六 凍雲(1)
エドワルドはふてくされている。後ろから見てもはっきりわかるほどに不機嫌で、肩の線が強張っていた。
「お帰りなさいませ、エドワルド殿下。おや、いつになくめかしこんでいらっしゃる」
港で待っていたのはリフィジによく似た顔だちの、長身の男だった。北の白皙、服装は趣味の良い紺地に金ボタンの詰め襟で、神経質そうな頬の線がいかにも文官といった風情だ。マナヅルを下りて桟橋に立ったエドワルドに、慇懃に腰を折ってみせる。
「クーガー、おまえは本当に性格が悪いな」
「心外ですね、何を根拠に。……おや、そちらが竜の国の? お待ち申し上げておりました、私は北王国第一王女、エリザベス様にお仕えしております、クーガーと申します。リフィジの兄でございます」
エドワルドを押しのけたクーガーに、リフィジまでが苦い顔をしている。珍しいことだ。
「ナターシュです。こちらへはなんのご用で? 火急の用件と聞きましたが」
濃厚な甘い行為に没頭していたところに水を差したのは、鈴の音だった。りんりん、と場違いに涼やかな音は魔法によるもの、すなわち本島からの呼び戻しだった。
空は晴れて、嵐の気配もない。だとすれば本島で何かしら深刻な厄介事が生じたのだ。新婚初夜の領主どのを呼び戻さねばならぬほどの何かが。
詳細もわからぬまま、身体を清めて元通り花嫁衣装を身につけて(エドワルドはやけに手慣れていた)戻ってみれば、松明に照らされた港には見覚えのない船が停泊していた。船体には大きく北王国王家の紋章が刻まれていて、それを目にしたエドワルドはすべてを理解した様子で肩を落とし、まるで自らに言い聞かせるようにナターシュに告げた。
「本土の姉からの呼び出しだ。逆らえない。すまんが、堪えてくれ」
彼の命を救った第一王女エリザベスのことだ。よりにもよって今日この時に迎えが着くなんて、間が悪い。急にお預けを食らった身体の芯はまだ熱を留めて疼いている。エドワルドとて同じだろう。
なんとも言えない居心地悪さを拭えぬまま船を下りれば、領民らが忌々しげに遠巻きにする中、クーガーが待ち構えていたというわけだ。面白くない。
「エリザベス様が直々にお祝いをお伝えしたいとのことです。ナターシュ姫とお目にかかるのをたいそう楽しみにしておられますよ」
「それにしても絶妙の間だな。素晴らしい操船技術だ」
「とんでもない。ですが寿ぎの
リフィジが顔を覆う。集まった島民たちも困惑顔で、中にははっきり迷惑だと示している者もおり、彼の来訪が初めてではないこと、いつも最悪の機を見計らって訪れることが察せられた。一言で言えば、嫌われている。
かといって、命の恩人であり、右腕のリフィジを遣わした姉王女にはエドワルドも逆らえまい。弱みに付け込む手は感心しない、と心証は悪くなる一方だった。
「綺麗事はよせ。こっちはいいところを邪魔されて気が立ってるんだ。出発は明日だろ、部屋を用意する」
「日の出前には発ちたいところですね」
「聞いたな、明日からまたしばらく留守にする。資材が揃えば竜の国へ送れ。リフィジ、クレム、指揮を任せる。セトとハルトもついてこい。あとはコーティだな」
「竜もお忘れなく」
抜け目なく言い添えるクーガーにエドワルドは返事をしない。翠の眼に無言で呼ばれて隣に立った。
「こんな誘拐みたいな真似は許し難い、必ず相応の謝罪をさせる。だがまずは姉と会ってほしい。……もちろん、拒んでくれて構わない。そのときはおれが必ず守る。竜の国も」
必死さをクーガーが鼻で笑う。いけ好かないやつ、と口を尖らせたシャナハが敵意をむき出しにしていた。その気持ちは十分にわかるが、本来、王侯貴族はこんなものではないのか。周りの人々に――ざっくばらんなエドワルドのやり方に馴染みすぎて忘れかけていたけれども、驕り、他者を貶めて憚らぬやからではないか。
エドワルドを、ナターシュを対等に見ていないからこその言動に、王宮の催しに招かれるたび心を凍らせて都に下りたことを思い出す。いっそ無視してくれれば良いのにと冷めた気分でクーガーを眺めた。見下ろすこと、見下すことに慣れた薄青の視線は小揺るぎもしない。実力主義ながら相互扶助の心持ちが強い海の民に嫌われるわけだ。
