六 凍雲(2)

 航海中は船室でお過ごし下さるようと言い渡されており、錠は魔法で開閉するといった念の入りようである。まるで囚人のごとき扱いだが、供される食事や茶は何もかも最高級の品で、身を清めるための湯はたっぷりと与えられたし、薔薇水や絹の下着はクォンダならばともかく、高山地帯ナッシアでは目にする機会さえない贅沢品だった。

 同行したコーティは厨房で芋の皮むきや皿磨きを命じられているそうで、ナターシュとは日に一回、湯浴みの際に顔を合わせるだけだった。つらい目に遭っていないかと尋ねると、料理人や給仕女は総じてクーガーを嫌っており、客人だというのにあまりな扱いだと代わりに頭を下げたそうである。料理人たちは北王国語しか解さぬ者ばかりで、センセイに習ったわずかな挨拶と身振り手振りで意志疎通を行う傍ら、北王国語の修得につとめていると胸を張った。

 一方、セトとハルトの双子はどこで何をしているのかまったく知らされなかった。コーティの言によると食事はきちんと用意されているらしいし、竜使いとして招かれた以上はそう心配することもなかろう。

 むしろ心配するべきはナターシュの身であるが、エリザベスとエドワルドの利害が一致しており、互恵関係にあるなら、妻、対外的には婚約者だが――に危害を加えるとも思えない。

 呼び出しの間が悪かったことは恨みに思えど、それ以上の悪感情を抱くのは先入観だろう。判断は実際に目通りがかなってからで遅くはあるまい。

 以前ならば、シャナハの言うようにここでうじうじと思い悩んだだろう。行きたくないと具合を悪くしていたかもしれない。必要以上に警戒し、後ろ向きな考えに傾きがちの性格を変えたのはエドワルドであり、海峡群島の人々だ。

 高山地帯の人々が王族たるナターシュを受け入れてくれるのは、傲慢を承知で言えば当然のことで、その血を重んじぬ海の民が、お姫さん、花嫁様、奥方様、おねえちゃん、と口々に呼んでくれたのが嬉しかった。シャナハとふたり、ひっそりと存在を確かめあい、互いを互いの命綱として生きてきた過去が反転したかに思えた。

 では喜ばれ受け入れられたから生きる価値があるのかと考えると、これまたどうあってもおかしな話である。ナターシュもシャナハも己以外の何者でもなく、エドワルドに求められたから生きる、花嫁として迎えられたから生きる、とはいささか他者に甘えすぎではないか。誰が何と言おうと、自分たちはいま生きているし、自らの意思でもがき続け、生にしがみつくだろう。死を迎えるまでは。

 エドワルドがナターシュらを望んだのと同じく、ナターシュらも彼を選んだのだ。後悔はない。鱗を気味悪がることもなく、入れ替わりを見抜き、双子の花嫁を無邪気に喜ぶ彼は、きっと夫となるべくして現れたのだ。だとすればあの地震にも意味があったのか。いや、天地のありように意味を与えるのはいつだって人の心だ。神代のころならばともかく、神はこの地を去って久しい。

 結局のところ、選ぶのも決めるのも自分自身なのだ。

 そう結論してしまえば、くよくよと思い悩んでいたことが馬鹿らしくさえあるが、それさえも今のナターシュに欠かせぬ要素であるとするなら愛おしかった。若さ、と断じるほどひねてはいないつもりだが、一度正解した謎々には二度と考え込むことがないのに似ている。通り過ぎて過去になったということだろう。


「どうした、難しい顔で」


 エドワルドが手を伸ばして眉間に触れた。皺になっているぞと言う。手を借りて揉みほぐし、そのまま手のひらに頬を寄せるとシャナハが歓声を上げた。でかした、と喜びを隠そうともしないので交替する。喜びも哀しみも半分ずつ、そうして寄り添ってきたかけがえのない半身に。


「エドワルドさまのことを考えていたんです」

「その険しい顔でか。おっかないな」

「あら、何かお心当たりがあるんですの?」


 つとめて素っ気なく切り返す。いま考えたことは胸の中にしまっておいて、エドワルドにじゃれついた。強張っていた頬の線も普段通りに和らいでいる。


「エリザベス殿下……義姉上さまはエドワルドさまのお命を救ってくださったのでしょう。一度差し伸べた手を引っ込めるにも、気力が必要ですわ。お話を伺う限り、あたしたちをどうこうしようとお考えではないと思うのですけど」

