五 重波(3)
海峡群島での日々は竜の国とは何もかもが違った。スピカとともに黎明の空を駆ければ、漁師たちが小舟から手を振ってくれる。海の色は竜の島付近から見るよりも明るく、碧が混じっている。岸壁もあれば砂浜もある、様々な小島に打ち寄せる波、引いてゆく波が複雑にぶつかりあって、海が渦を巻いていた。
南北には大陸端の山脈が果てのない壁のごとく連なっている。
もともと南北の大陸はひとつながりで、多種多様な動植物がそれぞれに生を謳歌していた。しかし、時が経つにつれて北の方が優れている、いや南の方がと大陸を二分して争うようになった。地に満ちる争いを憂いた神が、岩山を大陸の中央に置いて争いを鎮めたものの、山を穿ってまで争いを続けようとした動物は後を絶たず、仕方なしに神は山を雲よりも高くし、なおかつ大陸を二分して互いの行き来を難しくした。このときにこぼれ落ちた大岩や石くれが海峡に落ち、群島となったと神話は語っていた。
南北をそそり立つ岸壁に塞がれて、まるで川のようだと言うと、船乗りたちは笑った。川ほど狭くはないが、気を抜けばすぐに持って行かれる、と。「持って行かれる」とは何か、と尋ねたナターシュを、彼らはアジサシと呼ばれる小舟に乗せてくれた。
漁船よりも小さい、二、三人乗りのアジサシは近隣の島へと移動するための交通手段だ。島を訪れた商人や観光客たちを乗せる渡し船もあるが、島の住人たちは専ら、乗り捨て自由のアジサシで行き来している。
「姫様、ちょっとここを持ってみな」
「それじゃあちっとも敬語になってねえよ、持たれて……ん、いやお持ち頂き……?」
「持たれてくださる?」
「持っておけばいいの?」
へえ、と船乗りらが頭をかいた。ナターシュも民らと近しく育ったから、細かいことは気にしないが、万事この調子ならばエドワルドの開けっぴろげな性格にも納得がいく。櫂を握ると、行きますよ、と
こうやって漕ぐんです、と教わったとおりに櫂を動かす。何度めかでこつが掴めた。
「重労働ですね」
「まあ、潮の流れってのがあるから、乗ってるときゃあヒョイヒョイなんだけど……ですけど……流れてない時や逆らって進む時はね、うまくしないと疲れるばっかだ。ほら、そろそろだ」
櫂からこれまでとは比べものにならない抵抗が伝わってきた。あれよあれよという間に流されてしまう。慌てて船を戻そうとするも、流れには歯が立たなかった。
「今のが持ってかれる、ってやつだ。最初のうちは素直に流されとくこった。逆らうだけ無駄だし、波に逆らって漕げるようになる頃にゃ、どこにどう流れができてるか頭に入ってるさ」
船乗りは櫂を取り上げ、すいすいと漕いで桟橋まで戻った。手品のようだ。
「いやいや、俺らぁ姫様が空を飛んでる方が手品なんじゃねえかと思ってますよ。どうすりゃあんなでかぶつが空を飛ぶんだか、ちっともわかりゃしねえ」
「わたしだってわかって飛んでるわけじゃないんだけど」
アジサシの操船は子どもでもできると言われては、習わずにはいられなかった。並行して水練も。セトとハルトも手を挙げたため、女海賊たちが黄色い声でああだこうだとかしましく指導してくれた。
お喋りや噂話が大好きで、ともすれば脱線しがちな彼女らも海での振る舞いについては厳しく、的確なものだから、もともと体を動かすことが得意なナターシュらはすぐに泳げるようになった。膨れているのはコーティとバーバラである。バーバラは護衛として同行した双子がお気に入りのようだった。時折、棒切れを打ち合わせている。
町を歩けば子どもたちが竜について訊きたがり、老人たちは涙を流して「エディ様をどうぞよろしく頼みます」と頭を下げる。市場では女たちが色鮮やかな布地や装飾品を取っ替え引っ替えし、これも似合う、いやあっちの方がと譲らない。抜け目ない商人たちは竜の国の内情を聞き出そうと躍起になって、港へ行けば漁師や海賊らが花嫁様だ姫様だと何くれとなく世話を焼いてくれる。獲れたての魚を捌いたとか、こんなものが網にかかったとか、沖でトビウオの群れが見られるとか、ともかく退屈している暇がない。
午前中はセトかハルトを伴って、時にはコーティやバーバラも交えて町や港を歩く。午後からは館で北王国の歴史、南大陸や竜の国を含めた世界情勢についての広く浅い授業を受け、王国語の読み書きを習った。
