六 凍雲(3)

「……竜を連れて?」

「もちろんだ」

「僭越ながら、そんなことをなさるから、兄上様を刺激するのでは」


 エドワルドがぎょっとしたふうに目を見開き、同じ色の目をエリザベスは細めた。さもおかしそうに膝を打って笑う。


「そういうことだよ、西の国の義妹いもうとぎみ。わかってはいるのだけれどね、剣を喉元に突きつけて睨み合っている状態で、率先して武装を解けるかい? 刺されぬ義理も保証もない戦場で、私は兵に武器を下ろせと命じることはできないな。臆病と笑われようと、強突く張りと罵られようと、私には兵らの命を守る義務がある」


 それに、と彼女は黒いものをつまんで口に放り込んだ。南大陸のチョコレートだ。妖しく光る目には紛れもない、恫喝の色が浮かんでいる。鮮やかな紅を乗せた唇は弧を描き、声なき余裕を歌い上げていた。


「そちらが我々にのみ竜を売れば、兄が同じ武力を手にすることはない。もちろん、義妹ぎみの国は生命を賭して守ると約束しよう。あの悪魔どもの手から平穏を勝ち取ろうではないか――共にね」


 安易に返事をしてはならない、と警告が閃く。竜の国はエドワルドからの援助の対価として飛竜を売ることを約束した。しかしエリザベスへはどうだろう。北王国の王位継承争いを持ち帰るだけの見返りはあるだろうか。

 彼女がずいぶんな切れ者であることは承知している。勝ちに行くのではなく、負けぬことを前提とした守りと待ちの姿勢は強固だ。第一王子エドワルドが、エリザベスを倒すべく飛竜を求める可能性はあるだろうか? 海を越えて竜の国まで押し寄せる可能性は?


『兄王子は王都近辺の内陸の領主だから、港を持ってない。港を欲したところで、義姉上がもうとっくに手段を講じてるはず。海沿いの山脈を越えてでも来ない限り、兄王子は竜の国の脅威じゃない。義姉上の言葉をそのまま受け止めちゃだめだ』


 シャナハのもっともな言葉に軽く頷く。その通りだ。譲りすぎてはならない。


「まあ義姉上、せっかちが過ぎますわ。それに、少し思い違いをされているご様子。竜はただの獣ではございません。かれらにも意思があり、知性がございます。意思の疎通が叶ったと思うのは傲慢ですし、恭順に胡座をかき獰猛さを忘れれば、たちまち喉笛を食い破られることでしょう。孤高の竜を侮られますな」


 黙ってじっと聞いていたエリザベスはチョコレートで汚れた指を舐めた。赤い舌が妖艶に蠢く。

 エドワルドは彼女のことを王族としては致命的に怠惰で貪欲と評したが、それもすべて計算ずくのことに思えた。王として君臨すること、いち領主でいること、何もかもを天秤にかけて、最小の労力で最大の実りを得られるよう、細かく計算と検討を行っているのだと。

 実りとはつまり、名声であったり、何不自由ない暮らしであったり、不安のない生活であったりだ。それを怠惰と呼ぶのであれば違いなかろうが、堕落のすえの怠惰でないことだけは確かだ。

 玉座と王冠を欲するあまり、早々と脅威を平らげようとする性急で直情的な兄王子エドワルドの方がいくらか御しやすく思える。


「そう怖い顔をしないでおくれ、ナターシュ。血のつながりこそないが、我々は姉妹だ。仲良くしようではないか。疲れているところを呼び立ててすまないね、今日はここまでにしようか」

「お心配り、有り難う存じます、義姉上。叶いますならば竜の調子を見に行きたいのですが……」

「構わんよ。それなら私も行こう。少しは歩けと、医師がうるさくてね」


 またも大儀そうにエリザベスが起き上がるのにエドワルドが手を貸した。産み月とあって腹こそまるく膨らんでいるが、肥満体型ではない。背筋はすっきりと伸び、露台や馬車や演台など、高いところに立つのが似合いそうだ。エドワルドと並ぶほどの長身で、普段からこうして男装しているのであればさぞかし似合うだろう。

 産み月ともなれば母体も多少はふっくらするものだとナターシュは想像していたが、この体型を維持するには相当な自制が必要なのではないだろうか。領主としての印象を保つことが重要だと言うならばやはり、怠惰などではない。

 エリザベスに合わせてゆっくりと階段を下り、フェルドの案内で厩舎へと移動する。普段は使われていない厩舎を竜のために空けてくれたようで、セトとハルトがついているからか、竜たちは渋々ながらも大人しくしていた。

 エドワルドの騎乗を認めてからというもの、ファゴは以前とは比べものにならないほど落ち着いており、暴れることも、竜舎の壁や柱に体をぶつけて怪我をすることも減っていて、姿を見せた一行に向けてしきりに歯ぎしりした。馬番は怯えていたが、威嚇ではなくて親愛を示しているのだと教えてやった。


「これが竜か。思っていたよりは小柄だな……馬よりもやや大きいくらいか」

「はい。翼を広げるともっと大きく見えますし、大きな個体もおりますが」

「夫と子どもたちを呼んでも構わないかな? 慣れぬ者に囲まれると負担だろうか」


 竜たちでなく、いつも陽気で好奇心と自信に満ちあふれたセトとハルトも疲労の色が濃い。日を改めてほしいと伝えると、彼女はあっさり引き下がった。

 翌日、どんよりと重い曇天に四騎が舞った。エリザベスの夫や子どもたちだけでなく、城の警備の者、馬番、洗濯女、庭師、小間使いの少年、フェルドまでが偶然通りかかったといったふうに表に出てきて空を見上げた。

