五 重波(2)

 予定通り五日の航海を経て、船は海峡群島に到着した。エドワルドが拠点としている島は本島とだけ呼ばれていて、高山地帯よりずっと広い。港には大小の船が停泊しており、思っていたよりも多くの人が行き来していた。色鮮やかな天幕や露店が並ぶ一角がくだんの海市だろう。

 船はすべて帆を畳んでいたが、船体に描かれた模様や人々の服装から、大陸の南北を問わず、さまざまな国の人々が入り交じっているのだと知れた。


「おやぁ、エディ様じゃねえか」

「おーい、エディ様のお帰りだ!」


 人足たちの声が市へと連なってゆく。南大陸の言葉は辛うじて聞き取れるが、北大陸語や訛りの強いものは理解が及ばない。けれども、人が続々と集まってくることから、エドワルドが慕われているのはよくわかった。


「ちょっと場所を空けてくれ! 竜を下ろすから!」


 船縁から身を乗り出したエドワルドが叫ぶと、竜、竜だって、とどよめきが港を覆った。ファゴがそわそわしているのを何とか宥め、じっと我慢しているスピカを撫でてやる。エドワルドが渡し板を下り、ナターシュも続いた。地面が揺れている気がする。

 振り返って竜を呼ぶと、四頭の竜はばっと翼を広げて飛び立ち、背後に控えた。おお、と畏怖と感嘆が広がるのを確かめて、円弧を描いて見守る人々の目に触れるよう、エドワルドが進み出る。


「留守の間変わりはなかったか? 知っての通り、地震のあった竜の国へ見舞いに行ってきた。こちらはかの国の四の姫、ナターシュだ」


 手招かれて隣に並ぶ。名乗ろうと息を吸い込んだところでひょいと抱え上げられ、空気はあまり上品でない悲鳴に化けた。


「妻に迎える。どうだ、お前たちの待ち望んでいた花嫁だぞ!」


 丸太のごとき腕を剥き出しにしたむくつけき人足たちは、ぽかんと口を開けてこちらを見ている。恥ずかしい。下ろしてほしい。


「つまり、人道支援と見せかけて姫君を攫ってきたってことですか」

「見せかけてとは何だ、ちゃんと支援はしたし、これからも継続する! そうだ、資材の調達があるんだった。客人たちに失礼のないようにな! 用事があればリフかクレムを通せ」


 かくして、衆人環視の中、得意満面のエドワルドを先頭にナターシュらと飛竜は本島を突っ切る形で領主の館まで行進したのだった。耳の早い者が花やちょっとした菓子を携えて現れ、竜の噂を聞きつけた老若男女が後に続いた。警戒の色が薄いのは、交易の盛んな島ゆえだろうか。

 領主の館は町外れの岬にあり、白壁と青い屋根が瀟洒な二階建てだった。マグリッテの屋敷よりも小さく、決して立派なものではない。身分に相当するものだとも思えないが、町から岬への道はきちんと清掃が行き届き、噴水のひとつもない館の前庭からは町と港の様子が一望できた。

 町も港も海もいちどきに眺められるこの場所は、特等席なのだとナターシュは知った。美しいものも猥雑なものも何もかも、代々の領主たちは見つめてきたのだろう。


「夕方、陽が落ちていくときがすごく綺麗なんだ」


 胸の内を見透かしたようにエドワルドが言うものだから、どきりとする。


「エドワルド様、竜はどこに?」


 セトの質問に、後ろにいたリフィジが大工を手配しましょうと請け負った。


「雨風を凌げるほうが良いでしょう。東に土地がありますが、ひとまずはこの前庭に」

「お願いします」


 西の防風林の際で四頭を休ませた。竜に水を与えていると、大音響とともに館の扉が開け放たれ、玄関から黒と緋色の塊が飛び出してきた。


「え、でぃ、さまぁーっ!」


 呼ばわる声が咆哮のようだ。コーティが震え上がり、双子は頬を引きつらせながらも手にした棍を構えた。エドワルドが片手を挙げて両者を制する。


「遅くなったことは謝るが、その威嚇は止めろ。皆が怖がってるだろ。……ナターシュ、バーバラだ。館のことを任せている」


 お仕着せがはちきれそうな巨躯である。全身の筋肉がぴしりと動きを止め、隙なく一礼した。白いシャツはしみひとつなく、襟はぴんと伸びている。ズボンの折り目も正しく、黒革の靴も新品と見紛うほどに磨き込まれていた。


「執事を仰せつかっております、バーバラと申します。エドワルド殿下の留守を預かっておりました」


 緋色の髪はまるで話に聞く獅子のたてがみ、彫りの深い顔だちながら肌が白いのは南北の混血であるらしかった。背丈は長身のリフィジをも越えるだろう。豊かに響く声は太鼓のよう、腿に添えられた手は扇ほどもある。見かけとバーバラという名が一致しない。