いま、世界で使われている言語は大きく分けて北王国語、南北大陸共通語、南大陸共通語の三つである。国が分かれようが統一されようが同じ一つの言語を用いる北大陸とは違い、南大陸の国々は南大陸共通語を公用語としている国もあれば、方言や訛り、独自の用法が強まって別言語のようになっている国もあり、地方によって様々である。
南北大陸共通語は大陸が一つであった頃、つまり太古の昔に用いられていた言語で、ここから南北の言葉に分化したと考えられているそうだ。
「ですから、共通語と呼ぶのは正確ではありません」
教師として招かれたライオットは町で読み書きや算術を教えている。北王国出身の学者で、大きすぎる知的好奇心を持て余して船に乗り、南大陸を巡り歩いた末に、文化の混じり合う海峡群島に腰を落ち着けた。単眼鏡が印象的な柔和な紳士だが、学問のこととなれば目の色が変わる。住人からも船乗りからもセンセイと呼ばれて慕われていた。
「北大陸では神話も違うんでしたね」
「そうです。ですが、大まかな筋は同じなんですよ。かつて神々が世界を創り、あらゆる生き物を野に放ち、栄えよと言祝いだ、とね。そこからが少し違ってきまして……やがて、人間たちに差が生じます。富める者貧しき者、健やかな者病める者、持てる者持たざる者。殴る者殴られる者。善悪。その差異を原因に争う者も出てきます。分け与え、等しく幸福になろうとする者が真っ先に狙われました。そこで神々は善き者を北に、悪しき者を南に分け、岩山と海で隔てた……というわけです。そして、南の悪しき存在を監視するために西の海に島を創って、竜を置いた。これが北で語られる神話ですね。北では竜の島は軽んじられることが多く、地図に載っていないこともあるのですよ」
ずいぶん違いますね。思ったままを述べると、センセイは顎に手をやってふふふと肩を揺らした。笑うと目が糸のように細くなる。
怒っても笑う人だから気をつけろ、と紹介の際に口を挟んだのがエドワルドで、センセイは手にした一抱えもある本の角をとんとんと示してみせた。もちろん笑顔で。
「まあ、本当のところは神様に訊かない限りわからないでしょうが。神話が違えど、我々は目が二つに口が一つの同じ種なわけですから、身振り手振りは似通っていますし、多少文法や発音が奇異に感じられたところですぐに慣れます」
淡々と述べるセンセイは三つの主要言語を流暢に話す。流浪の日々が長かったからか非常に博識で、知らないことはないとまで噂されていた。買いかぶりですよ、とにこやかに噂を否定しているが、あながち、と思わせる神秘的な雰囲気がある。
教本として選ばれたのは北王国の絵本「氷のなみだ」で、上流階級の子ども向けであるからこそ、表現の多彩さ、韻文の美しさ、文法の正確さが際立つのだと熱っぽく語るセンセイに、では南大陸の言葉を教えるときにはどんな本を使うのかと尋ねると「金色砂海の大冒険」という答えが返ってきた。
「子どもの頃に読みました。共通語のものですけど、砂漠の夜明けの挿し絵がすばらしくて……砂イルカに乗ってあちこち旅することを想像しました。懐かしいです」
「そうでしょうそうでしょう。本がお好きなら、ぜひ私のうちへいらっしゃい」
幼い頃はシャナハとふたり、指で字を追いながら物語世界に思いを馳せたものだ。ため息のこぼれる絶景、おいしそうなお菓子、空想上の生きもの、胸躍る冒険、涙が彩るほろ苦い別れ。どこへも行けないふたりにとって、絵本は唯一の外界だった。めでたしめでたし、と結ばれる物語を何度読み返し、噛みしめただろう。
資材が揃い、国に帰ったら、次に外国を訪れるのはいつになるだろう。そう考えるだけで背筋が伸びる。少しでも多くを学び吸収して帰りたい。高山地帯の、竜の国全体の糧になるように。
語学に興味を示したシャナハが表に出てセンセイの授業を受けることもあった。セトやハルト、コーティも一緒になって絵本を音読し、北王国の地図を眺めた。
楽しく充実した一日が終われば、エドワルドと食卓を囲む。朝が早い生活のため、夕食にはスープや蒸し料理など、温かいものが軽めに供される。魚介のうまみが染みた根菜は柔らかく煮えており、トマトと香辛料、牛乳を加えたもの、粒胡椒をたっぷり振ったものと味付けの幅も広い。夜の早いナターシュにとってはありがたかった。
