四 風巻の都(1)

 年始の挨拶以来、久しぶりの都だった。眼下の山道が地割れや崖崩れでめちゃくちゃになっていたのと同様に、城下町は見る影もなく荒れており、胸が痛む。

 家をなくした人は集会所をはじめ、商店の倉庫や学校などに分かれて避難生活を送っているようだと、案内役兼世話係として同行したティレが語った。石畳はひび割れてめくれ、町のあちこちに瓦礫が山となっているありさまだが、少なくとも人々の顔には前向きなひたむきさがある、と。

 ミジャーラからの船も滞りなく往復しているそうで、食糧や物資の支援を受けられているおかげか、人通りも少なくはない。一行は市街地をぐるりと巡ってから、王宮の竜舎に降りた。何も知らされていないらしい竜使いが、見ない顔だなと言わんばかりにエドワルドの赤毛をじろじろ眺めている。

 彼はファゴに騎乗を許されたばかりながら、単独で危なげなく行程を消化した。強風や雷雨、暑さ寒さへの対処や、何よりも竜の生態や世話のしかたは追い追い覚えてもらわねばなるまいが、騎乗して飛んで下りる、基本的な動きは完全にものにしている。

 この一件で、ダリンをはじめとする多くの竜使いが異国の王子に惜しみない賞賛を浴びせ、これまで海の民に距離を置いていた者も態度を改めることとなった。エドワルド自身の努力もあろうし、ナターシュが二人乗りを了承したこともあろう。姫様が同じ鞍に乗せたのなら、というわけだ。

 ファゴも一度背を許した後は、それが気紛れでなかったと示すかのようにエドワルドに従った。気性の荒さや繊細さは相変わらずだが、並び立つ者として認めたらしい。蒼穹に翻る赤い髪、赤い翼は喩えようもなく美しかった。

 王宮は慌ただしかったが、解決すべき山積みの問題に向けて役人たちが動いているからで、ここにも確かに復興の兆しがあった。ナターシュの顔を知る者が作業を止めて深々と頭を下げ、早口で気まずげに無事を喜んだ。


「忙しいのに手を止めさせてすみません。わたくしに構わず、民のためになすべきことをしてあげて」

「はっ」


 エドワルドは静かに控えている。先に口にしていた通り、随身として振る舞うつもりらしい。竜の国でも彼ほどの鮮やかな赤毛は珍しく、人目を引く。誰ですかと正面から尋ねる者がいないのを残念がっていた。まったく、人が悪い。

 応対に出てきたのは宰相の長男ジャリヤで、ナターシュの従兄弟にあたる。一番上の姉ターニアの夫でもあるから、絨毯に膝をつき、丁寧に挨拶を述べた。王族が直々に顔を出したことからして、今回の訪問はそれなりに重要な出来事だと位置づけられているのだろう。蔑ろにされていないと知れただけでも、来た甲斐があった。

 ジャリヤはワンニを下がらせ、ナターシュとエドワルドを見遣って頬を緩めた。


「ナターシュ、無事で良かった。叔母上もマリウスも大事ないと聞いているが」

「はい、みな無事です。残念ながら亡くなった者もいくらかおりますが、埋葬も済んで、復興に向けて動いております。こちらの、エドワルド殿下にたいへんよくしていただきましたことはお聞き及びでしょうか」

「初めてお目にかかります、ジャリヤ殿下。北王国宗主ウィラードが子、海峡の群島を預かっておりますエドワルドと申します。此度のことは本国を通さず、私の一存で為したこと。国同士のやりとりではなく、一介の民として手を差し伸べたに過ぎませぬゆえ、そのようにお計らい下さいますようお願い申し上げます」


 すかさず進み出たエドワルドに、ジャリヤがたじろぐのがわかった。彼とて、無茶と無謀は理解できていよう。国交のない北王国の王子の「個人的な」申し出に頷くのか、それとも撥ねつけるのか、北王国にも国を開くよう舵を切るのか。


「お顔をお上げください、エドワルド殿下。お心遣いはたいへん有り難く思います。義妹やマグリッテが何と申しましたかは存じませんが、ご厚意をそのまま頂戴することはいたしかねます」