「ご心配には及びません、エドワルド。わたくしも共に参ります。クーガー、と申しましたね、わたくしどもの国は先だっての地震で大きな被害を受けました。海峡群島に赴いたのも復興の資材を調達するためであり、遊山ではありません。本来ならばエリザベス殿下には正式な使節をもってご挨拶に伺わねばならぬところですが、このように見苦しい形でのお目もじとなること、重々お詫びいたしますと伝えなさい」
港で待つ島民のあいだに、静かにさざなみが広がってゆくのを肌で感じながら、エドワルドを目で促して腕をとる。眠い。今すぐにでもシャナハに替わってもらいたかった。
「今日はよい日だった、ありがとう。これからは私同様、妻にもよく仕えてくれ」
朗々とした宣言に、おお、もちろん、と同意の唱和が広がる。クーガーの顔は見ずに人垣を割って港を後にして、館で待ち構えていたコーティとバーバラに迎え入れられるや、ナターシュは眠りに落ちた。
北王国には、竜はいないが魔法がある。南大陸にもわずかながら魔法使いがおり、魔法の存在は知ってはいたものの、詳しい原理や由来までは理解の範疇を越えていた。何でもできる便利な力という印象を抱いているのはナターシュだけでなく、竜の国の民はほとんど同じだろう。
操船補助、情報伝達。実際にこの目で見ただけでも、魔法があるとないとではまったく違う。よい風がなければ船は遅れ、商品も情報も鮮度を失う。船員は疲弊し、健康状態も悪化する。魔法は、油凪だけでなく風雨にも強い、自然をもねじ伏せる力なのだ。
シャナハが看破したとおりクレムは魔法の使い手で、一日一度の定時連絡が海峡群島とエリザベスとの間で交わされている。資材調達のために海峡群島に戻ったことも、当然ながら姉王女殿下の知るところであるし、エドワルドも承知の上だ。
その結果、迎えとしてクーガーが寄越された。船には魔法使いが十人乗っており、船は風を切る速さで東を目指している。空を飛ばんばかりの勢いに、甲板に上がることも許されず、繋がれた竜たちが落ち着かなげに鳴き交わしているのが憐れだ。
もとより、風景を楽しめるような呑気な旅ではないが、波や飛沫が船体にぶつかり、嵐もかくやと思わせる轟音を聞いて心穏やかでいられるほど、肝は据わっていなかった。
「リズの考え方も基本的におれと同じだ。王位に興味はない。権力争いもごめんだが、かといって野に下ることもできない。持てる身分と地位と権力を最大限に活用して、脅かされることのない安住の地を築こうとしている」
エドワルドは北王国の地図を広げた。センセイの話にあったとおり、竜の島は描かれていなかった。悲しくも悔しくもないが、残念だとは思う。この程度なのだと。だから、いつの日にか、北王国の地図にも竜の国が記されるようにすることも、目標のひとつとなりえる気がした。
「北王国は領土が広大だから、いくつかの州に区切って領主を置いて自治を任せてる。領主は王族だったり、有力な貴族や商人、軍人だったり、まあ色々だ。領主は国王に忠誠を誓うが、領主同士が仲良しこよしなわけじゃない。税収だとか、土地の優劣だとか、住民の小競り合いとか、反りが合わないとか、争う理由はいくらでもあるからな。好戦的な領主は領地を広げようと虎視眈々だし、リズみたく守りの姿勢の領主もいる。リズの領地はここだ、南東の海沿いから内陸にかけて、このあたり一帯。レイルと呼ばれている」
「広いのですか」
「広さはさほどでもない。領土欲もないんだ。その代わり街道は州の隅々まで通っているし、町もすばらしく綺麗に整えられてる。
強引さをさておけば、悪人ではなさそうだ。いや、エドワルドの生命を救ったという一点においては、エリザベスは紛うことなき善だった。己の手駒とするために彼を海峡群島へ流したのだとしても、その判断がなければ、いまこうして並んで座ってもいまい。
「そうなんだよ、リズは別段だめな領主じゃないし、レイルは安全で豊かだから領民たちにも慕われてる。だが王族としては致命的に怠惰で貪欲なんだ。北王国は広いだろう、それを束ねるとなれば細やかに働かなくちゃならないが、嫌なんだとさ。我こそが王なりって、ふんぞり返ることを面倒がってるんだ。今の状態が覆されては困るから、周辺の領主たちだけじゃなく全国に間諜を放って情報収集してるし、戦が起きても負けないことをまず第一に考える」
「それで領地の平穏が保たれるならいいのではないですか」
