七 雨氷の野に眠る(1)

 目覚めは悪くなかった。見慣れぬ天蓋つきの寝台に滑らかな絹の寝具、清潔な寝間着。魔法を使うために切った腕には包帯が巻かれていた。

 部屋は絵に描いたようなお姫様のお部屋、といったおもむきで、少女趣味の壁紙や猫足の調度に身が縮む思いだった。大きな窓があるのが救いだ。

 ほどなくシャナハも目を覚まして、体におかしなところはないみたい、と言った。彼女がうっすらと魔法を感知できるらしいのが救いだが、精度も範囲も未知数だ。むやみに動くのは危険だろう、と部屋中を見回し、寝台を下りて窓の外を覗いた。

 白い石組みが優美な城の三階だった。エリザベスの城よりもさらに大きく、玄関前の噴水を抱き込む形で両翼が伸びている。ナターシュのいる部屋は噴水に向かって右、腕に例えるならば肘のあたりに位置していた。

 館の前庭は高山地帯ナッシアの集落がまるまる入ってしまうのではと思えるほど広く、館を訪れた客人がそぞろ歩きを楽しむのだろう、植え込みや花壇が整えられ、それらを楽しめるよう東屋があった。池から引かれた水路が庭園を縫って走っていた。厩は裏手なのか、人馬の姿はない。庭師だけがまばらに散って、職務に勤しんでいた。


『義兄上のお城かな?』

「地図が欲しいね。……エドワルドさま、無事に逃げおおせたと思う?」

『セトとハルトが何とかしたんじゃない? ファゴだって魔法が効いてたし。下りてからのことはわからないけど』

「荒れてないといいな……下手したね」


 全員で一目散に逃げていたら、どうだっただろう。魔法の矢を避けきれただろうか。仮にも王女である自分が体を張らずとも、護衛のハルトがしんがりをつとめ、魔法使いを攪乱すべきだったのではないか。

 後悔でも反省でもない渦に飲み込まれそうになり、慌てて振り払う。捕虜にはありえないこの待遇が示すのは、ナターシュの身元がおおよそ割れている、ということである。褐色の肌は南方系、そして竜に騎乗していたのだから、世間知らずの馬鹿でなければ、少なくともどこの国の者かは知れよう。

 ここにいるのが自分でなくハルトだったならば、こうはゆくまい。想い合っているコーティにも双子のセトにも申し訳が立たないから、彼は無事に帰してやりたかったのだ。捕虜になるなら利用価値のある自分一人、そのことについては正しい判断をしたと思う。軽率を否定できるものではないが。

 広大な陸地と険しい山脈に阻まれているがゆえに、竜の国と北王国との関係にすぐさま変化が起こるとは考えにくいが、エリザベスとの摩擦は火を生じんばかりになるだろう。いや、もう生じているのか。


『あたしたちが誰だか知られてるって考えた方が良さそうだね。海峡群島か、義姉上のところに内通者がいるってことかな。まさか竜の国には誰も来てないよね?』

「義姉上のところは可能性が高いよ。ずっと小競り合いを続けてたって言うなら、義姉上だって間諜を送ってるだろうし」

『だよねえ』


 こんなとき、シャナハがいてくれて良かったと思う。どことも知れぬ場所で一人きり、不安に飲み込まれずに済む。確たる答えが導けずとも、話し相手がいるだけで心強く、塞ぎ込み、鬱々とすることは避けられた。


『でも、こんな扱いってことは、すぐさま酷い目に遭わされるわけじゃないよね。うまくすればきっと逃げ出せるよ。もしかしたら義姉上から譲歩……はないか』

「ないねえ、きっと」


 出産を控えたエリザベスは面倒を避けるだろう。エドワルドはどうするだろう? まさか一人で群島に帰ってしまうことはなかろうが、彼の立場では姉に対しては強く出られまい。助力を断られれば涙をのんで受け入れるのみだ。手勢も借りられぬ以上、単騎でやって来るはずもない。


『頼れるのはナターシュだけだよ』

「そうだね」


 寝台に戻って膝を抱え、丸くなった。ふたり揃っているけれども、かつてのように互いを抱きしめられなくなってからは、代わりにこうして自分を抱く。そういえば、竜の島を出てから初めてだ。エドワルドが隣にいれば、いつだって抱きしめてくれたし、くすぐったい口づけを与えてもらえた。触れたいときに触れ、不安を打ち明けることができた。

