六 凍雲(4)
「驚いたよ、急に倒れるから」
「ご心配をおかけしました。人より長く眠りが必要な体質であるだけで、病ではございませんので」
ならよかった、とエリザベスは寝台の傍らで微笑んだ。嫌みはないが、何か企んでいると直感する。飛竜の披露を終え、食事をと案内されている途中で白の時間を迎えてから一日半。ついていてくれたコーティによると、エドワルドだけでなくセトとハルトまでも出立の準備をしているそうだ。どこへ? 戦場へ、だ。
「義姉上、わたくしもエドワルドとともに参ります。夫が前線に向かうのに、自分だけ安全なところにいるわけにはゆきません」
「決してよいものではないぞ、わかっているだろうが。……大事ないのかな」
「もちろんです。わたくしがおります方が、竜も落ち着きましょうから」
義姉は一昨日とは違ったかたちに結い上げた髪を揺らして首を傾げた。耳飾りも、首飾りも昨日のものとは違う。衣服は織物をゆったりと纏う形で、艶めいた夜を思わせる金糸銀糸の刺繍が袖や裾に施されていた。どこの地方の衣装なのか、着心地が良さそうではある。
一方のナターシュといえば、竜の国を出た時に着ていた軍服と、部屋着と寝間着を時間帯に応じて着回しているありさまで、エドワルドは南方風の衣服を呆れるほどに揃えてくれたのだが、エリザベスの前で着られるものはほとんどなく、作法から逸脱することを承知で、軍服姿でいた。楽だし動きやすいし、体に馴染んでいる。エリザベスの娘、小さな姫らには「どうして男の人みたいな格好なの。母上様のまねっこ?」と首を傾げられたが、竜に乗るためだと言うと納得してくれたようだった。彼女らもまた衣装持ちで、日ごとにお召し物が違うのはもちろん、一日のうちでも見るたびにドレスが変わっていることもざらだった。
豊かなのだ、と思う。その豊かさを、義兄エドワルドは疎ましくも妬ましくも思っているのだろう。
セトとハルトは若いが、従軍経験がある。飛竜を軍用にと望まれて兵を訓練した縁で、傭兵として戦場に立ったのだ。双子だけではなく、ダリンをはじめとする竜使いの多くが戦を経験している。当然ながらナターシュは参戦を許されなかったが、禍々しいものを背負い、目の光を失って帰還する竜使いらを見ては無力感に苛まれた。
幸い、竜の国が戦場となることはなかった。海を隔てて向かい合う大国ミジャーラが周辺国に睨みを利かせているからだ。その見返りとして国は飛竜を提供しており、ミジャーラは竜の国以外で唯一、百騎以上からなる竜の飛行部隊を有している。
他の国には百頭以上の輸出を行っても、兵士の育成が追いつかなかったり、愛玩用や伝令などの用途で使われたり、あるいは竜が死んでしまったりと、せいぜい五十騎程度の部隊が存在するのみだ。たかが五十騎といっても騎馬を相手にするなら、同数以上であっても確実に勝利できるし、同程度の規模の飛行部隊どうしが直接対決することも稀だった。
抑止力、とマグリッテは言う。飛竜を有していることが戦を封じる力になるのだと。だから私たちは竜を育て、売らねばならない。竜を制御できる力、竜の魔法を握って、各国の軍事力の均衡を考慮せねばならない。
叔母の考え方には違和感があった。ではどうすればよいのかと訊かれても答えられないが、各国に軍事用に訓練した竜を売ることが最善だとは思えない。
最善の手段などどこにもなくとも、探し求めたかった。だからナターシュはダリンに、双子に、他の竜使いに、詳細に戦の様子を尋ねた。戦の発端、戦場の地形、戦力差、武装、補給、馬の様子、竜の様子、兵の様子。
ここにはナターシュが戦場に立つのを阻む者はない。それだけに、負傷は何としても避けねばならなかった。いまだ竜の国と北王国に国交はなく、それなのに戦地に赴いた王女が傷を負ったとなれば大問題、国交どころではなく話が拗れてしまいかねない。
戦場の兵たち将軍たちに何を思われようと、エリザベスの名代として、エドワルドの妻として慰問し、彼らを鼓舞しなければならない。竜を圧倒する存在感で。
「わたくしは竜の血を持つ者。戦が避けようもないのであれば、立派につとめを果たして参ります」
エリザベスの紅い唇が弧を描いた。
「期待しているぞ、ナターシュ。勇敢な義妹よ。出立は明朝だ」
