い出して涙が滲んだ。

 迎えに来てくれたのだろうか。誰も何も命じていないのに、どうしてここがわかったのだろう? この速度で飛んだとしても、一刻二刻では着かぬだろうに。


「竜ですか」


 ぬけぬけと隣に立つカラディンは、殴られ突き飛ばされてもこたえた様子がない。首飾りをいじりながら、空を見上げている。

 その頃には庭の衛兵たちも空を飛ぶ竜の姿に気づいたようだった。竜を初めて目の当たりにした者も多いはずだが、動揺はすぐに警戒に変わり、めいめいに弓や槍を構えては竜の飛来を待ちわびている。長衣姿の魔法使いまでもがまろびつつやって来て、杖を構えたり書を開いたり、思い思いの格好ながら呪文を唱え始めた。

 カラディンは呪文こそ唱えている様子はないが、首飾りの石がだんだんと不気味さを増して、魔法の発動に必要な品であるとシャナハは察した。奪い取るか、それともぎりぎりまで様子を見るか。

 しかし長い射程を誇る魔法がいつスピカを串刺しにするやら、わかったものではない。ナターシュが『わたしがやる』と頷くのでまたも入れ替わる。


「竜……次こそは……」


 早口の呟きとともに、カラディンの右手が不気味な首飾りをいじっている。同じ手でこの身に触れようとしたのかと思うだけでおぞましいやら、腹立たしいやらで気が遠のいた。

 呼吸を整え、ダリン直伝の回し蹴りをカラディンの腹部に叩き込む。反吐を吐いて体を折った魔法使いから首飾りをもぎ取って、窓枠を蹴った。

 すぐ隣に雨樋が走っていることは知っていた。たっぷりしたスカートを巻きつけた手を樋に滑らせ、三階から飛び降りる。これはシャナハには荷が勝ちすぎるだろう。体を動かすことはナターシュの方がずっと得意だ。

 雨樋を滑り降りるナターシュに気づいた衛兵たちは、竜か、あるじの大切な客人か、どちらを止めるべきか判断がつかない様子だった。指揮官さえ竜の迫力と、ドレスの裾をからげて走る身重の姫君に目を白黒させるばかり。

 混乱を意に介さず、職務に忠実な魔法使いの手から放たれた炎の矢が、氷のつぶてがスピカを襲う。翼を畳んで急降下中の竜に避けるすべはない。魔法に貫かれた体躯が地響きとともに墜ちた。スピカはすぐに上体を起こして咆哮する。


「スピカ!」


 力任せに右手の甲をかき破り、シャナハと交替する。

 スピカは怒っていた。不在のあるじに、あるじを捕らえた北の国の者たちに。激変する環境に、安息なき日々に。彼女の混乱と心細さ、疲労と倦怠が奔流となって流れ込んできて、たたらを踏む。スピカの声なき声が、身を震わせた。

 ごめんね、スピカ。国に帰ろう。

 帰って、これまでのように夜明けの空を飛ぼう。


「わかった、スピカ、帰ろう、でも今はだめ、危ないから! エドワルドさまとファゴのところで待ってて!」


 小麦色の竜が竜の国の姫を迎えに――攫いにきたことは傍目にも明らかで、打ち下ろされる翼からの風圧で魔法使いたちはよろめき、翼や尾の強烈な一撃に衛兵は距離を置いて矢を射かけた。馬は竜の怒りに怯え竿立ちになって、犬は尾を縮めて甲高く鳴く。

 一方で、シャナハを屋内に連れ戻そうとする兵もいた。羽交い締めにされるのをむちゃくちゃに手足をばたつかせて抵抗し、スピカに帰れと命じる。確かに魔法はスピカを縛っているはずなのに、彼女は血走った目で暴れるばかり。地で喘ぐ竜に矢が降り注ぎ、勇敢な槍がつけ狙う。そうはさせまいと振るわれる爪や牙や尾が、兵士の腕を、胴を、首を砕いて血を飛び散らせた。

 優美な鱗は血に染まり、鋼鉄によって削がれた。皮膜はとうに破れている。変わり果てた姿のスピカに、あなたが戻るまでは折れぬと真摯に呼ばれて、たまらず涙がこぼれた。


「いやだ、スピカ、飛んで! 飛びなさい!」


 カラディンの首飾りが血でぬめる。尖った部分で兵士の横っ面を張り飛ばし、肘を入れ、股間を蹴り上げたが多勢に無勢、取り押さえられて身動きができなくなる。


「たいそう忠に篤い生き物なのですね、竜は」


 飄々と現れたカラディンが首飾りを奪ってゆく。スピカがまたも咆哮した。川べりの戦場で魔法を放ち、ナターシュを捕らえた男への憤怒と呪詛だった。


「おお、こわいこわい。一頭でこのありさまですか」


 カラディンに気を取られているスピカの目に投げ槍が突き立った。平時ならば決して、槍ごときに遅れはとらなかっただろう。けれども彼女はエリザベスの城から全力で飛び、衛兵と大立ち回りを演じたのだ。満身創痍、もう飛べぬと破れた翼が語っている。

 もとより竜は、その見かけに反して強靱な生き物ではない。空を飛ぶために骨格は軽く脆い。筋肉は発達して硬質の鱗を持つが、消化のための複雑な器官を持たないせいでよく煮込んだ粥やすり下ろした果物など、病人食に近いものしか食べられず、体力、持久力は馬と変わらない。飛ぶためだけの生き物なのだ、竜は。

 これまでずっとシャナハを慕い、息抜きに付き合ってくれた友は、初めて爪と牙を傷つける手段として積極的に用い、そうまでして帰らぬあるじを求めた。


「離して、帰して!」


 涙でスピカがよく見えない。無造作に彼女に歩み寄ったカラディンが首飾りを掲げるのと、伸び上がったスピカがその右腕に食らいつくのが同時だった。

 スピカ。

 気性の穏やかな可愛い竜。もうひとりの姉妹。

 血肉に染まった彼女のあぎとから白い光がこぼれて、真昼よりも明るく前庭を染め上げた。

 光が収まったときには、黒い塊がぶすぶすと煙を立ち上らせていて、右腕を失ったカラディンが血だまりに昏倒し、胸の悪くなるような肉の焦げる臭いだけが漂っていた。

 動揺する兵らをはね除け、物言わぬ骸に触れると、音もなく指先の皮膚が水膨れた。室内履きも熱に歪み、落ちた涙はすぐさま白く立ち上る。


「おお、姫君! ご無事か!」


 遅まきながら鎧兜を身につけてご出陣あそばした王子殿下の声に、応える者はない。

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