 会えなくて寂しいのももちろんあるが、それよりも、考えられる限りの手を打ちながらむざむざと敵の手に落ちた己が呪わしい。だが、裏を返せばこれ以上ない好機とも考えられる。少なくとも、義兄はナターシュを殺さなかった。手段が乱暴であることさえ問わなければ、好待遇で迎えてくれているのだ。対話の余地はある。

 これまでの印象では、義兄はエリザベスよりもずっとわかりやすい人物だ。話が通じる、とまでは思わないが、双方の意見を聞くことも大切だと、自らを納得させた。


『誰か来た』


 シャナハの声に背筋を伸ばす。間もなく、控えめに扉が叩かれて、お仕着せ姿の侍女が入ってきた。


「まあ、お目覚めでしたか」


 北王国語だ。声音に含みはなく、発音は明瞭で、聞き取りやすい。白い肌で、茶色の髪を頭の上で束ねていた。年の頃は二十過ぎ、コーティよりは年長に見える。


「はい。お伺いしたいのですが、こちらはどなたのお住まいでしょうか」


 彼女はナターシュが北王国語を話したことに驚いた様子で、しかし姿勢を正して一礼した。


「こちらは第一王子エドワルド様のお城で、土地の名はワスウォールと申します。お目覚めでしたら医者と主を呼ぶよう、仰せつかっております。お召し替えのお手伝いをいたします、姫君」

『やっぱりばれてるっぽいね。どこから伝わったのかな……』


 ふと思い立って、ナターシュは両腕で身をかばう仕草をした。


「滅相もない、わたしは着替えを手伝っていただくほどの身分ではございませんし、姫君なんてとんでもないことです。着替えをいただけましたら自分でいたしますので、お気遣いは無用です」


 どれほど伝わったのかはわからないが、侍女の目元が緩んだ。身分の貴賤ではなく、年下の娘を慮る眼差しに、少しだけ警戒を解く。


「ご安心ください。我が主は女人に無体をはたらく外道ではございません。太陽のように明るく、勇ましいお方です。お隠しにならずとも良いのですよ、竜の国の姫君」

「その、竜の国の姫というのは、誰が言い始めたのでしょう。わたくしは決して……」


 ばん、と騒々しい音をたてて扉が開いた。無遠慮に踏み込んできたのはくだんの魔法使いだ。屋内なのに蓑虫めいた焦げ茶色の長衣を着込んで、指先さえ見えない。長髪と痩身も相まって、どことなくマリウスを思い出させた。


「茶番は止してください、姫。これはわが国の歴史における転換点となりえる事態なのですよ。殿下が待ちくたびれています、早く支度を」

「あなたは……」


 魔法使いははたと動きを止め、改まって仰々しい礼を取った。


「カラディンにございます。魔法院では魔法体系学を専門としております」

『まほういん? 学校みたいなものかな』


 カラディンと名乗った魔法使いは言葉を切り、薄い唇をつり上げた。


「竜の国には、竜魔法と呼ばれる独自の魔法が存在するとか。殿下とのお話が済みましたら、ぜひご教授いただきたいものです」


 顔に貼りつけた愛想笑いが強張るのがわかった。南と行き来のないこの領地で、竜の魔法を知る者がいるなんて。


「そんなに驚くこともないでしょう。北王国にも歴史を学ぶ者はたくさんいるのですよ。南大陸とは神話からして違いますし、我々の地図にない島が、実際にはちゃんとあるというではないですか。そんな齟齬がいかにして生まれたのか、興味深いでしょう? ああ、南大陸の書物はエリザベス様の領地に入ったものの訳本、写本が出回るのですよ。自分の興味のある本を輸入しようと思えば、戦備えほどかかりますけれどね、写本ならまあ、その半分程度で済みます。実際に支払いをするのはエドワルド様ですが。私がそんな高給取りに見えます?」


 急げ、と言ったわりに、カラディンは饒舌だった。自分の得意分野と見るや調子が良くなるのはマリウスも同じで、彼とももうずいぶん長いこと会っていない気がした。竜の国を出て約ひと月、どうしているだろうか、復興は、竜たちの様子は、と心配事が次々に押し寄せてくる。順番だと、逸る心を宥めるしかなかった。