 ナターシュは先頭を飛ぶ。助走や着陸の際に使える開けた場所がなく不安だったが、竜たちは厩舎の合間を縫って器用に宙に舞い上がった。後ろにエドワルドとセトがつき、最後尾をハルトが飛ぶ。

 久々の飛翔とあって、スピカは楽しげだった。あまり遠くへ行かぬよう気をつけるくらいで、彼女に任せる。ファゴも双子の竜も伸びやかに翼を打ち振るわせ、雲の底すれすれまで駆け上がり、翻って流星のごとく地に落ちてゆく。感心なことにファゴは飛翔に慣れていない騎手に配慮し、急降下は避けた。大きく円を描いて高度を下げて合流し、再びゆるやかに上昇する。ちらりと目を遣った先、エドワルドのおもてに表情はなく、必死で取り縋っているのが知れた。

 ファゴに合図を送り、並んで飛ぶ。双子が城の上空に残って急旋回や上昇下降の機動を披露した。二頭の竜がぴったり動きを揃えて縦横無尽に駆け回るさまは圧巻で、エドワルドまでがよそ見をしていた。陸側に飛ぶと不都合があるだろうと、海へ向かう。

 竜が飛べば遠くから存在が知れる。北王国に竜はおらず、だとすればエリザベスが南から連れてきたのだと誰しもが理解するだろう。何のために、と首を傾げたすえ、武力として、と結論する者も多いはずだ。愛玩用の大人しい竜もいるが、人々は諍いを好む。猛る竜を見れば荒事に用いるものだと思うに違いなかった。

 あまり大っぴらにしないほうがいいと考えてのことだが、女領主からの申し入れは何もなく、竜の存在を知らしめてよいものやら判断がつかない。後から「どういうつもりだ」などと言われても困るし、それを警戒するほどには疑い深くなった。

 北の神話において、竜は番犬の亜種でしかないと考えられている。一国の王室に連なるナターシュを前に竜を軽んじる者はいなかったが、それはここがエリザベスの城であるからであり、市井に暮らす人々がどう考えるかはまったく別の話だ。

 北方人は総じて白い肌で、褐色の肌は目立った。海峡群島には南北の混血も多く、肌の色はさまざまだったが、色白で線の細い北王国の人々の中にあって、南方系のナターシュはここが異国であることを強く意識した。使用人たちがそっと視線を寄越し、遠くで囁き交わすのを知った。言葉でのやり取りも完璧とは言えず、積極的に彼ら彼女らと関わらねばならないコーティはさぞかし気が重いだろう。

 領民からしてみれば、はるか海の彼方の領主エドワルドと、存在さえ曖昧な竜の国の王女の婚姻などまったく他人事であろう。ふたりの結びつきに重みを持つのはエリザベスらごく一握りの人間で、彼女が是と言えば是、否と叫べば否と伝わるに違いなかった。

 義姉に媚びを売るつもりはないが、間に立たざるを得ないエドワルドに皺寄せが行くのも困る。互恵関係、持ちつ持たれつでやっていきたいと思うのは甘いのか。

 高山地帯の復興もままならぬ状態で、竜の売買を約束するのは抵抗がある。かといって竜の国には特産品などない。北から観光に招くのも距離がありすぎるし、そもそも南大陸から人々が訪れるのは、島そのものや竜が神話に謳われているからで、異なる神話を持つ北王国の者に対しては観光資源にもならない。センセイのように博識の人なら興味を持ってもらえるだろうか。

 とりとめのない考えは次々に浮かび弾け、ひとつとしてまともな形をとらなかった。


『厄介だねえ。北王国が一つの国になったり分裂したりするの、わかる気がするな』


 のんびりした口調ながら、シャナハは竜の魔法について考えているようだった。竜の魔法は竜そのものとともに、国の発展を助けるものにならないだろうか。距離を超えて会話し、逆風のさなかにも船を運び、攻撃手段としても用いられる魔法と竜魔法の違いはどこにあるのだろう。


『うまく言えないんだけど、どうにかできたらいいなあって思うんだよね。神話云々は抜きにしても、竜は存在してるし、竜の魔法も確かにあるわけでしょ。そういうのを研究してる人には価値があるんじゃないかな。竜の存在を認めることで新たな歴史の発見があるとか、今までわからなかったことに説明がつくとか』

「だといいけど。まずは義兄上とのいざこざを何とかしなきゃ」

『だねえ。難しいな』


 竜たちは北王国の乾いた冷風の様子を確かめている。ナターシュにはわからない、においや肌触りの差があるのだろう。見下ろす海岸線は南大陸のものとそう変わらないように思える。整然と立ち並ぶ家屋は統一感があり、もしかすると景観を維持するための施策なのかもしれない。南大陸の雑然とした集落も趣があるものだが、エリザベスは人の営みの猥雑さを嫌いそうだと偏見が先走る。

 頃合いを見計らってスピカに降りるよう促した。久し振りに自由に飛べた竜たちは先ほどまでとは明らかに目の輝きが違っている。みなこのことに気づいてくれればいいのだが。

 宙返りや模擬戦まで披露したらしい双子らはエリザベスに激賞され、得意げだった。小さな姫君らも竜に興味津々で、竜使いを見上げる眼には星が浮かんでいる。客人だからと遠慮を上塗りされていた感情が賞賛に変わる瞬間は胸のすく思いだが、その煌びやかさは竜ゆえなのだから手放しでは喜べない。

 竜を戦の道具としてひけらかし、いい気になっていてはだめだ。

 疲れたな、と思う。もうそろそろ白の時間が来てもおかしくはない。できればここを辞してから眠りたい。社交辞令を述べながら、ナターシュとシャナハは考え続ける。

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