かくして、エリザベスはまんまと竜を戦場に送り込むことに成功した。立場上、誰もエリザベスを止めることはできず、それに不甲斐なさを覚えているエドワルドと、軍用としての竜を広めるのに積極的ではないナターシュの考えを知っている双子は、出発前だというのに揃って浮かない顔で、竜舎でくだを巻いていた。
「姫様、すみません。俺らがはしゃいで模擬戦なんかを披露してしまったせいで」
「エリザベス殿下は、人も馬も竜も等しく価値あるものだと仰ってくださったけど……それはきっと」
「大丈夫」
双子の泣き言を遮って、胸を張った。武具の採寸は昨日のうちに済ませて、すでに鎧兜が用意されている。恐らくは戦場の姫君として、出で立ちだけで現場の兵たちを激励せよとの計らいだ。流されてしまったことは不本意だが、義兄が海峡群島や竜の国の安寧を脅かす前に、ご尊顔のひとつも拝しておくべきかもしれない。
「背筋を伸ばして。遅すぎるなんてことはないから。エドワルドさまも」
大丈夫と言いはしたが、よい打開策があるわけではなかった。そんなものがあるのならば教えてほしいくらいで、正直に打ち明けると何もかも放り出して故郷に帰り、自分のあたたかな寝台で丸まって眠りたかった。シャナハとコーティと三人でおしゃべりして、この春に生まれた竜は鱗の艶が良いとか、この前のお茶の時間に出たパイが最高だったとか、そんな他愛もないことで笑いあっていたかった。
それを選んではならないのがナターシュとシャナハであり、エドワルドの言葉を借りるなら「血」なのだろう。
望んでのことではないにせよ、担ぎ出された以上は精一杯、道化てやる。自らを生かし永らえる始祖竜の血を信じて、スピカに鞍をつけた。我慢しかねたといった様子で噴き出したのはエドワルドで、何も言わずにファゴの首元を撫でている。
「さすが俺たちの姫様だ」
双子もいつしか調子を取り戻したようだった。スピカの出立の用意が調って、十分に水を与える。戦場となっている州境は北西、空路で二刻ほど。
「兄王子殿下は、竜をご覧になってどうお感じになるでしょう。圧倒されるでしょうか」
「圧倒はされるだろう。だがそこで終わる相手ではないだろうな。リズが竜を味方につけたなら己も、あるいはそれ以上の力をと考えるはずだ。例えば、竜の翼を射貫くほどの弩、魔法……それが難しければ間者を放って毒餌を混ぜ込むとか」
エドワルドの言葉に双子が揃って顔を歪める。シャナハも罵倒を止めない。それはそうだろう、手塩にかけて訓練し、友として暮らす竜が毒に苦しむなど想像に耐えない。
「自分が一番でないと気が済まないんだ。羨ましいと思われるのは構わないが、羨む側に回りたくないとか、そんな人だよ。正直、対処は難しくないんだが……リズは王位継承に絡んでるから突っかかってくるみたいで。リズが王位に興味を示さないから余計に腹立たしいんだろうな。あの人にとっては王位が第一なのに、それを足蹴にして平気な顔をしているものだから、自分まで馬鹿にされたって思うんだろう」
「面倒な方ですね」
「本当だよ」
ついこぼれた本音を、エドワルドは否定しなかった。双子もにやにや笑っている。誰もが関わりたくないと思っているのに、エリザベスから繋がる糸がそれを許してくれない。
「北王国の方々は、竜についてあまりご存じないでしょう。でも、見れば竜だとはわかる。空を一巡りして、すぐに陣に引き返します。兄王子殿下が竜のことを耳にする頃には、船に乗っているのが理想です。機敏に。セトとハルトは武器を置いて。交戦の意思はないことは示しておかなくては」
「お優しいことだ、ナターシュ」
いつの間にいたのか、皮肉げなエリザベスの声には甘さを詰り、世間知らずを嘲笑する響きがあった。あるいはそう感じるのは、義姉への不信感を拭いきれないからか。
「おまえの優しさが報われる世であれば良いが、特に戦場では命取りになろう、情けは禁物だ。高く飛べば矢は恐るるに足らんが、魔法はそうも言ってはいられまい」
「魔法は……そんなにも遠くまで届くのですか」
さて、と彼女は白々しく首を傾げている。
「少なくとも遠話の術は海峡群島から我が城まで届くな。攻撃のための炎や氷の魔法がそれほどまでとは聞いたことがないが」