 ジャリヤは直接の兄弟ではないぶん、ナターシュとシャナハに同情的だった。遠慮がちにではあるが、会うたびに言葉をかけてくれたし、誕生日には欠かさず本やぬいぐるみを贈ってくれた。それは今も律儀に続いている。贈り物を、直接向き合わない言い訳にしていることは彼も自覚しているはずで、会うなり露骨に視線を逸らす実兄よりも、ずっと身近に思っていた。

 この生真面目な義兄が体裁を繕うつもりで放った一言こそ、エドワルドが待ち構えていたとものだ知っていたから、毎年の贈り物にかけられたリボンを解く時と同じ失望と親しみを覚える。義兄上、無条件で譲歩してどうします?

 案の定、海賊の王は満面の笑みを浮かべた。何の交渉もなしに望むものを差し出され、勝利を確信したがゆえだ。あながち外交用でもない、心からの笑顔のまま、憚りもなくナターシュの手を取る。


「では、ナターシュとシャナハを私にください。正室として迎えます」

「は?」


 義兄のおもてから表情が抜け落ちるのを、半ば嗜虐的な思いで見つめる。体面も体裁も外交も何もかもが失われ、残ったのは生来の人の好さだった。自由に外を出歩けぬならせめて友をと、うさぎや鳥のぬいぐるみを寄越した甘さと弱気だった。


「それは……その、いいのか、ナターシュ。あ、いや、殿下、失礼をお詫びいたします」

「構いませんよ。誰だってそう思うでしょう」


 エドワルドは白々しく茶を飲んでいる。かと思うと、「シシュ産ですね」と産地を言い当ててみせ、たちまちのうちに力関係を決定づけた。

 閉ざされた小島で、竜への畏怖と神話の威光によって永らえてきた竜の国の王族と、自らの生命を質に活路を拓いてきたエドワルドとでは、生きてゆくために支払ってきたもの、目を見開き耳を澄ませ、取り込んできたものの質と量が根本的に違う。

 ともすれば生き汚さと指さされ嘲笑されかねない貪欲さを、竜の国の人々は――とりわけ王族は、持ち合わせていない。存続が当然と考える大らかさはつまり傲慢だったと今のナターシュにはわかる。足りない。何もかもが足りないのだ、この国には。


「義兄上、おわかりでしょう。北王国……エドワルドさまは力による蹂躙を良しとされませんでした。お手を差し伸べてくださいました。これが誠意でなくて何なのです。お応えするべきではありませんか。おばさまも高山地帯を海峡群島に開くお考えです」

「待て、待ってくれ、ナターシュ。私の一存では答えられない。エドワルド殿下も……王に諮りますゆえ、返答はお待ちいただけるでしょうか」


 もちろん。エドワルドは余裕を崩さない。逃げ出したそうなジャリヤを柔らかく呼び止める。


「ですが、殿下。ナターシュは私への信頼ひとつで見ず知らずの、言葉もままならぬ国へ嫁ごうと言ってくれているのです。どうぞご理解を賜りたく」

「も……もちろんですとも。地震のあと間もなく、ご援助くださったとか。常日頃からの備えがなくば、できぬことです。海峡群島の方々が怠りなく備えておられるのに、不勉強を恥じるばかりです」

『義兄上、いい人なんだけどなあ。いい人だってだけじゃだめってことだよねえ。あたし、ここ何日かで実感したわ……』


 シャナハの嘆息ももっともだ。事実とはいえ、謙遜が過ぎてはエドワルドの攻勢を凌ぎきれまい。


「海峡群島は海に浮かぶ小島ですから、嵐や大波、大風、さまざまな災害に備えねばならぬのです。船を守り、人を守る。そうして信頼を築き、南大陸の船と北王国の船が集う流通の要衝、海市うみいちを立てるに至ったのです。私どもの船を受け入れていただけるなら、技術交換なども可能になるでしょう。もちろん、殿下のご一存では返答できぬことは承知いたしております。こちらには準備があるとだけ、陛下にお伝えくださいますよう」

「それはもう、もちろんでございます」


 対等な立場であるはずなのに、平身低頭のジャリヤを見ていると、言葉で殴り合えた自分はまだ良かったのだと感じる。同じく圧倒されても、義兄とは背負っているものが、量が違う。ナターシュは自分の生命で、身体で高山地帯を購えた。けれど義兄は違う。エドワルドと、父との板挟みなのだ。軽々しく追従することも、拒絶することも難しい。


「義兄上、ひとつだけよろしいですか」

「なんだい」

「エドワルドさまは野蛮な振る舞いは何一つなさいませんでした。わたしが、誰に強

制されることなく自ら頷くまで、ひたすらに待って下さったのです。海の民は高山地帯を救ってくれました。わたしは心から望んで、北の国に、海峡群島にゆきます」


 ジャリヤは黙ってナターシュとエドワルドを交互に見遣り、嘆息して頷いた。


「わかった。ラズレラン王にしかと伝えよう」


 侍女に茶のお代わりを命じ、ジャリヤは去った。海賊の王は薄く笑みながらも、王の出方をあれこれと計算しているのがわかる。


「思いがけず、嬉しい言葉が聞けたな」

「事実を述べたまでですが」


 だからだよ。エドワルドの声が唇をかすめて消える。




 夕食の席に父、ラズレラン王は現れなかった。多忙による心労と体調不良と御典医がのたまえば、形式を無視して押しかけたエドワルドも無礼を理由に切り込んでいくことを躊躇い、ナターシュも言葉を呑むしかなかった。婚姻の申し込みもおのずと先延ばしとなった。


『エドワルドさまを一目見て、ダメ! って言われるよりはましなんじゃない』


 シャナハの投げやりな口調に苦笑する。

 姉たちや兄は物珍しさもあってか、それとも父王の穴埋めか、簡素な装いながら姿を見せ、順にナターシュと抱擁を交わし、北王国の王子に対してはそつのない態度を見せた。四人が代わる代わる父王の不在を詫びれば、さすがのエドワルドも強くは言えないようで、外交用の笑みで応じている。

 卓を囲んでの食事で中心となったのは先にエドワルドと言葉を交わしていたジャリヤで、お喋り好きなすぐ上の姉ニーニャが群島の海市に興味を示してからは、想像していたよりも和やかに会話が弾んだ。意外にも、兄アルブランがエドワルドの領主としての手腕に興味を示し、徴税方法や戸籍の管理、町の衛生や治安の維持について盛んに意見を交わしては、長姉ターニアに呆れられていた。


『兄さまはエドワルドさまと合わないと思ってたんだけどなあ……。あたしたちがお嫁に行けば、厄介払いできて嬉しいってことかな』


 アルブランはナターシュとシャナハをいじめ抜き、長じてからは徹底的に無視した。礼儀であるから挨拶に向かうものの、社交辞令さえも返ってくることはなく、都を避けている理由のひとつでもあった。

 二番目の姉エルシュは人付き合いの巧みさを活かし、アルブランの言葉の足らないところを補い、あるいはより詳細に話すようエドワルドに促して、会話が円滑に進むよう気を砕いてくれている。

 話題は多方面に及び、各国の文化や風習に触れて博識なエドワルドは、珍らかな鳥や詩人のごとくにきょうだいの心を動かしたようだった。進行役から解放されたジャリヤが晴れやかな顔をしていることさえ責める気にならない。

 和やかに食事を終えて部屋を移動し、絨毯の上や長椅子と思い思いの位置に腰を落ち着けて甘いお茶が到着すると、距離はいっそう縮まった。絨毯に直に座ったエドワルドがやや言葉を崩すと、竜の国のきょうだいたちも打ち解け、地震の恐怖や崩壊した暮らしへの嘆き、復興へのあまりに遠く長く険しい道のりに、誰もが不安を抱えていることなどを口々に語った。

 エドワルドはいちいち頷き、相槌を打ち、意見を求められたときに限って海峡群島での事例を述べ、竜の国とは政治形態も状況も異なっているから参考程度に、と重ねた。身を乗り出しているジャリヤとアルブラン、エルシュの姿に、昔とはすっかり変わってしまったと認識を改めざるを得ない。