広い窓が切られた浴室には温泉から汲み上げた湯が満たされ、町灯りを受けてぼうと光る海と星空を心ゆくまで眺めていられた。時にはエドワルドが一緒で、髪や身体を洗われる心地よさにうっとりしつつ、ついでとばかりに不埒な振る舞いに及ぶ手指や唇にあられもない声で喘ぎ、涙ながらに懇願し、やっとのことで許されて寝台に運ばれた時にはすっかり夢うつつ、目が覚めれば金色の朝陽が海を染めているといったありさまで、そのたびにエドワルドは大仰に嘆き、ナターシュとシャナハは揃って謝罪し、次こそはと約束しつつも同じことを繰り返すのだった。
「だって、エドワルドさまがあんまり激しくなさるから……」
「激しくって、あんな撫でたくらい、言うなればそう、挨拶みたいなものだろ。重要なのはここからでだな」
「じゃあ、もっともっと……?」
こういうときの弁明はシャナハの担当である。膝丈の夜着からあざとく素足を見せて、ちょっと頬を染めて上目遣いに見上げれば、喧嘩になるどころか朝の早くからでれでれとやに下がる。
「そう、もっともっとだ。だから、な?」
雨のような口づけがくすぐったくて、シャナハは身を震わせて笑う。そのまま名残を惜しんでむちゅむちゅと転がりあっていると、バーバラが扉を叩いて朝食の準備ができたことを告げにくるのだった。
エドワルドは資材の調達を十日ほどと見積もっていたたが、材木を載せた商船の到着が遅れていて、群島での滞在が長引く旨の親書を携えた魔法の鳩が竜の国に向かって発った。手紙を書くかと問われ、便箋と向かい合ったものの、書きたいことが多すぎてちっともまとまらない。結局、元気でやっているのでご心配なく、といったつまらぬ文句を連ねただけだった。
『それでも一月ほどしかいられないんだよね……早いね』
泳げるようになり、アジサシの操船も覚束ないながらできるようになった。北王国語も自己紹介程度ならつかえずに話せる。海の民の暮らし、エドワルドの領主としての仕事ぶりは見飽きることがなく、大まかに指示を与えればリフィジやクレムが、そしてバーバラが完璧な成果を持ち帰るのは、各人の能力だけでなく信頼関係がしっかりと築かれているからであり、町や港の人々もエドワルドの名を出せば渋い顔をしつつも要求を呑んでいるようだった。近さゆえ、かつ利害が明確で簡潔なところが受けているらしい。
住人たちと距離が近いのは高山地帯でも同じだ。ダリンやティレは領主筋に忠誠を誓い、誰からも慕われている。この良好な関係をそのままに、国を開いて維持してゆかねばならない。
そうできれば話は簡単だが、人の数が増えればまつろわぬ民も増える。犯罪者だけでなく、竜の国の考え方が合わぬ者もやってくるに違いない。そして血が混じり、薄まって、竜との縁はますます遠くなるだろう。そうなったときにどうやって国を守ってゆくのか。始祖竜の威光に屈さぬ者に正統を説いたところで埒があかない。
ゆくゆくは竜舎を建てる、とエドワルドが公言している、館の東の平地に腰を下ろしてぼんやりと海を眺めた。スピカが草地に鼻面を突っ込んで蝶をからかって遊んでいる。時折手を伸ばして草や土を払ってやりながら、まとまらない考えを持て余していた。
竜の国の軍服を脱ぎ、巻きスカートと編み上げサンダル、腕と臍をむき出しにする綿地の襟なしシャツにざっくりした風合いの麻の上着を羽織っただけ、といった今の服装では気分転換にスピカに乗ることもできない。出口を求める思考がぐるぐると巡るばかりで、気が重かった。
竜の国はどうあるべきか。開かれてゆくべきだと思う。南大陸の国々と交易し、北王国とも国交を持って。しかしその先、どこが目的地かがわからない。問題が大きすぎて、こちらを立てればあちらが立たず、向こうには大穴が開く。具体的に考えられない。
翼が風を切る音がして、見上げれば赤銅色の巨躯が悠然と空に舞い上がるところだった。ファゴを放ったエドワルドはナターシュと背中合わせに座り、投げ出していた手に指を絡めた。
「そのまま聞いてくれ」
背後からの声にはい、と応じたものの、いつまでたっても手はそわそわしていた。何かあったのだろうか。
「いやでなければ、明日、結婚式をしないか」
「えっ」
「もちろん仮のだけど。衣装がほぼ仕上がったそうだから、その……着てみるだけでも、と思って……それで、竜の国に帰る前に式を、と思ったんだが」
そっと振り返ると、俯いたエドワルドの耳は炎の髪に負けぬほど赤く、あんなことやそんなことまでしておいて、どうして今さら純情ぶって照れるのかとこちらまで恥ずかしくなってくる。彼の身分と地位、権力があれば結婚式のまねごとなど何度でも、望めば毎日だってできるだろうに。
