七 雨氷の野に眠る(2)

 夫や故郷に無事を伝えたいと申し出ると、案ずるなと一笑されて話が終わった。当然のことだ。外との連絡手段がないことにやきもきするが、人質の日々は想像していたほど悪くはなかった。

 敷地内であれば単独での行動が許されたし、屋敷の誰に話しかけようともお咎めはなかった。北王国のことを学びたいと申し出れば、何を勘違いしたのか、エドワルドは城下の図書館に出入りを許す旨を上機嫌でしたためてくれた上に、護衛兼監視として、カラディン配下の魔法使いをつけてくれた。

 知識欲の塊であるところの魔法使いたちはこの仕事をことのほか喜び、率先して図書館に同行したがった。彼らは総じて政治に興味がなく、ナターシュがどこの誰であろうと、褐色の肌であろうと、細やかな意思疎通ができなかろうと気にしなかった。図書館に着くなり自らの読書に没頭してしまうので、こっそり抜け出して街を散歩したり、北王国語の手習いをしたり、商店を見て回ったりして過ごした。

 奥方には疎ましげに睨まれたが、ほどなく徹底した無関心に変わった。嫌がらせをされるでもなく、嫌味を言われるでもない。幼い頃の暮らしが思い出されてしくりと痛んだが、礼を尽くしておくだけで波風が立たぬなら楽なものだ。

 そうして、半月ほどが瞬く間に過ぎた。


『早いとこ何とかしないと、お腹膨らまないじゃない。それでなくとも、魔法で調べられたりしたら何か変だってわかるかもしれないし。そうなったら終わりだよ』

「そうだね……時間が経てば、また義姉上と小競り合いが始まるかもしれないし……あ、もう生まれてるかな」

『こういう大変なときにこそ、大変なことが重なるものだからねえ』


 ナターシュの過眠体質は侍女らやエドワルドの知るところになっており、軽めの夕食を食べた後は湯浴みの日以外は一人で過ごすことができた。つまり、シャナハとじっくり話すことができた。

 エリザベスの屋敷にいたのはほんのわずかのことで、彼女が領主として振る舞っている姿を見ることはついぞなかった。産み月であるから、誰かに政務を任せているのかもしれないが、どういった形態、制度で統治が行われているのか、国政との関わりなど、何もわからないままだ。屋敷の警備に当たっていた者が彼女の私兵であるのか、国から派遣されてきた者なのか、それとも傭兵なのか、それさえわからない。

 一方、この屋敷にいるのはエドワルドの私兵であるらしい。使用人たちも含め、主への忠誠は篤く、教育も行き届いており、かといってぎゅうぎゅうに締めつけているわけでもなさそうだ。こそりと覗いた洗濯場や厨房ではナターシュの存在に言及する者、夫が州境から帰ってきたと笑顔で話す者、エリザベスやほかの王侯貴族、魔法使いの噂話に花を咲かせる者らなど、表ではできない話が飛び交っている。

 ワスウォールはエリザベスの領地の近辺から王都にほど近い中原にかけての広大な土地で、領主どのは誰からも慕われていた。彼が次の王なら安心だとの声も聞こえる。

 というのは、色好みと名高い現王が各地にたねを残し、現在進行形の確執を招いたのに比べ、妻は正室一人きり、子は長子の姫の下に王子が二人と、至極「まっとうな」人物であるかららしい。


『そもそも、王の選び方からして変じゃない。いちばん強ければいいって、めちゃくちゃ野蛮だと思うんだけど。そんなにこの国って治安が悪いの? ぶん殴ったら勝ちなの?』

「それだと、最終的には王位を継いだら死ぬしかないじゃない。次の王はどうやって決まるんだろう。センセイに訊いておけばよかったね」


 力を蓄えた王子王女が、王宮へ殴り込むのか。まさかそんなことはあるまい。指名制か、はたまた投票か。


『王様が変われば、国も変わるだろうしねえ。ここに竜を持ち込む意味ってあるのかな』


 どうだろう、と返事をしたつもりだったが寝入ってしまったのでよく覚えていない。夢見は最悪で、何かから逃げている最中、エドワルドがファゴから落ちたが伸ばした手も届かず、何もできずにめそめそと泣いているといったもので、彼の不在に気弱になる己を恥じるばかりだった。彼もまた、ナターシュを夢に見ているだろうか。竜たちは、コーティは、双子は、変わりないだろうか。

 慣れぬ寒さのせいか肩が丸まって、そうして前屈みでいると気持ちが次第に弱ってくる。月のものが来て、大慌てで処置のための綿だの当て布だのを手配してもらっていると、当然ながら御典医がすっ飛んできた。