顔を歪めたエドワルドが、はったりだ、気にするなと視線を寄越してくるが、実際に海峡群島からの連絡を受けてクーガーがやって来たのだ。距離が魔法を阻まなけれ
ば、空を飛ぶ有利はほぼない。竜が傷つけられれば、騎手の命までが危険だ。
「そう、精確に竜を狙わずとも、乗り手の手元が狂うとか、均衡を失うとか、それだけでも危うかろう。丸腰で臨めば攻撃されまいと断じるのはちと甘いな。聡明にして勇敢な義妹よ、私はおまえを失いたくないのだ」
「ご忠告、痛み入ります、義姉上。胸に留めておきましょう」
ナターシュがスピカに跨がると、エリザベスは素直に退いた。構わずに舞い上がる。海風のにおいもべたつきも、もう気にならない。
スピカは一気と高度を上げた。空はいつだって自由だ。何もない、だから身ひとつでいられる。解放感も責任も、自分だけのもの。
空を飛ぶことに意味を求められ、意義を負わされ、政治利用される。嫌だ、と本能が叫び声をあげるが、竜なくして祖国は立ちゆかない。こんなときどうすればいいのか、王族としてどうすべきなのか、誰も教えてはくれなかった。誰も教えてくれないことをひとりで考え、実行し、維持し続けてゆかねばならないのだとすれば、確かに王家の血筋など面倒なばかりかもしれない。
けれども、王の、始祖竜の血を持って生まれたからこそ、ナターシュもシャナハも生き永らえているのだ。エドワルドに出会い、求められたのだ。これ以上ない大恩である。投げ出すなどもってのほかだ。感謝し、次世代に引き継ごうと思う程度には真面目だった。
『あたしたちが何とかできるといいねえ』
「まずは生きて帰らなきゃ。魔法を頼むかも」
『任せて』
スピカを追ってファゴがぐんぐん高度を上げてくる。双子に前後を挟まれるかたちで北上した。
領土の境は東西に流れる川で、北大陸の東岸で海に注ぐ。川幅、水深ともに大河と呼ぶほどではなく、河原に陣を展開すれば対岸からの矢が届いてしまう。陣を布くべき位置は長年の小競り合いの間に蓄えられた経験と知恵から検討されたそうで、それだけでも呆れる話だが、あまりにも頻繁に小競り合いが起きるので、借り出される兵たちにも緊張感が欠けていて、と薄ら笑いを浮かべてエリザベスが語るものだから、ナターシュはちっとも身が入らない。
『上の人たちだけが騒ぎ立ててるやつじゃないの、もしかして』
「義兄上に示威って言っても、当人がいないかもね」
『だよねえ。兵たちが可哀想。何のために陣地にいるんだろ。みんな家族だってあるだろうに』
遠目にも、川には所々に橋が架けられているのが見て取れる。平時には民たちが行き来している証しだった。川に沿って人馬が並んでいるが、戦というにはどうにもお粗末で、守るにも攻めるにも中途半端な数しかいない。両陣営ともに、動きはなかった。
先頭を飛ぶハルトが手信号を発する。
――自陣、敵陣ともに兵は三十ほど、馬はその半分。目立った動きはなし。
川の
セトを下ろして司令官どのへ挨拶に向かわせ、エドワルドとハルトを連れてそこいらを飛んで見せれば良いだろう。竜の国の戦術で、少数の竜を後方に控えておくのはお決まりのやり方だった。
不測の事態に陥ったときは、それらの竜で挽回を図るのだ。竜の魔法を用いて凶暴化させたり、陽動に用いて捕虜を救出したりと、使いでのある反面、危険も大きいので、控えの竜を使うことは下策とされているが、大した策も勝算もなしに全ての竜を敵陣に投入しないのは当然とも言える。
――敵陣に動きあり。竜を認めた模様。
――では下で控えよ。
――了解。
セトが隊列を離れる。その頃にはエリザベスの兵たちもこちらを認めており、指さしたり、天を振り仰いだりする者も多かった。慌てふためいているのは当然ながら川向こうの王子軍である。
『何だかざわざわする。気をつけて』
「うん」
雲よりも高く飛べば安全だろうが、脅威と印象づけることもできない。かといって魔法で狙われるのも願い下げだ。魔法使いはそれほど一般的な存在ではないようだが、この貧相な軍にもいるのだろうか。
手の届かぬ上空からの攻撃に加え、機動力が飛竜の強みである。騎兵や歩兵との連携も重要で、例えば空に注意を引きつけておいて側面を叩くとか、霧や曇天、夕暮れや夜明け前の奇襲、補給線の分断など、少数ならではの運用が求められる。相手方の飛竜部隊を牽制、迎撃するのでない限り、気軽に戦場の空を飛んで良いものではなかった。特に魔法使いが存在するのであれば。