 都のきょうだいたちはみな、享楽的に過ごしているとばかり思っていた。自分ばかりが僻地で苦労して、民の暮らしを知って、国の行く先を憂いているのだと――特別なのだと思っていた。


『みんな変わったね。……もしかするとあたしたちの見方が偏ってたのかな。こんなに政治に興味持ってるだなんて、思ってなかった』


 シャナハが感心したように囁いた。まったくだ。ターニアとジャリヤ夫妻が海峡群島の話に熱心に耳を傾けている。誰もが現状を良しとしてはいないのも心強い。それなのに父上は、とわずかに心が曇る。


「北王国と行き来ができれば、エドワルド殿下のおっしゃる珍しいものがここにも入ってくるということ? 花や鳥や……楽器や布地も?」

「もちろんですよ」


 ニーニャの好奇心も外へ向いているが、そう簡単には行くまいよとアルブランが窘めた。


「水夫たちは長距離の航海に慣れていない。海峡群島まで往復するとなれば、船の規模も、水夫たちの練度も心構えも、全部違ってくるだろう」

「外海は波も高いですし、群島のあたりは潮の流れも複雑ですから、私どもの水夫か、群島と行き来のある南大陸の国の水夫に教えを乞うことになるでしょうね」


 エドワルドの返答は当たり障りないが、暗に竜の国の水夫では無理だとほのめかしている。ジャリヤとターニアはそれに気づいたらしい。


「交流を持つのであれば、我が国からも差し出すものが必要でしょう。金銭や物品……商人たちが魅力的に感じるものがこの国にあるかしら」

「竜、とか?」


 ニーニャが首を傾げる。髪は鏝も当てられぬまま、ひとつに束ねられている。いつも綺麗にしているのに、と胸が痛んだ。着飾ることを筆頭に、享楽、奢侈にもっとも熱心な姉が控えざるを得ないなんて。

 みなの真摯な視線に晒され、驚く。いまだかつてこんなことはなかった。これもすべてエドワルドの力か。隣に座る男を頼もしく思いながら口を開いた。


「竜を交易に使うとして、魅力的であることは確かでしょうが、圧倒的に数が足りません。それに、竜の飼育や訓練を行っているのがわが国だけでしたら竜は珍重されるでしょうが、外国に出せばそこで飼育を、と流れてゆくのは当然です。各地で竜が生まれ、訓練されるなら高山地帯の竜は価値を失います。竜だけに頼るのは危険かと存じます」


 際どいことを言ったつもりだが、誰も反論せず、生意気だ、暴言だと叩かれることもなかった。シャナハが興味津々で行く末を見守っている。


「国を開くべき時が来たのだと思う」


 アルブランが頷いた。エドワルドを見つめる視線は、幼いナターシュのドレスを破り、無言の威圧と蔑視を寄越した冷酷な兄とは思えぬほど熱を帯びている。


「私も殿下の国を見てみたい。学ぶことはたくさんあるはずでしょうから」

「お断りする理由がございません。……ですが、ラズレラン王はなんと仰るでしょう

か。アルブラン殿下は唯一の王子、お加減が優れないのであればお側にあれと望まれるのでは」


 もっともな言葉に、きょうだいたちは顔を見合わせて気まずげに黙った。父王が姿を見せないのは体調不良もあれど、何よりもナターシュを厭い、混乱の種となりえるエドワルドを疎んじたゆえだと思っていた。どうやら違うらしいと、雰囲気から察する。


「父上は具合が良くないと聞きました。違うというなら、大恩あるエドワルドさまに対して、あまりに無礼が過ぎるのでは」

「具合が悪いのは本当なの、ナターシュ」


 エルシュが片手で制する。視線だけで了解を取りつけ、エドワルド様も、と付け加える。


「国王として望ましい姿ではないのは認めますし、望まれるのであればわたくしたち全員が謝罪します。ですが……父上は極度にお疲れのようで、幻を見聞きするようになってしまって……ナターシュのことを母上と同一視して、あの子は高山地帯にいると言っても、では連れ戻せ、妃が王と別々に暮らすなどあってはならぬと」

「病ですか」


 衝撃で沈黙するナターシュに代わってエドワルドが発した声は、低く淀んだ。

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