 初老の医師は生命感知の魔法とやらを施して、重々しく「御子は無事にござります」などと言うものだから、シャナハはげらげら笑っているし、温石だの薬湯だの腹帯だの、果てはまじないのための符や邪気を払う水晶玉や趣味の悪い壺が兄王子から差し入れられ、大仰な格好で絶対安静を仰せつかってしまった。


『この茶番、何とかなんないのかなー』

「お腹が膨らまないって不審に思われるまでは、終わらないんじゃない」


 主の王女、王子らの許嫁になることが定められた子を流したとあっては首が飛ぶ。誰もがナターシュを遠ざけ、気安かった魔法使いたちも何かと理由をつけて見舞いを断った。

 唯一、そのような事情に頓着しなかったのが屋敷の魔法使いらを束ねるカラディンで、仕方なく彼に図書館までのお使いを頼むことになった。


「いやいや、勉強熱心なことです。感心感心」


 などとちっとも感心していない口振りながら、歴史や地理、法律や政治、経済の教本を借り出して来てくれる。お使いの代償として彼は竜魔法について知りたがったので、体を温めるだとか安産だとか曰くのついた薬草茶をちびちび啜りながら、当たり障りのなさそうな部分だけをかいつまんで話すことになった。

 とはいえ、ナターシュとシャナハも、竜の魔法について体系だった知識を持っているわけではない。起源や発祥、誰が行使できるのか、どんな原理で発動するか、分類や管理は誰がどのように行っているか、訓練方法は確立されているか、教本はあるか、上達のためには何をすべきか。矢継ぎ早な問いかけのほとんどに、まともに答えられなかった。


「つまり、何です」


 カラディンはほつれ毛を耳にかけ、じろりとナターシュを睨んだ。彼はいつも長い髪を束ね、不可思議な装飾が施された重そうな首飾りをかけている。首飾りには横に長い楕円の白い石がはめ込まれていて、目にしか見えない。とてつもなく気味が悪かった。


「何もかもが行き当たりばったり、誰がどんな素質を有するのか誰も把握しておらず、魔法使いの教育機関もなく、どうにかして会得した者だけが竜魔法使いを名乗れると?」

「はあ……まあ、そうです」


 石の目がてらてらと光った。ひえー、とシャナハが縮こまる。魔力を帯びた石なのかも、とちらりと思った。


「素質のある者をきちんと見いだし、教育し、魔法の使い手をきちんと育てないと、いつかは途絶えてしまうではないですか。古くから伝わる術が失われても構わぬと仰るか」


 なぜ怒られねばならないのだ、と苛々する。話を受け流すくらいの社交術は持ち合わせているが、それも癪だ。


「誰もそんなふうには思っていませんが、我が国における竜魔法はカラディン殿が仰る、学問のいち系統といった立場ではなくて、もっと神秘を纏ったものです。竜の魔法は始祖竜からの授かりもの。神秘を明らかにしてゆくのは我々の祖先とされる始祖竜に迫るに等しく、畏れ多いことだと考えられてきたのです」


「始祖竜とは、そちらの神話で言う神の国の門番ですね。それは竜ですか、ヒトですか」

「えっ? 竜ですが……」


 この目で見たことはないが、鱗が授けられたのだから竜だろう。そう疑いもなく信じていたから、始祖竜が竜かヒトかと問われることには強い戸惑いがある。しかし、彼はさもおかしな冗談を聞いたかのように大笑した。


「竜からヒトが生まれるものですか。始祖竜はヒトですよ。あるいは、神話に登場する竜と、姫君らが言う始祖竜は別物です」

「ずいぶん軽々しく断じられますね」


 竜の民は神を敬い信ずる心は強くないが、始祖竜を心の拠り所にしている。信仰の対象ではなく、今ここにある存在として畏れ尊び、竜を愛してきた。

 何より、始祖竜の鱗を得てナターシュとシャナハは長らえている。始祖竜を軽んじ、おのれの価値観ではかろうとするカラディンの言葉は、王家だけでなく、国そのものへの侮辱だ。ことさらに祀りあげる風習がないとはいえ、親しむ竜の謂われを否定されて笑っていられるほど、我慢強くはない。


「あれ、お怒りですか。だって、おかしいでしょう。竜とヒトは交われるのですか? 竜は卵生でしょう? 竜が祖先だなんて、考えられません。それとも確たる証拠があるのですか。文献や壁画……何だって構いませんけれど、竜からヒトが生まれたという記録が」

「それは……」

「そりゃあそうでしょう。おおかた、西の島に渡って竜と共に暮らすようになった人々を特別視した後付けの創作ですよ。そんなに怒らないでください、どこの国の支配者だって、身に流れる血は民草と同じものですよ。だから子が生まれるんじゃないですか。なのにどうして竜の国の王家だけ竜の血が流れているとお考えなのです」