「本名はバルガドスだ」

「エディ様っ! その名は過去とともに封印したと申し上げましたでしょ! ……どうかバーバラとお呼びくださいましね」


 ばちん、と片目を閉じてみせる。驚いたが、彼女のたたずまいからは敵意も害意も感じられず、眼差しは陽気で真摯だった。ほとんど真上を見上げて、一礼する。


「承知しました。竜の国より参りました、ナターシュと申します。こちらはコーティ、わたくしの侍女です。あちらはセトとハルト、護衛として同行させました」

「おれの妻として来てもらった。ナターシュの言葉はおれの言葉と思え」

「つま、でございますか」

「そうだ。不満か」


 バーバラはナターシュの前で膝をつき、ごつい手を巌のような胸に当てた。


「不満も何も……ナターシュ様、エディ様の数々の無礼、謝罪申し上げます。目的のためなら手段を選ばない方ですから……酷いことはされませんでしたか? おつらいことがありましたら、いつでもこのバーバラにお申しつけください。バーバラはナターシュ様のお味方です」


 屈んでも小山ほどもある巨躯の向こうで、エドワルドが大仰に肩をすくめている。

いつものことらしい。


「大丈夫です、バーバラ。エドワルドさまは危険と困難を顧みず、被災した竜の国に手を差し伸べて下さいました。わたしがここにいるのも望んでのことです。おおむね同意いたしますけれど、心配は無用です。どうか仲良くしてください」


 まあ、とバーバラは茶色の眼を潤ませた。感情の振り幅が大きいらしい。素直でわかりやすいが、エドワルドが留守を任せるくらいなのだから、単なる変わり者ではなかろう。

 彼女のシャツの袖から覗く腕の内側に、引き攣れた痕があることにシャナハが気づいた。詮索はしない。


「さあ皆さま、どうぞ中へ。お疲れでしょう、すぐにお茶を用意しますわね」

「わたくしも参ります」


 進み出たコーティを、バーバラはにこりと笑んで無言のままに受け入れた。他に使用人らしき姿はない。尋ねると、通いなんだ、と答えが返ってきた。


「家一軒維持するのに、そんなにたくさんの手はいらないだろう。ああ見えてバーバラが器用でな、助かってる。人手が必要なら港から呼んでくればいい」


 応接間と呼ぶのが相応しい、気持ちの良い一室に通された。ハルトが扉の外に立って、「すげえ、護衛みたい」と小声で感激している。

 部屋は南向きで明るく、ガラス戸の向こうは海にせり出した露台だった。寄せて返す波の音が心地よく、いつまでも海を眺めていられそうだ。初めて訪れた知らない場所なのに緊張はなく、帰ってきた、という気さえする。

 シャナハもすっかりくつろいでいて、いいところだねえ、とため息をついた。


「今後の進め方だけ簡単に整理しておこう」


 ワゴンを押したバーバラとコーティがお茶と焼き菓子、砂糖をまぶしたレモンの皮の甘煮を整えて退出してから、ナターシュとエドワルド、リフィジとクレムはめいめい長椅子に腰を下ろした。

 長椅子は籐製で、座面が広い。腰枕が積み上がっているのを見るに、好きにゆったり座る形式のようだった。


「リフィジはまず竜の国に送る資材の調達と……あとは向こうに大工と医者と薬師を手配しておけ。竜舎のことも任せた。バーバラに竜の餌の作り方も徹底しておいてくれ。クレムはライオット先生に出張授業を頼んで、あとは、その、宴の準備をだな」

「なんで照れるんです」


 クレムが意地悪く混ぜ返す。


「エリザベス様にもお知らせしておきます。あとのことは本国の対応次第ですが」

「そうだな……ああ面倒臭い」

「そう仰らず。ナターシュ様に案内人をおつけしましょうか。エディ様は留守中に溜まったお仕事がありますからね」


 有無を言わせぬ調子でエドワルドをねじ伏せ、リフィジとクレムは笑顔で焼き菓子に手をつけた。頭を抱えている主君など目に入っていない様子で、有能な夫婦はナターシュに向き直る。船旅の疲れなど微塵も感じられない。


「いかがですか、こちらは」

「いいところだと思います。北の悪魔だなんて噂でしたから、怖い人が多いのかと……でもみんなすごく朗らかに笑っていて、風通しが良さそうで」

「エディ様がそうなさったんですよ」


 リフィジの言葉には誇らしさと達成感が滲む。命じたのはエドワルドでも、実際に荒くれたちとの間に立ったのは彼なのだろう。


「これからはここもおまえたちの故郷だ」

「……はい」


 故郷。何気ない一言にわけもなく感情が高ぶって、ほろりと涙がこぼれた。


『どしたの、ナターシュ、大丈夫?』

「大丈夫……ごめんなさい」

「じゃ、今日は疲れてるだろうから明日から早速動いてくれ。頼んだ」


 しっしと手を払って部下を追い出したエドワルドの唇が目元を啜る。

 太陽は眩しいが、大きく開いた窓から涼しい風が入ってきて心地が良かった。腰枕に体を預けたエドワルドに抱かれているうち、潮騒にさらわれるようにして眠りに落ちた。

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