五 重波(4)

 マナヅル、寿ぎの船がどんなものかナターシュには想像もつかなかったが、造り付けの寝台と卓でいっぱいになるほどの小部屋のついた帆船で、帆には魔法がかけられ、定められた航路を巡って翌朝港に戻るのだそうだ。

 陽が高くなる前から本島の人らが代わる代わる祝福に訪れ、飲んで歌って踊っての大騒ぎののち、軽食と水、海に蒔くための花だけを積んで、ナターシュとエドワルドはマナヅルに乗り込み、港にひしめく人々に見送られて西に向かった。

 本島の周辺にもいくつか、漁師や海女、船大工をはじめとする人々が暮らす島があり、携えた花と祝いの品を交換する。どこへ行ってもエドワルドは慕われており、妻となるナターシュが竜の国の出であることは伝わっていて、どうしてまた、と驚かれることもあったが、おおむね好意的に迎えられた。

 島巡りを終えて、船が沖へ出る頃には空は真っ赤に燃え、紅玉のごとく輝く太陽が黄金色の照り返しを纏う海へ没しようとしていた。野の花の花束は、ああでもないこうでもないと頭をつき合わせて作ったもので、絹のリボンとふたりの髪が結ばれている。

 沈みゆく太陽に向けて花束を流すと、波に揺られながら遠ざかっていった。寄り添って、しばし行方を追う。


「竜の国に流れ着きはしませんか」

「海流が複雑だから……どうだろうな。もしかすると、いつか着くかも。……船酔いは大丈夫か?」

「ええ、それほどは」


 輸送が主目的の空飛ぶ船に比べるべくもなくマナヅルは小さく、波の影響を強く受ける。揺れは大きく、大風が吹けば流される。魔法があるから良いものの、海図も、漕ぐすべすら持たずに小船にふたりきり、というのは、甘やかな夜の営みに向けて期待も高まるが、心細くもある。非常時には魔法使いらが港まで船を引き寄せると聞いていたが、これまで大勢に囲まれていたこともあって、人恋しかった。

 それほどまでに海は大きく、波は存在までも揺るがす。いつかこの波の一部になって消えてしまうのでは、とさえ思えた。


「海は、大きいですね」


 知らず、ぽつりとこぼれた言葉にエドワルドが微笑む。


「空も大きいだろう?」

「はい。空は、竜の力をもってしてもほんの低いところに手が届くに過ぎません。はるかな高みに手は届かず、誰も訪れることのできないところですから。空はわたしたちを拒絶しているんです。でも、海は手を伸ばせば触れられるのに、底が見えなくて……覗き込めばあっという間に呑み込まれてしまいそうで、こわいんです。浜の近くは緑色で透明で、とってもきれいなのに。浅瀬と深みがひとつながりであることもこわい……」


 腰に回った手に力が入り、胸に抱き寄せられる。


「その感覚は大切にしておくといい。おれたちは船で、魔法で、知識と技術で海を渡るし、海の幸を食らって生きている。けれど本来海は、水底はおれたちの領域じゃない。畏れるのは正しい感覚だと思う」


 盛装し、髪を整えたエドワルドは凛々しく、堂々としていた。シャナハがだらしなくにやにやしているのに、今ばかりは同意する。本島で王子の品格と風格を纏い、高らかに婚姻を宣言し、剣舞を披露したことを思い出す。

 剣舞は北王国で語られる英雄伝説を題材に取ったもので、これはエドワルドが島民に威厳を示す際によく使う手なのだそうだ。滅多に抜く機会などないが、剣を佩くのはお飾りではないのだぞ、と。

 隙なく男装したバーバラが相手役を務めたのには驚いたが、彼はかつて傭兵として北王国をさすらっていて、剣の扱いは得意なのだとクレムが耳打ちしてくれた。バーバラに変貌を遂げるまでの紆余曲折はとても話しきれないけど、と言い添えて。

 炎の髪が海風に舞って、白地に金糸銀糸で刺繍を施した衣装がまばゆく煌めく。輝石で飾られた儀礼用の剣の照り返しに目を細めながらも、瞬きをすることさえ惜しく、エドワルドの一挙手一投足を心に焼きつけた。太鼓と笛、それに提琴が無言の物語を盛り上げ、終盤の熱狂を支える。エドワルドが剣を天にかざして太鼓の一音が終演を告げたときには、まさに万雷と称するに相応しい拍手が轟いた。

 手招かれ横抱きにされて、花びらの雨を浴びる。公衆の面前で披露するには少々度の過ぎた誓いの口づけは、稲妻のようにナターシュとシャナハを貫いた。


「すべては海のためだ。畏れ、感謝し、節度を守って共存する。その覚悟がなければ海では暮らせない。わかるか」

「はい」


 エドワルドは玉座にこれっぽっちも関心を抱いていないようだった。本土に戻る気すらないだろう。彼の住み処は海峡群島であり、商人や海賊たちを統べ、南北の貿易を取り仕切って、本土の騒乱にも動じない基盤を築く。かつて語ったことはまったくの本心であったと、このわずかな期間で思い知った。