 カラディンは表情を変えてさえいなかった。やりこめたといった優越はかけらもなく、物わかりの悪い子どもに教え諭している、ただそれだけだった。

 腰にある竜の鱗を見れば、彼も考えを改めるだろうか。しかしこの場で服を脱ぐのも抵抗があるし、鱗とシャナハの存在が関連していると感づかれるのも避けたかった。馬鹿にするなと喉に引っかかる言葉をどうにか飲み込む。


『まあ、この人がどう思ってるかはどうだっていいじゃない。こっちの魔法教育のこととか、訊いてみようよ』


 シャナハの冷静さに助けられた。


「竜の国はこちらほど先進的な考え方をしておりませんから……それはそうと、魔法院のかたはどうやって魔法使いを見分けて専門の教育を施すのですか? 素質の有無は生来のものなのでしょうか」


 露骨な話題の変更を、カラディンが気にした様子はなかった。知識を披露するのが楽しくて仕方がないといったふうに身を乗り出す。


「そう、親が魔法使いであるか否かに関わりなく、素質のある子は生まれてきます。ですから、我々は医師や産婆、薬草を扱う店などに声をかけて、出産があった家を教えてもらうようにしています。魔法使いかどうかは簡単な魔法ですぐにわかることですから、少しばかりの祝い金と襁褓おしめの一束でも持って出向けば、断られることはほとんどありません。魔法使いは国の財産です。ですから素質ある者は魔法院に招かれ、無償で教育の機会が与えられ、雇用されます。私もそこからの出向なのですがね。こうして各地の領主のもとで執務を手伝ったり、記録を取ったりしているのですよ」


 王宮だろうが貧民街だろうが、魔法使いはどこへでも出向いて次世代の魔法使いを捜す。一人の魔法使いが戦士五人の役割を果たすと言われていて、熟練の魔法使いならば戦士十人、百人、一軍を相手にしても剣を錆びつかせ馬を萎えさせ、怯むことはないとか。矢を防ぎ味方の士気を上げる、誰よりも頼もしい味方となる。魔法使いを抱く軍どうしがぶつかれば、いかに敵軍の魔法使いを攻略し、自軍の魔法使いを守るかという戦いになるそうだが、それも仕方のない話である。


『敵軍、自軍って言っても、領地争いでしょ? 同じ国の人じゃないの』

「領主たちが争うことで魔法使いが消耗することについては、お咎めはないのですか。国の財産なのでしょう」

「はは、なかなか鋭いことを仰る。その通りですよ。私ども魔法院は現状を憂いております。王族が玉座を賭けて潰し合いをするのは勝手になさればよろしいが、我々を巻き込むのは止めていただきたい。現王が見境なく蒔いた種の後始末に貴重な魔法使いの命が失われるなど、あってはならないことです。汚らわしい」


 お察しします。口を挟むのも躊躇われ、ナターシュは茶に手を伸ばした。カラディンはバター茶を嫌っていて、独自の割合で配合したご自慢の薬草茶を持ち込んでいた。何をどれだけ混ぜたのか、虫除けの練り香に似た青くさい匂いが食欲を削いでゆく。


「魔法使いはどのくらいの数が?」

「魔法院に登録されているのは三千といったところですね。未登録の、見習いや子どもを加えると倍ほどでしょうか。ばらつきがありますが、五十~百人に一人が魔法使いの素質を持って生まれます。……ご心配は無用ですよ。三千と言っても、それぞれ得意な魔法の系統は違いますから。攻撃の術に長けた者はその中でも一握りです。とてもではないですが、魔法使いの軍を組織して諸外国を攻めるには足りません」

「攻めずとも……例えば南側の山脈に道を通すとか、一部を切り崩すとかだけで力の誇示になりましょう。自然までも思うままにできる魔法使いを、すすんで敵に回そうとする国があるでしょうか。南の国にはそれほど魔法使いがいませんし」

「そこですよ。よくおわかりになっておられる。武装平和でいいのです。何も人員と莫大な費用を消費して占領統治などせずとも、力を有していると誇示すればよい。まともな頭脳を適切に用いれば、試算で勝敗は決しましょう。領主がたが足の引っ張り合いをするのはまるきり無駄ですよ。譲れるところとそのための条件をそれぞれ提示して、話し合いで解決するべきところです。……まあ、誰が間に立つかといった問題は残りますがね。それこそ国外から完全に中立の者を招かないと、癒着だとか難癖をつける者が必ず現れます。新たな火種にもなりかねませんし」


 領主の争いは無駄だと吐き捨てながらも第一王子の屋敷に住まい、こうして己を捕らえた魔法使いの真意がどこにあるのか、ナターシュにはわからない。しかし、北王国にも無用な争いは避けるべきだと考える人々がいることは何らかの希望に思えた。

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