『早く! 早く行こ! エドワルドさまの盛装! おめかし! 見たいでしょ!』
シャナハが転げ回っている。万事、彼女のように欲望に忠実に割り切れたならどんなに楽だろう。替わってもらうことにする。照れているのはエドワルドばかりではない。
「エドワルドさまが誂えてくださったドレス、とっても楽しみ! ここのお式って、独自のものなんですの? それとも北王国の?」
「あー、色々だな。どんなふうにしたいかって、当人らの希望も聞くけど。大抵は船かな。寿ぎのための特別な船を……マナヅルっていうんだけど、それを飾りつけて、海に愛を誓う。夫婦が作った花束を海に流して、祝いの酒を振る舞って……日暮れまであたりの島を巡ってさ、その夜は船で泊まるんだ」
「素敵!」
その光景を思い描くだけで胸が高鳴る。何しろ船で泊まるときた。つまりはそういうことなのだろう。
「竜の国ではね、王宮の隅に結婚の宴のための建物があるんです。良い日は早々と予約が埋まってしまうから、くじ引きで決めることもあるそうですよ。竜の鱗を模して端切れを縫い合わせたカーテンだとか、壁掛けだとかを花嫁が用意して、新居に飾……ああ、あたしも何か用意すればよかった」
大抵は結婚の話が纏まれば繋ぎ布の用意を始めるのだが、地震が起きてからこちら、慌ただしくてエドワルドとの婚礼に間に合わせるという考えがすっぽり抜け落ちていた。いくら政略に基づいた婚姻であるとはいえ、夫婦になるのだ。大切な風習を思い出しもしなかった己の薄情さに泣きたくなる。
『しょうがないよ、わたしもそんなこと、思いつきもしなかったし……』
ナターシュが慰めてくれるが、姉も後悔していることがありありと伝わってくる。
「これから、余裕と時間のある時に用意してくれればいいさ。新居って言ったって、しばらくは落ち着かないだろうし。その気持ちだけで嬉しい」
「エドワルドさま」
ぎゅっと腕にしがみつく。頼もしい腕だった。
エドワルドが夕陽を負って現れた日、この腕が高山地帯に、竜の国に、そして自分たちの身にどんな酷いことをするのかと不安でならなかった。
国交のない北の国についてシャナハは何も知らず、「北王国の連中は血も涙もない、まさに悪魔だ」とか「海峡の海賊どもにとんでもない目に遭わされた」とか、南の国から聞こえてくる噂を信じ切っていた。
蹂躙と狼藉をエドワルド自身が仄めかしたこともあり、あの日のナターシュは心の底まで怯えきっていた。シャナハとて同じだ。恐怖を押し込めて表に出たのも、このまま姉に任せていては壊れてしまうと感じたからだし、いくらか演技に長けている自分が従順なふりをすれば、彼とて手加減してくれるのではないかと思ったからだった。受け身になるのではなく、積極的にねだって誘導する方が傷は軽く済むはずだと。
しかし彼は入れ替わりを見抜き、意外なことにこの上なく優しかった。恐怖による強張りやわだかまりをひとつひとつ解きほぐすように触れ、撫で、シャナハを誘った。未知の扉を開けてくれた。次第に演技を忘れて没頭し、本心から欲した。エドワルドの昂ぶりを目にして、これまで蔑視に晒されてきた己をほとんど初めて誇ったし、彼は一度たりとも無理強いしなかった。結果としてこの身は未だ清いままだ。
身の純潔が価値を持つなら、エドワルドに捧げたいと思う。そうでなくとも、彼の傍にいたい。すべてを託し、託され、さらけ出して受け止めて、隣に立ちたい。ゆくゆくは背を守れるようになりたい。
婚姻がそれを保証するものでないことくらいは承知している。それでも、妻にと望まれたことは何にも代えがたく喜ばしく、誇らしく、エドワルドを愛おしく思う。
ファゴが舞い降りてきた。スピカが空を仰いで赤竜を迎える。
竜たちも海のにおいに慣れ、海辺で暮らすことに馴染んだようだった。新たな環境が合わなければどうしようかと心配されていたファゴが海を好んだことには誰もが驚いたが、エドワルドは「さすがおれの竜だ」と威張っていた。
「行こう。着て見せてくれ」
「はい」
腕を引かれて立ち上がる。繋いだ手の指が絡んだことに、ナターシュだけがまだ照れている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます