五 重波(1)

 竜の島の絶壁を越えてやってきた空飛ぶ船は、海の民の魔法使い三人が協力して操船するのだそうだ。空を飛べるだけでなく、もちろん航海にも使える。魔法使いたちがむにゃむにゃと呪文を唱えると、帆柱に刻まれた文字が光り、帆が大きく膨らんでふわりと宙に浮いた。

 竜に乗って飛ぶときは風や加速を感じるが、それもない。浮き上がる際には耳の奥に違和感があるし、移動の際は後ろへ引っ張られてよろめくが、慣れるとちっとも気にならなかった。

 魔法船での旅は初めてでどきどきする。空を飛んでいる間は甲板に出るなと言われたのは不満だが、操船に携わる魔法使いたちも命綱をつけているのを見ては黙るしかなかった。転げ落ちたり風に飛ばされたりしてはたまったものではない。

 コーティも、護衛として同行した竜使いたちもナターシュと同じく、竜の島を出るのは初めてではないが、騎乗して見るのとはまったく異なる海や空の様子が興味深く、窓を破らんばかりに額を寄せている。エドワルドの要請で連れてきた飛竜は甲板に繋いでいるが、大人しくしているようだった。

 船は緩やかな坂を滑り降りるように高度を下げてゆく。陽の光を反射してきらきらと輝く水面から目を離せなかった。海はみるみる近づき、このままだと船首が水没するのではと危ぶんだところで、大きく傾いた。慌てて窓枠に掴まる。ほどなくして重い振動が船体を揺らし、着水したことを知った。

 先ほどまでとは違って、大きくゆったりとした揺れが足下から伝わってくるのは、波だろう。皆が揃ってほうと息をつく。


「ほらほら、海ですよ、姫様!」

「ばか、そんなの見たらわかるよ」


 双子の竜使い、セトとハルトは海など見慣れているはずなのにはしゃいでいる。彼らにはダリンも一目置いていて、若手ながら経験豊富で気も利くと護衛に推してくれたのだった。今年二十歳になったばかりで、ナターシュとも気安い。

 遠足の引率か、と苦笑していたのはエドワルドで、ぼやいてはいるがまんざらでもなさそうだ。彼はリフィジとクレムをはじめ、海の民の半数を率いて海峡群島へと向かっている。残り半数はホークが束ね、引き続き高山地帯ナッシアに留まっていた。


「こんな大きな船が飛ぶなんて不思議ですね。竜にだって持ち上げられないでしょうに」


 控えめなコーティまでもが頬を染め、目を輝かせている。彼女は船のつくりにも興味を示し、機能的にまとめられた厨房や真水のやりくりなど、航海中の生活を支えるあらゆることを知りたがった。海の民らは快く船内を案内してくれ、手伝いを申し出ると喜んだ。

 船が動き出すと、慣れぬうちは危ないからと食堂で過ごすよう言われ、窓に張り付いていたナターシュらだが、海の民はほとんどがそれぞれの持ち場について働いていた。休憩を割り当てられた者は食堂や船室で思い思いにくつろいでおり、初めて外洋に出るナターシュらに知識や海の民らの伝承を授けてくれた。


「親切だよな」

「俺たち、よその人たちとこんな風に付き合ってきたっけ」

「なあ」


 セトとハルトが難しい顔をしつつ、小声で話している。ダリンが年嵩の手練れでなく、まだ若い双子を護衛に寄越したのは、本人たちの好奇心もあるだろうが、次の世代を育成するために違いない。

 コーティが船員の生活に興味を示したように、双子は船の仕組みや操船術、航海術に興味を持った。槍術と棒術を得意とし、平衡感覚にも優れた彼らは手足の力で帆柱を上り、海の民らが好む紐の結び方を覚え、風の読み方、雲と天候の変化について経験を語り合っていた。

 高山地帯での暮らしに明確な不満はなくとも、外国を見る機会があると知ってこんなに生き生きするのであれば、それはやはり国のありようとしては道を狭めすぎてい

たのだろうと思う。


「船が落ち着いた。甲板に出てみるか?」


 顔を出したエドワルドに向けて一歩を踏み出しかけた双子が、揃って振り返った。ハルトがわざとらしく咳払いをする。


「いかがですか、姫様?」

「いいよ。みんなで行きましょう」


 にやにや笑いを隠そうともしないエドワルドは、やはりと言うべきか高山地帯にいるときよりも肩の力を抜いているようで、口調もくだけていた。もともと海の民らは彼を王族とは見なしていないらしく、長とは認めつつも飾らず気さくな間柄であったし、セトとハルトはファゴが騎乗を許したという一点において彼を尊敬の眼差しで仰いでおり、未知の土地へ向かう緊張や不安は薄かった。

