四 風巻の都(2)
「恐らくは。本人は認めませんし、医師もきちんと状態を把握できずに困っているようです。わたくしたちはあまり丈夫なたちではありませんし、いつ何時、どんな病に伏せるか誰にもわかりません。ですからナターシュ、何が起こるかわかりませんから、父上に目通りは叶いません。エドワルド殿下も、どうぞご理解を賜りますよう」
エルシュは読書家で勉強家だ。陽の光に弱く、すぐ皮膚が爛れるために室内で過ごすことが多く、同じく移動を制限されていたナターシュとシャナハに、読み書きや効率の良い計算の仕方、地図の見方を教えてくれた。北王国や海峡群島のことを最初に教えてくれたのもきっとこの姉だ。彼女が言うなら本当なのだろうと納得するほどには信頼している。恐らくはきょうだいの誰もが同じだ。
エドワルドのおもてに、都に来て初めて困惑が浮かんだ。すぐ外交用の表情に変わったけれども、父王の病は間者の誰も把握していなかったに違いない。
「もちろんです。こちらこそ出過ぎたことを申しました」
「事情があるにせよ、高山地帯への連絡が後手に回ってしまったのは我々の落ち度です。平にご容赦ください」
頭を下げるジャリヤに、悪戯っぽく片頬を歪めてみせるエドワルドは、きょうだいたちと友好的にことを進めてゆくと決めたらしい。
「それは私ではなく領主殿に。たいそうお怒りですから」
「叔母様、怒ると怖いから!」
ニーニャが華やかな笑い声をあげる。不謹慎だと窘める声はなかった。マグリッテの怒りが凍える炎、身の毛もよだつ冷ややかさであることは確かで、おまけにここにいる全員が一度ならず経験しているから苦笑するしかない。冗談としてはぎりぎりだったが、エドワルドが高山地帯に滞在しており、こうして直に都まで下りてきた以上、今後は山道の復旧も急いで進められるだろう。
ふとエドワルドがこちらを見た。ぴょこんと心臓が跳ねる。
「そろそろ眠いんじゃないか」
「あ、そう、ですね」
これまでならニーニャが「大きな赤ちゃんね」などと言って辛辣にからかってきたのに、今日に限って何も言わないのも、エドワルドの存在ゆえだろう。下がりたいと口にする前に立ち上がったのは、驚いたことに兄だった。
「では妹君を送るとしようか。殿下はどうぞこのまま」
「はい。……おやすみ、ナターシュ。シャナハも」
「おやすみなさい。義兄上、姉上」
まばらなおやすみの声に送られ、兄の後ろを歩く。案内がなければナターシュは城を歩けない。どこに何があるのか、すでに記憶は薄らいでいる。
国事などで城をおとなう際は客室に通されていた。今日も同じらしい。
『兄上、どうしたんだろうね。今日に限って』
侍女に案内を引き継ぐのかと思いきや、アルブランは客室が並ぶ棟まで無言で歩いた。不思議と言うよりは不気味だ。お気に入りのドレスを鋏でずたずたにされた、あの羞恥と悲しみと怒りはまだ鮮明に刻まれている。
五歳になったばかりの頃だった。新しく誂えてもらったドレスが嬉しくて、シャナハとはしゃいでいた。気づいたら怖い顔のアルブランが側にいて、青いふわふわのスカートを掴むや、鋏で一直線に切り裂いたのだ。シャナハは驚きで凍りつき、ナターシュは恐怖で喉が詰まった。「やめてください、あにうえ」何とか絞り出した懇願を一顧だにせず、彼はスカートを短冊状に裂いて、悠々と姿を消した。エルシュが見つけてくれるまで、物陰で声を潜めて泣いたあの日。
ドレスはもちろんお払い箱になった。兄が叱られたのかどうかは知らない。エルシュが大人たちに訴えたのでなければ、誰にも露見していない可能性もある。以来、ナターシュは兄が苦手だ。次は何をされるのか、冷たい青い眼がこちらを向くたび呼吸ができなくなる。
客室の前で足を止め、アルブランは振り返った。褐色の肌に色の薄い金髪。自分と同じ顔、同じ色彩なのに、怖くてたまらない。
まだ夜も浅い時間だが、周囲には誰の姿もなかった。コーティはどこへ行ってしまったのか、周囲を見回したいのを必死でこらえる。
「私は、ずっとシャナハのことが好きだった」
「えっ」
『えっ』
唐突な告白は夜の静けさに呑まれて消えた。シャナハが呆然としている。ナターシュも同じだ。
「異常だということくらい、子ども心にもわかっていた。だから誰にも言えなかったし、おまえが憎かった。シャナハの一番でありたかった。どうしてシャナハが消え、おまえが残ったのか……理解はできても、納得はできなかった」
替わって、と固い声に促されて交替する。
そういえば、兄が意地悪をするのは決まってナターシュだった。ナターシュの本を取り上げ、ぬいぐるみの手足をもぎ、スカートを裂いた。まるで我がことのように思っていたが、彼は一度としてシャナハに手を上げたことはなかった。
「言ってくだされば、いつだってご挨拶しましたのに」
「……シャナハか? 自分がおかしいと認めるのはつらい」
「そういう時には、ナターシュに意地悪をするのではなくて、あたしに好きと言ってくだされば良かったのよ、兄さま」
アルブランは苦く笑った。そうだな、とこぼれた声は抜け落ちた棘を含んで重い。
「父上の様子がおかしくなって……心底怖いんだ。ずっと母上を呼んでる。誰の声も届かないみたいでさ。正気に戻ったとき、錯乱してた時間のことを覚えてないのがなお悪い。私も昔、あんなふうだったと思うだけで死にたくなる。エルシュも言ったが、危なくておまえたちとは会わせられない」
「せっかくエドワルドさまをご覧に入れて驚かそうと思っていたのに、残念ですわ。あっ、言っておきますけれど、兄さま、エドワルドさまに手出ししたらただじゃおきませんからね?」
「わかっている。私だってもう、子どもじゃない。自分のすべき事は承知しているつもりだし、我慢も覚えた。殿下も隙のない方だし、国内でシャナハの魔法を敵に回したくない。勝ち目がない戦いを挑むほど愚かでも無謀でもないさ」
胸の裡で、ナターシュが安堵の息をつく。そのまま眠ってしまったようで、静かになった。
「可哀想なナターシュ」
「悪いことをしたとは思ってるよ。すまなかった」
姉がアルブランに抱く恐怖は相当のものだ。シャナハも兄を怖いと思っていたけれども、冷静に考えればナターシュの感情に引きずられている部分が大きい。ドレスを裂いた無表情とうつろな眼を除いては。
「近々、資材の調達のためにエドワルドさまが海峡群島に戻られる予定なのですけど、おばさまがお許しくだされば同行しようと考えているんです。戻りましたら、またご挨拶にあがりますわ」
「待ってる。どうか無事で」
踵を返した兄の姿が見えなくなるまで見送り、コーティを呼んで湯浴みをする。眠気で頭がくらくらするが、汗を流したかったのだ。
「お疲れですのに、よく頑張りましたね」
髪を梳いて肌を整え、寝台に横たわった瞬間に眠りの淵に落ち込んだ。
きょうだいとジャリヤ、エドワルドの七人で朝食の卓を囲んだ。あれから長く話し込んでいたのか、エドワルドはすっかり皆と打ち解けており、結婚の話も受け入れられたようだった。ナターシュへの当たりもずいぶん和らいでいる。年始の挨拶に訪れたときはぎすぎすして居心地が悪く、食事も部屋に運んでもらったくらいなのに。
出立の際には、政務があると残念そうなジャリヤを除いた全員が竜舎まで見送りに来るありさまで、竜使いたちが目を剥いていた。
歯を鳴らすファゴを宥め、鞍と
「エドワルド様も騎乗なさるの? すごいわ!」
「ファゴが乗せてくれているんですよ。私は乗って下りる、それだけです」
見栄を張らずに偽りなく事実を述べたことには感心するが、ニーニャは謙遜と受け止めたらしい。にこにこ笑っている。
高山地帯に戻るや、待ち構えていたマグリッテとマリウスと卓を囲んだ。街や港、王宮の様子を報告し、いちばんの問題であろう、父王の病についても隠さず告げた。
「母上とわたしを混同すると聞きました。危ないからと目通りも叶わず……」
ナターシュはラズレラン王の両親、祖父母の顔を知らない。父王の肉親は子どもたちを除けば、宰相にして兄のルディウスと高山地帯の領主マグリッテしかいないのだ。
叔母が難しい顔をしていたのはほんのわずかで、一同を見回したおもてには普段と変わらぬ落ち着きと威厳があった。
「こちらから働きかけると兄上の気に障るやもしれません。私たちも決して余裕があるわけではないですし、復興を優先しましょう。ですが王宮の様子には常に目を光らせているように。マリウス、竜使いを何人か都へ遣りなさい。人選は任せます」
「はい」
「エドワルド様には引き続き援助をお願いすることになりますが……」