「そりゃあまあ、そうだろう。自分の領地と海峡群島と、一人で面倒を見切れるものではないからな」

「では何を恐れることがありましょう」


 エドワルドは目を眇め、苦笑にも似た笑みを浮かべると、ちゅ、と音をたててシャナハの唇を吸った。


「勇敢なお姫様だ。心強い」




 ふつうの帆船ならば二十日ほどの行程を、その半分で消化したエリザベスの魔法船は淑やかに港に入り、錨を降ろした。港の近くで高波をたててはいけないのだろうと想像はつくが、つい何刻か前までは波を蹴散らして海面を疾駆していたのに、この豹変ぶりには恐れ入る。

 すでに連絡がついていたようで、港には迎えの馬車が待っていた。クーガーに誘われて乗り込むや、馬車は一目散に走り出す。竜たちは検疫があるため、追っての出発となった。竜たちは不満をあらわにしていたが、ナターシュとシャナハが代わる代わる説得すると、どうにか納得してくれたようだった。

 竜たちも船旅を経て疲れているだろう。穏やかに休ませ、空を飛ばせてやりたかったが、鉄面皮はエリザベス様がお待ちですから、の一点張りで埒があかない。これがあの気の利くリフィジの兄かと疑わしく思うが、エドワルドは慣れたもので、まともに相手をしていなかった。

 小窓の外を流れる街並みは白く優美で、清潔感があった。通りは広く、馬車が行き来っている。裏通りの様子まではわからなかったが、道行く人々はみな身なりがよく、こざっぱりとしたたたずまいだった。窓には花が飾られ、商店は色とりどりの旗を軒に掛けている。露店の吹き流しや風車が陽にきらめいて楽しげだ。

 掲げられた看板の文言は上辺だけしか理解できないが、行き届いた街に見える。少なくとも、治安の悪さは感じられない。

 港を含め、街は北王国の白い肌の人々ばかりだった。南との交流があるとはいえ、海峡群島ほどには人種が入り交じっているふうには見えない。クーガーの前で込み入った話をするのは憚られ、それはエドワルドも同じらしく、すぐ着くと囁いたきり黙ってしまった。 街と港が一望できる高台に領主の居城はあった。エドワルドの館ともマグリッテの屋敷とも違い、城と呼ぶほかはない、荘厳かつ立派な建物だった。

 頭を下げて馬車を迎えた男性は一目でリフィジらの血縁とわかる顔だちで、髪の白くなりかけた年頃から父親だろうと想像する。


「お待ち申し上げておりました。このたびは急なお招きにも関わらず、よくお越しくださいました。お疲れでしょう、どうぞこちらへ」

「久しぶりだな、フェルド。後から竜の乗った幌馬車が来る。船旅でだいぶ疲れているようだから竜を休ませてやりたい。みな好奇心はあるだろうが、人払いを頼む。竜の姿が見たいのなら日を改めて嫌というほど見せてやるからと徹底してくれ。双子の竜使いが付き添っているが、まだこちらの言葉が不自由だ。共通語を話せる者をつけてくれ。餌は加熱したものをやりたいから厨房にも連絡を。それから、こちらはナターシュ姫の身の回りの世話をするコーティだ。共通語を話せる者はいるか」

「かしこまりました、すぐ呼んで参ります」


 フェルドはお仕着せに身を包んだ女を呼んで何事か言いつけ、コーティを引き合わせてから、こちらです、と先に立って廊下を進む。彼はリフィジとクーガーの父で、代々エリザベスの生家に仕えている由緒正しい家柄なのだと、エドワルドが小声で教えてくれた。