 かといって完全に浮かれていたかといえばそうでもなく、学ばねばならぬこと、持ち帰らねばならぬこと、託された期待の大きさはそれぞれに自覚しており、災害の傷跡も生々しい高山地帯を後にする負い目もある。何もかもが目新しく、心が浮き立つのを、はしゃいでいる場合ではなかろうと自制しつつも、地震が起きてからの約ひと月でひどく消耗していたのだと思い知った。

 甲板に上がると、海のにおいと強い風に足がすくんだ。ひとつ深呼吸して気持ちを落ち着けてから、長いスカート姿のコーティが煽られぬよう手を差し伸べる。俺が、とすかさず腕を貸してくれたのがハルトで、この青年がコーティのことを憎からず思っているのは、当人らを除いて誰もが知るところであった。


「ありがとう」


 コーティが小さな声で応じるのに、セトと顔を見合わせて頷く。


「ナターシュとコーティは軽いから気をつけろ。服を着たまま海に落ちたら……」


 そこでふとエドワルドは言葉を切り、ナターシュらを見回した。


「泳げる人」


 沈黙。波の音だけがざあざあと低くうねる。


「……だよなあ、川も湖も見なかったし。まずは着いたら水練と……そのなりじゃ目立つから服が必要だな、うん。ナターシュはこっちへ。皆はちょっと待っててくれ、リフに案内させるから」


 エドワルドに従って再び船内に戻る。甲板で外の明るさ、まばゆさにようやく目が慣れたところだったので、洞窟へ潜る心地だった。船長室に通される。窓があるおかげか、手狭さがいくぶんか和らいでいた。

 船長室、と立派な呼ばれようだが、床に絨毯が敷かれ、机や戸棚といった調度が揃っているくらいで、広さは他の船室と大差ない。右手の扉は恐らく寝室へ続くもの、目を引くのは左手の壁に留められた、世界地図だ。

 手招かれて右手の扉を潜る。ほとんどを寝台が占める小部屋で、その寝台にしても質素というほかはない。横になれば窓の外が見えるだろうことが唯一、魅力的だった。それにしても、夜になれば何の灯りもない海は黒々としているばかりだろう。


「王室御用達の豪華船ではないんだ、無駄は省かねば航海に障る。嵐になれば余計な調度が転がってきて怪我をする可能性もある。万一、窓を破ってみろ、冗談にもならんぞ」


 内心の困惑を見透かしたかのように、エドワルドが言葉を足した。


「戸惑うだろうが、合理を突き詰めた結果だ。すぐに慣れる。あと、潮風で髪や肌がべたついて気になるだろうが、真水は貴重でな。一国の姫に節制を突きつけるのは心苦しいが、湯浴みは二日に一回だ。まあ、身体を拭くだけになるだろうが。港に着けば好きなだけ湯を使わせてやるから、船の上では我慢してくれ」

「はい」

「コーティは厨房周りの仕事、双子には船員に混じって雑用をしてもらう。時間が空けば船のことも教えてやれるだろう。客人に雑用を押しつけるのは流儀に悖るが、正直なところ操船に足るぎりぎりの人数しか連れてきてないんだ。力を借りる」

「もちろんです。わたしもお手伝いします」


 真面目に申し出たつもりなのに、エドワルドはぷっと噴き出した。


「おれたちは雑用係じゃない。いや、ある意味一番の雑用係だが、基本的にこの部屋から動かん。ふらふらしていては示しがつかんし、ここに責任者がいると明らかにしておくことは重要だからな。海図の読み方を教えてやろう。それから、北王国の言葉も」


 それから、と息を継いで、顔を寄せてくる。


「夜はここで眠れ。いいな」

「はい」


 軽く唇が触れ合って、至近距離で翠の眼がまたたく。


「花嫁衣装も用意しなくちゃな。着いたらすぐに採寸させる。どんなのがいい」


 花嫁衣装。まったく心になかった一言に、かっと頭に血が上った。頬が熱い。


「お気に召すならなんでも……」

「純白よりも、少し色があった方がきっと似合う。満月みたいな、柔らかい黄色はどうだ。真珠を用意しよう、珊瑚も、貝細工も。たくさんな」


 熱を帯びた双眸は、まるで大冒険に赴かんとする少年だ。頬が緩んだ。


「もしかしてずっと、そういうことを考えていらしたんですか」

「ずっとではない」


 むっとしたふうに反論するさまがおかしい。それだけ望まれていることが嬉しく、誇らしい。狼煙に応じて現れたあの日、赤く滴る夕陽を背負って粗暴に舌なめずりしていた北の悪魔、残虐な侵略者と同一人物だとはとても思えなかった。

 ずいぶんほだされたものだ、と心の片隅に浮かぶ冷笑は、繰り返される口づけに潤み、溶け落ちた。


「エドワルドさま」


 熱い抱擁に呼吸が詰まる。波の音とエドワルドの鼓動が重なって、ナターシュを揺さぶる。

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