「無論です。竜舎や町の再建に必要な資材も試算が終わる頃でしょう。海峡群島で手配して、運んで参りましょう。空飛ぶ船はあの一艘しか手元にありませんので……そうですね、余裕を見てひと月ほどいただけますか」
風が良ければ、魔法の力も借りて五日で着くとエドワルドは言った。往復と資材の手配、余裕を含めれば妥当なところだ。空から見る海峡群島は散歩ついでに足を伸ばせる距離だと思えたが、本島と彼らが呼ぶ海市の島はもっと東にあるそうだ。
「マグリッテ様、ラズレラン王の同意は得られませんでしたが、ナターシュとシャナハを同行させたく思います。いかがですか」
「お願いいたします。遊山に参るのではなく、学んで戻りますゆえ、どうか」
並んで頭を下げると、叔母はころころと笑った。逆にマリウスが渋い顔なのは見ないことにする。
「構いません。どんな状況であっても、風があるなら身を任せるのも選択でしょう。行ってらっしゃいな。私が口を挟むことではありませんけれども、妃と名乗るのはもう少しお待ちなさい。許嫁、婚約者くらいでどうです。……殿下、この子をお願いいたしますね」
「承知しております。不用意に言質を取られるのは本意ではありません。では、早速準備にかかりますので」
屋敷を辞し、別邸に向かう小道に人気がないのを確かめてから、エドワルドが小さく笑った。
「マグリッテどのは気持ちの良い方だな。話が短いのが素晴らしい。長々とご高説を垂れるのが社会的地位の現れだと思っているやつも少なくないのに」
「無駄が嫌いなんですよ。……どうしたんです、そんなに笑って」
朗らかな笑みを隠そうともせずに、エドワルドは肩を揺らしている。長距離を飛んで疲れているだろうに、目元はくすんではいるものの、力を失ってはいなかった。
『かっわいい! 替わって!』
なんでこの人たちはこんなに元気なんだろう、とナターシュは首を捻りつつシャナハと交替する。早く湯を使って横になりたい。都まで同行したコーティも早く休ませてやりたいが、はてさて。
「領主どのに結婚を認めさせたんだぞ。大きな一歩だ」
「そんなに言ってくださるなんて、あたしたちは幸せ者ですわね」
「シャナハ」
エドワルドに呼ばれるたび、全身が喜びにさざめく。もっともっととねだるからだの声がナターシュには聞こえないんだろうか。もっと呼んで、もっとさわって。耳を撫ぜる声が、頬に触れる指が、こんなにうれしい。こんなに楽しい。何もかもが全部ふわふわと浮き上がるように軽やかで、陽の光はきらきら眩しくて、幸せなのに胸がきゅっと痛む。
エドワルドに降り注ぐ祝福のひとかけらになりたい。この気持ちをナターシュにはわかってほしかった。
宙ぶらりんの手を取ると、ほっとしたふうに笑う。可愛いなあ、とこちらまで頬が和らいだ。
『しゃんとしてよ、恥ずかしい』
ナターシュの苦言は無視だ。繋いだ手は今日も熱い。不思議だった。
「今夜またおいで。一緒に眠ろう」
「コーティを早く休ませたいので、この前のようには整えられませんけれど……」
構うものか、と唇がかすかに触れて、すぐ離れた。ナターシュが顔を覆っている。好きなくせに。
「……中途半端にするんじゃなかった」
「じゃあちゃんとなさればいいんです」
またエドワルドは笑った。王子の顔で。
「片づけることを終えてからな。シャナハも旅の準備をしておくんだぞ。クレムを遣ろう。細かい話はそっちに聞いてくれ」
「婚前旅行ですね!」
にこにこと笑ってみせると、案の定と言うべきか、エドワルドは耳と頬を染めた。
「何でそういうことを言うかな、恥ずかしいだろ。ナターシュに怒られる」
「そうですか? でも、楽しみなんですもの!」
ナターシュがじたばたしている。エドワルドと同じくらい恥ずかしがっているようだった。
「おれも楽しみだ」
『お願いだからもう止めて』
ナターシュが悶絶している。我が姉、我が夫ながら可愛すぎやしないか。
あたしたちはきっといい夫婦になる。エドワルドさまとなら仲良くやっていけるし、外交問題だって何とかしてみせる。たくさん赤ちゃんを産んで、そうしたら子どもたちは海峡群島と竜の国の架け橋になるだろう。赤い髪の子だろうか。褐色の肌の子だろうか。
幸せな未来を想像して、シャナハは笑う。
――ナターシュとエドワルドさまのためなら、あたしはなんだってする。
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