王子軍も、川岸からやや離れた小高い丘を背に兵を並べている。丘のてっぺんの小屋が指揮所であるらしい。こちらを指さして慌てふためく兵たちを御せる者はいないようだった。川を渡る。
エドワルドがついてきているのを確認して、ナターシュは高度を落とした。ようやく放たれた矢ははるか下方を頂点に、向きを変えて落ちていく。指揮所は来客中らしい。一目で駿馬とわかる立派な栗毛馬が繋がれ、草を食んでいた。馬車馬らしき四頭はちらと空を仰いだきり、興味を失った様子で地面をつついている。
箱車はずいぶん立派だった。乗合馬車ほどは大きくないが、貴人が乗るつくりだ。窓を覆うためのカーテンまで見える。
『ねえ、もしかしてさ、もしかするんじゃない?』
「ありえるよ」
大きく旋回し、指揮所の裏手に回る。と、扉が開いて男が姿を見せた。たっぷりした白地のマント、装飾品はどれもまばゆく輝いて、前線には似つかわしくない。エリザベスと同じ金髪の男が天を仰ぎ、竜を指さす。
『エドワルドだね』
「きっと」
王子に続いて姿を現した細い人影が、男の指の先を追って竜を見上げた。中途半端に挙げた手がきらりと光るのは指輪だろうか。
『あいつ、嫌な感じがする。替わって!』
表に出たシャナハは腕を伸ばし、スピカの鱗に滑らせて命じた。
「すぐにセトのところに戻りなさい!」
竜が魔法の影響を受けたことを察したハルトが、エドワルドを守るべくファゴの斜め後方についた。戸惑った様子で何度も振り返るエドワルドへの説明は下りてからになるだろう。スピカは落ち着いて、飛来した光の矢を躱した。
「やっぱり、魔法使いだ!」
『無理しないで』
「エドワルドさまが飛ぶ時間を稼ぐだけ!」
スピカの手綱を軽く引く。彼女は承知していると言わんばかりに力強く翼で空を叩き、ふわりと舞い上がったかと思うと首を下げて急降下に入った。耳元で風が唸り、ばちばちと弾ける音を残して光の矢がすぐそばを掠めてゆく。
いくぶんかは魔法で支えているが、初めて目にする魔法を前にしても怯まぬスピカが頼もしい。螺旋を描いて高度を下げてゆく。魔法の矢が飛んでくるたびに彼女は細かく軌道を変え、動きを読ませぬよう気を配った。
魔法使いは細身の若い男だった。砂色の長い髪を後ろでゆるく束ねている。表情に焦りや恐怖はなく、むしろ楽しそうに見えた。
彼に守られる格好の兄王子は豪奢な礼装、左腰に儀礼用の宝剣を吊っている。顔だちはエリザベスに似たところはあるが、夫エドワルドとは翠の眼以外はちっとも似ていない。彼は魔法使いとは異なり、竜に怯えをあらわにしている。
『本当にやばい人かも。シャナハ、逃げよう』
表情がはっきり見えるほど降下して、シャナハは姉の判断通りに手綱を緩める。スピカの羽ばたきで人々がよろめき、馬が嘶いた。
ふと、背中が総毛立った。
スピカに命じる前に、ぐい、と体が後ろに引っ張られる。
「なっ……」
何かに引っかかったのかと思ったが、大木があるわけでもなく、視界は開けている。見えない網のようなものに絡め取られ、引きずりおろされようとしているのだった。網が全身を締めつけて、吐き気がせり上がってくる。スピカがあるじの異変に気づいて高く鳴いた。川を渡りきろうとしていたエドワルドの赤毛が閃く。腕が動いて、ファゴの首を返そうとしているのがわかった。だめだ、戻ってきてはいけない。
魔法だ、と直感が囁き、その直感はスピカを逃がすことを優先した。
鞍に手をついて後ろへ飛ぶ。鐙から足が抜けて宙に放り出された体を、またしても魔法の網が絞めた。苦鳴とともに脂汗が浮く。
できればこのまま地面に叩きつけられるのは避けたい。スピカは振り返らずに全速力で戦場を離脱しようとしている。このまま逃げてくれれば、少なくとも竜が兄王子の手に渡ることは避けられる。
『あとは自分の身をどう守るか、か』
ナターシュの言葉にもわずかな安堵が滲むが、当然ながら危機的状況であることには変わりがない。まずはこれを解いてもらわないと、と身を捩っていると、轟音が意識をまっぷたつに引き裂いた。
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