 侍女はカラディンを良く思っていないのか、胡乱げに睨んで部屋から追い出し、お召し替えをなさいますので、とぴしゃりと扉を閉ざしてしまった。

 用意されたドレスは薔薇を思わせる鮮やかな緋色で、怯む。着たことのない色だし、大胆な胸元の刳りも袖の膨らみもたっぷりした襞も、似合うとは思えなかった。


『軍服を着てた小娘にこれを寄越すなんて、なかなか攻めた感性ねえ』


 侍女の表情は薄く、似合うとも似合わないとも読めない。洗顔から化粧、着替えまでを彼女は淡々と、しかし無駄なく確実に終えた。髪飾りをピンで留めて位置を整えてから、彼女はようやく鏡に向かって頬を緩めた。


「お似合いですよ」


 鏡の中にいるのは、見たこともないほど妖艶なナターシュだった。目元は朱で縁取られ、唇は魚の腹のごとき銀。これはシャナハの方が似合うのではなかろうか、と弱気が先立つ。生花の他にも金銀の細工が施された髪飾りは兜よりも重くて、肩が凝るどころか、首が折れそうだ。


「では、こちらです」


 替わって、と興味もあらわに出てきたシャナハは、十数える間も保たなかった。


『これ、もしかして拷問器具じゃないの? 徐々に首に圧をかけて折るとかさあ!』


 あながち冗談にも思えないのがつらい。幸い、靴ははきやすい形のもので、何とか独力で歩けた。第一王子がお待ちかねの謁見の間は同じ階にあり、階段の上り下りがないのも助かった。


「やあ、姫。どうぞこちらへ」


 部屋に足を踏み入れるなり、義兄エドワルドは両腕を開いて朗らかに笑った。窓から差し込む光を背負って、淡色の上着が眩しい。


「エドワルド殿下でございますね。わたくしは竜の国が王女、ナターシュにございます」

「ああ、聞いている。どうぞ、かけて」


 彼のかける椅子の左手側、直角に置かれた椅子は座面が高くて落ち着かない。深く腰掛ければ足が浮く。彼の意図が読めぬ以上、咄嗟に動けない座り方は避けたかった。

 運ばれてきた茶には油膜が浮いていた。冷えから身を守るために濃い茶に乳とバターを入れるのだとか、酒だか茶だかわからぬ配合のものを飲むのだとか、センセイに教わっていなければ、手を伸ばせなかっただろう。実際に口にするのは初めてだったが、なるほど濃厚だ。口直しに水が欲しい、と不躾なことを思う。

「先日は驚いたよ。きみも驚いただろうが。手荒な真似をして済まなかったね。あやつカラディンは手加減を知らないのだ。叱っておいたが、どれほど伝わっているやら。医師は腕の傷も浅いし、異常はないと申しているが、どこか痛んだり変だったりはしないかね」


 兄王子はエリザベスやエドワルドに比べると眉が太く彫りが深い顔だちで、快活に笑う人だった。義姉とは違った意味で、壇上が似合いそうだ。もっとも、彼自身としては壇上よりも玉座、王冠なのであろうが。


「はい、どこも。お心遣い、痛み入ります」

「なら良かった」


 からりと兄王子は笑う。年の頃は四十ほどか。ダリンを思い出して、ふと心が揺らいだ。


「私のことはエリザベスからいろいろと聞いていようが、姫に危害を加えるために招いたわけではない。招待が野蛮であったことはお詫びしよう。妹が姫を招いたように、私にも竜の国と国を通ずる意思があるのだよ」

『エドワルドさまのことは何も言わないんだね。無視?』


 そういえばそうだ。それに、彼はナターシュを姫君、としか呼ばない。エリザベスは距離を詰めるためもあろうが、すぐに「義妹ぎみ」と言ったのに。


「我が国の風土を姫もご存じだろう。険しい山に囲まれ氷に覆われ、港に適していない。港を有するレイルの地は南との貿易で豊かだが、内陸の……特に西方はそうもいかん。南からの輸入品は海路と陸路を経てとんでもない通行税が上乗せされるゆえな。庶民には手が届かぬのはもちろんだが、それでも珍らかだと言って欲する者が絶えん。富の不均衡は広がるばかりだ。皆が豊かな東の地を目指して土地を捨て、西方は荒む一方。だが、竜があれば西方から南大陸への空路が拓ける。状況を一変させることもできよう」


 竜を荷馬車代わりに、とはたびたび打診される事柄だが、長距離の輸送に用いるには相当の訓練が必要だ。天候にも左右される。ナターシュとしては積極的には勧められないのだが、理想を語る兄王子の眼には正義が燃え、エリザベスのやり方によって生じた経済格差をよく思っていないことは理解できた。