 その強さに惹かれた。彼の治める海峡群島がたまらなく魅力的だった。何を差し出し、何を取り入れれば竜の国も独立を保てるだろうか。答えは未だ出ない。

 冷えるからと船室に誘われて、またぎゅうぎゅうと抱きしめられる。演出も含めて、今日は幾度となく抱きしめられあちこちに口づけられているが、周りに誰もいないのはマナヅルに乗り込んでからだ。

 すごくきれいだ、かわいいよ、もっと見せて、と耳に吹き込まれて膝が砕けそうになる。脇を支えられて抱え上げられた時には、子どもじゃないと抗議しようかと思ったが、エドワルドがあまりにきらきら笑っているので毒気を抜かれて結局黙った。


「ありがとう、ナターシュ。シャナハもだ。ふたりを迎えられてすごく嬉しい」


 コーティとバーバラが腕まくりをし、鼻息荒く整えてくれた化粧はまるで自分ではないかのように華やかで、かといって間違いなく自分自身の顔で、すごい、としか言いようがなかった。

 用意されていたドレスは陽だまりを思わせる淡い黄、風を孕んで軽やかに揺れる。胸元と裾の花飾りは少女らが、刺繍は女たちが総出で細工したと聞く。男衆はマナヅルを磨きあげ、老人たちは振る舞いの料理を拵えた。指揮に当たったリフィジとクレム夫妻は今頃、疲れ果てていることだろう。皆のありったけの好意がこの花嫁衣装であり、マナヅルであり、今日という日なのだった。


「わたしも、うれしいです」


 婚姻は義務であり、つとめなのだとばかり思っていた。こんなふうに望み、望まれて花嫁になるなど絵空事でしかないと。

 くしゃりとエドワルドが笑う。少年みたく邪気のない、裏のない笑顔に心が震えた。

 わたしでいいのだろうか。自問はいつまでも残る。けれども卑下はない。高山地帯で慕われるナターシュは彼の野心の、野望に役立てるだろう。そして、彼の掌握する交易路は竜の国に利をもたらすだろう。それくらいの下心はある。

 寝台に横たえられるや、口づけの熱い雨がとめどなく降ってくる。首を抱いて引き寄せると、鎖骨のくぼみに噛みつかれて呼吸が止まった。エドワルドがもどかしげに刺繍入りの上着を脱ぎ、首元を緩める。花嫁衣装に手をかけて、ふと眉を寄せた。


「脱がすのが勿体ないな……かといって汚すのも」

「どうして汚すことが前提なんです」

「汚れないとでも思っているのか」

『きゃーっ、エドワルドさま、激しーい! ねね、どんなことされるのかな? どうしたら喜ぶのかな?』


 シャナハの無責任な煽動が届かなくてよかったと心から思う。幸福の酩酊を引きずる妹は替われ替われとうるさいが、今がいちばんいい時だ。もう少し待ってくれても良かろうと無視を決め込む。

 花嫁衣装の上半身はすっきりと絞られている一方、スカートにはたっぷりの布が使われ、襞は花飾りで留めてある。短い金髪を彩っていた花冠はとうに卓に置かれていて、長手袋をぽいと投げ捨てたエドワルドが胸元に食らいついた。

 高山地帯を出てから絶え間なく耳に響いていた潮騒も消え、熱っぽいため息と心臓が激しく打つ音しか聞こえない。低い声で紡がれる睦言が耳を突き抜けて理性をぐずぐずに溶かしてゆき、背の編み上げ飾りを解いて骨を辿る指にナターシュは身を震わせた。

 さんざんに食い散らかし、悲鳴とも嬌声ともつかぬ喘ぎまで余さず啜ったエドワルドが満足げに軽く息をついたことこそ好機、絹地のシャツに爪をたて、お返しとばかりに噛みついた。

 組み敷いて邪魔っけなシャツをはだけ、汗の浮いた胸に飛び込む。白い肌を貪るうち、あまりに熱い部分に触れておののいた一瞬でふたたび攻守が入れ替わり、残骸といったありさまで身体にまとわりついていたドレスが取り払われた。残るは申し訳程度に肌を隠す下着ばかり、目にしたコーティが沈黙し、バーバラが「趣味が悪すぎるわ。品がない」と一蹴した紐状のなにかである。手配した本人だけがにやにや笑っている。


「それ、着たのか」

「着るというか……巻いたというか……なんというか」


 落ち着きません。正直に述べると、エドワルドは盛大に噴き出した。そうだろうよ、と。


「気分的なものだからな、これは。うん、いい眺めだ」

「眺め、って」


 頬が上気するのがわかる。脱ぐべきか、それとも待つべきか。逡巡したのも束の間、エドワルドはこのまま進めるつもりであることを知る。腰を抱えられて、呑み込みきれなかった声が情けなく掠れた。


「海だ」


 溺れたい。静かな呟きとは裏腹に容赦なく責めたてる男はこの身の海に何を見ているのだろう。大きな波にすべてを奪われ、ナターシュは背を反らし喉をふるわせて啼いた。

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