 二階に上がってすぐの部屋に、エリザベスはいた。落ち着いた色彩の壁紙、飴色の卓。趣味が良いばかりでなく、とてつもなく高級な品であることがナターシュにもわかる。


「待っていたぞ、エドワルド。久しいな」

「姉上様はお変わりないようで、何よりです」

「ははっ、お変わりないものか!」


 エリザベスは高く結い上げた金の髪を揺らし、大儀そうに長椅子を下りた。エドワルドとほとんど変わらぬ高い位置で、翠の眼が悪戯っぽく光る。ナターシュの前で一礼した。


「ナターシュ姫、エリザベスだ。我が弟と契りを交わして下さったこと、心より御礼とお祝いを申し上げる。婚礼の儀の最中にクーガーが割り込んだそうだな。非礼は十分にお詫びしよう。済まなかった」


 順列からすれば、こちらから挨拶せねばならないところだ。詫びのうち、ということかもしれない。

 エリザベスの深みのある声は、まさに女傑といった雰囲気であった。衣服は意外にも南方の男もので、襟の立ったシャツに刺繍入りの色鮮やかなベストを羽織り、裾の膨らんだズボンに平らな靴といったいでたちだった。締めつけない格好が良いのだと、すぐに理解が及ぶ。


「ナターシュでございます。取り急ぎまかり越しまして、お見苦しいさまでありますこと、ご容赦くださいませ。言葉もいまだままなりませぬが、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。……おかけください、お身体に障りましょう」

「そうか、では甘えよう」


 エリザベスは大きく膨らんだ腹に手を添え、再び長椅子に体を預けた。卓を挟んで対面に置かれた長椅子に腰を落ち着け、エドワルドが茶を啜る。意外に、気安い間柄らしい。


「産み月はいつなんだ」

「今月だ。三人目だからな、いつ産まれてもおかしくないと言われている。ナターシュには後で子どもたちを紹介しよう。まずは……そうだな、エドワルドの話からしておこうか」

「エドワルドさまの?」


 問い返すと、エリザベスはにたりと人の悪い笑みを浮かべ、エドワルドはさも嫌そうに口を曲げた。


「おれじゃない。第一王子が同じ名前なんだ」

「ちなみにエリザベスは私の他に三人いる。まだ増えているやもな」

『北王国の王室は子だくさんだって話だからねえ……ここまでとは思わなかったけどさ』


 エリザベスは運ばれてきた果物をつまむ。腹が空くのだ、と言い、ナターシュにも勧めてから話を始めた。


「その第一王子のエドワルドがだな、正妃の嫡男で、つまり私の兄で、文句のつけようもなく王位に一番近い男だが、王家の血筋はいささか野蛮を好むきらいがあってね、実力主義を取っている。兄が父の後を継いで王位に就いたとして、それは退位まで続く防衛戦のはじまりでしかない。それで、今のうちから邪魔者を、己の王位を脅かしかねない存在を排除にかかっている」

「筆頭が妹君、エリザベス」

「しかも身重で動きが鈍い」


 姉弟は顔を見合わせてからからと笑った。何が面白いのだか少しも理解できないが、北王国の王家筋では、玉座を巡っての剣呑な冗談が挨拶代わりであるらしかった。


「私はお前の敵ではありませんよと一貫して示してやっているのに、どうしてだろうねえ。こうして自分の領地に引きこもって王都にはとんと出向かんし、税だってきちんと納めているのに」

『立派な領地と港を持ってて、税金をきちんと納めるって、脅威になりえますって何よりの証拠だもんねえ』


 シャナハは早くもエリザベスに同情的だ。納得はするが、蜜月を邪魔された恨みはそう簡単に拭えるものではない。血を分けた兄王子との諍いが絶えないところへ竜ごとの招聘とあっては、穏やかな話ではなかろう。


「そんなわけで、今も兄が下らないちょっかいをかけてきて、州境で小競り合いが起きている。慰問と激励に出向きたいのだが、この身では少々障るのだ。代わりに行ってきてもらえないだろうか」


 やはり、そういうことか。

 そりゃそうよねえ、と呑気なため息をついているシャナハをつついて頭を使えとけしかける。

 エリザベスは腹違いの弟エドワルドと懇意にしている。南北貿易にも積極的で、竜の国にも理解があるようだ。竜を買うと言ってくるのも時間の問題だろう。そんな王女から、竜を連れての急ぎのお呼び立て、なおかつ戦場に行けとのお達しなのだから、これはエドワルドと竜の国の姫の婚姻を支持するという意思表示であり、同時に竜の国と手を結ぶと兄に示す行為だ。

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