いいや、とエドワルドは譲らない。
「残念なことにリズは王族で、しかも正妃筋だ。ナターシュが国を憂いたように、あの人も国に責任を負うべき血筋なんだ。その血があるから今の享楽があるのに、恩を返そうって気がまったくない。おれを群島の領主に据えたのも、表向きは南との交流や情報収集だけど、本当のところは珍かな品々が欲しいだけだし、戦に負けたくないのだって己の生命が脅かされるからだ。領民は言い訳にすぎない」
どうしてこんなに怒るのだろう。王族すべてが清く正しい性根の持ち主で、国民に尽くすべきと美しい理想を掲げているわけでもあるまいに、世の中がそんな美辞麗句で飾られているなら戦も内乱も起こりやしない。
国に責任を負うべき血筋などと、彼がいちばん馬鹿にしていることがらを正論ぶって振りかざさないとならないなんて、と考え、ふと得心がいった。持てる者が投げ捨てたものを尊び、縋らねばならない身の上と、否定しても罵倒しても逃れられない羨望に。
ナターシュも同じだ。王家の血など欲してはいなかった。忌々しい、けれども憎みきれない。その血ゆえに命を繋ぐことができたし、その血がもたらすだろう幻影を追って生きてきたから。
かたわらにある大きな手を握る。
「わたしがおります、エドワルドさま」
は、と間抜けな声がまろび出た。目と口がまん丸になっている。ぎゃあ可愛い、とシャナハが黄色い声をあげる。
「いくら望んでも、欲しても、手の届かないものがあるのは事実です。でも、エドワルドさまはわたしを望んでくださったではないですか。もちろん、わたしでは満たすことのできないこともありましょうが、おそばにおります」
突然ぎゅうぎゅうと抱きしめられて、続きは言葉にならなかった。痛いです、と訴えてようやく、彼は気まずげに力を緩めた。すぐそばにある翠の眼からは頑なさが消えて、いつもの自信と、はるか遠くを見据える野心とがきらめいている。
「そうだ……そうだな、おれにはナターシュとシャナハがいる」
「ええ」
「こんなできた妻を二人も娶ることができておれは幸せだ」
「これからもっと幸せにして差し上げますよ」
言うと、エドワルドは腹を抱えてひとしきり笑い、ナターシュの額に唇を寄せた。
「それは楽しみだ。お手並み拝見といこうか」
『けっこう言うようになったね、ナターシュ』
シャナハがにやにやと笑っている。
センセイの授業は時間が短いこともあって、駆け足での総論だったが、エドワルドが語る北王国の暮らしや文化は馴染みのないナターシュにとっては興味深く、聴いていて少しも退屈しなかった。
衣食住だけでなく、暦や祭りの風習、何を重んじるか、何を軽んじるか。どんな植物が育ち、空や海は何色なのか。エリザベスに対する漠然とした不安はあれど、それは未知のものに対する落ち着かなさでもあるし、それならば海峡群島へ向かう前にも感じていたことだ。群島でのような歓迎は望めないと明らかなのだから、ならば社交辞令と名のついた剣と盾を用いて儀礼的に応対すれば良いだけのこと。
エリザベスがエドワルドにとっての脅威なら、逆手に取ることもできるはず。唯々諾々と従うだけが外交ではなかろう。
『いつになく強気だねえ。エドワルドさまのお陰だね』
その通りだ、と思う。
政略の大前提はあれど、彼はナターシュを、シャナハを欲してくれた。王家存続の血ではなく、この身を見つめてくれた。最初の夜に踏みにじられるはずだった純潔は未だこの身にある。ナターシュを尊重するあまり機を逃し続けているエドワルドが気の毒ではあるけれども、一日だって早く結ばれたいと思う。これまでの嬌態と快楽などまだほんの浅瀬にすぎない、悔しげに吐き捨てられた言葉の、まだ見ぬ沖を知りたい。
ナターシュが小柄だからか、しばしばエドワルドの膝に招かれた。脚が痺れるのではと遠慮すると、庶民的だと笑われた。庶民だろうが王族だろうが、脚が痺れることに変わりはないと思うのだが、幼子がぬいぐるみを放さぬのと同じく、温かい胸に抱かれているのは気恥ずかしいながらも心地が良かった。
「エドワルドさまはわたしのことが大好きなんですね」
「ナターシュもおれのことが大好きだろう」
などと詮無いことで笑いあえる時間は貴重だった。
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