『単に僻んでるだけじゃないの? 民のことを言い訳にしてさ』


 シャナハが口を尖らせる。

 竜を買いたいと言われても、高山地帯は今それどころではない。生活を立て直したら、まずはエドワルドに約束した飛竜を揃えねばならない。春の産卵期に向けて若い雌雄の様子を観察して、竜舎の環境を整えて。

 再び故郷に占められた思考に、兄王子の猫撫で声が割り込んだ。


「それでだ、姫の御子を、私どもに頂戴できぬだろうか、友好の証しとして。息子か娘の許嫁としよう。悪い話ではなかろう?」

「……御、子?」


 ぽかん、と口が開いた。頂戴も何も、純潔のままのこの身にいつ子が宿るのやらわかったものではないし、仮に子を授かったとして、その子をこの男のもとに人質に出すなど、とんでもない話だった。

 戸惑いをとりなすように、義兄の目尻が垂れた。唇に浮かぶ打算は脂でぬめっている。


「隠さずともよい。我が国の医師には魔法の心得がある者も少なくない。それでわかったのだが、いや、決して他意はないが、診察の一環として全身精査の魔法を使うのだよ。そうしたら生命の反応を感知したというわけでね」

『それ、あたしだよねえ』


 恐らくはそうだ。しかし、ここでシャナハの存在や竜の魔法の詳細を打ち明けるのはまずい気がする。利用価値があるから茶が振る舞われているのだと、忘れてはならない。


「おや、もしかしてまだご存じなかったのかな。エリザベスのところでもお加減が思わしくなかったと聞いているが」

『違うっての』


 彼の上機嫌は、ナターシュが子を宿していると勘違いしてのことだったのだ。縁戚関係とともに信頼を結ぶ外交術はありふれたものだし、実際ナターシュとエドワルドもそのために契ったのだが、腹の中の子まで交渉材料にされるのかと、気が遠くなった。


「返事は急がんが、もう間もなく冬を迎える。こちらの冬は姫が思っておられるよりずっと厳しいぞ。今すぐにでも妹のところに帰してやりたいが、大事な体ゆえ、無理を押して長旅をせずともよかろう。十月十日、こちらでゆるりと過ごされよ。足りぬものがあれば侍女に。すぐさま用意させよう」


 鉄壁の笑顔に隙はない。有無を言わせぬ迫力と強引さ、熱量がある。近づくだけで火傷しそうで、なるほど太陽とはうまく言ったものだと見当違いの賛辞が浮かんだ。

 何もかもを焼き尽くし、己の色で染め上げる。逆らう者に容赦はせず、恭順か死かの二択を突きつけ、強引に押し進めてゆく姿は、天を焦がす凶悪な太陽の喩えが似つかわしい。


『エドワルドさまとは似てるようで違う太陽だねえ』


 そうだ、夫エドワルドも夕陽を負い、炎の烈しさで竜の国を平らげに来たのだった。統治者の都合を押しつけはしたものの、野望と激情を民らに向けることはなく、人を重んじ、何を惜しむことなく手を差し伸べた。彼は温もりであり恵みであり慈しみだった。だからナターシュは肯んじたのだ。妻にと自ら望んだのだ。

 エリザベスのところで白の時間を迎えたことが伝わっているのであれば、やはり内通者があの城のどこか、あるいはごく近辺にいるのだろう。下働きの者がふと気を緩めてこぼしてしまうような、近所の商店や飲み屋などに。

 そうであればエドワルドとの婚姻の話が出ても良さそうなものだし、話の流れからして、腹の子の父も彼とみるのが筋だろうが、弟ぎみの名は出ない。仲が悪いのではなく、相手にされていないのかもしれないし、名前が同じだからこそ、というのはありえる。

 誰も彼も、欲深いことだ。ナターシュ自身も例外ではないけれど。


『まずは従順なふりをしておこうよ。いま暴れたって何ともならないし。この格好じゃ逃げるに逃げられない』


 もとより、そのつもりだ。北王国の第一王子の懐深くにいることは必ずしも悲劇を意味しない。


「ええ、それではご厄介になりますわ、エドワルド殿下。わたくしたちはもっと対話の必要がありそうですから。……ですが殿下、竜は賢いいきものです。主と認めぬ者には膝を折りませんし、絶対服従を誓わせる手段などございません。御しやすく見えたならば、それは竜の策でございます。喉笛に食らいつかれませんよう、ゆめゆめお気をつけくださいませ」

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