三 小夜(3)

「ナターシュ、本気か」

「なにが?」

「エドワルド様に嫁ぐことがだよ。国交もないのに、無茶苦茶だ」


 マリウスの眼は愁いに沈んでいる。褐色の肌に淡い色の髪、彼は従兄弟と言うには似すぎていて、向かい合うたびに王家の血のどん詰まりを感じた。

 彼が順番通り、二番目の姉と結ばれて子をなそうと、道は狭まるばかりだ。今でさえ決して健全なものだとはいえないのに。そうまでして血統を保たねばならないのか、ナターシュにはわからない。その血統こそに救われたとはいえ。

 彼もまた閉塞に危機感を抱き、留学の道を選んだ。外から見た竜の島がどんなふうであるか、他国との文化や考え方の違いを目の当たりにし、焦燥感は高まるばかりだったと言う。打開策はあまりに壮大で、王族とはいえ傍流の彼がなすには非現実的だった。夢に描く理想はいつも美しく、輝かしい。


「マリウスも言ってたじゃない。外の風を入れなきゃって。エドワルドさまは外の方だし、こう言っちゃなんだけど、政争とか王位争いとは無縁だから、変に拗れないと思う」

「そうかもしれないけど、でも」


 今日のマリウスは少しおかしい。いつもなら何がだめなのか、不安要素がどこにあるのか、きちんと理を説いてくれるのに。未知を恐れる人ではないのに。くよくよと思い悩むのは自分の方だ。

 元気のない彼を慰めたくて、つとめて明るく笑ってみせる。ナターシュとて心配はある。不安も大きい。しかし一歩を踏み出さないことには何も変わらない。

 踏み出した先が均された道であっても茨の道であっても、エドワルドが支えてくれる気がした。そのエドワルドが万一にでもあてにならなかったら? 威勢がいいのは口だけかと殴り飛ばして、自分の足で歩いてゆけばいい。スピカで舞い上がればいい。動かずに淀んで腐るより、ずっとましだ。


「大丈夫、マリウス。わたしにはシャナハもいる。強引に進めた方がみんなついてくるかもしれない。困ったことがあれば助けてって言うよ」

「そんな適当なこと言って、北王国に行くなり人質扱いになったらどうするんだ」

「わたしに人質の価値はないし、エドワルドさまはそんなまだるっこしいことはしないよ。北王国がその気になれば、ここなんてすぐ占領できるんだろうし」


 マリウスはついに黙った。肩から垂れる髪をいじって、すぐに手を離す。考え事をするときに髪を触るのは彼の癖だ。ゆるく編まれた髪は彼の魔法の源、シャナハが血を失うのと同様に髪を切って竜を統べる。昔は毎朝、ナターシュが結ってあげたものだが、触れることもなくなって久しい。


「マリウスは王族の中でも数少ない男の子だし、竜の魔法だってある。それってすごい力になると思う。わたしは身軽だから外に出ていける。内と外から働きかければ、父上もきっと考えを変えて下さるよ。ふつうに考えればエドワルドさまがここに来て下さったことだけで、とんでもないんだから。今まで通りじゃいられない。きっと変わるよ。そのときこそ実際に外国を見てきたマリウスの出番じゃない」

「声が大きいよ。反逆罪に問われかねないこと言ってるって、自覚しろよ」

「そっか……そうだね」


 北王国と国交を持つのが最善なのかどうか、判断するのは後世の人間だ。けれども、国を閉ざしたまま進んだ先に道があるとはどうしても思えなかった。


「国を変えていくことに異存はないし、僕もそうすべきだと思う。でも、こんな小さな国だって、何万って人が暮らしてるんだ。急激な変化を嫌う人もいるだろうし、ついていけない人もいる。こぼれ落ちる人を救う方法も考えなきゃならない。簡単なことじゃない。思いきりで解決できないことだってあるだろ。だからちゃんと検討して、皆の意見を聞いて、準備を進めていかなきゃ。やり直しのできないことなんだからさ」


 彼の言うことは理解できる。できるが、どうにも苛立ちが抑えられない。でも。だけど。条件をつけて先延ばしにすることくらい誰にだってできる。そうしてなあなあにしているうちに、わたしたちはここまで追いつめられてしまったのではないか。


「じゃあ、マリウスの準備が終わるのはいつなの?」


 ぽかんとする従兄弟を置いてスピカに跨がった。周りにいた飛竜たちが察しよく場所を譲ってくれてできたわずかな傾斜から、勢いよく飛び立つ。

 マリウスの姿が豆粒ほどの大きさになるのはすぐだった。冷たい風が苛立ちも鬱屈もすべて押し流してゆく。空にいる間だけは、何もかも忘れられた。




 朝駆けの代わりというには長い時間、空を飛んでいた。陽は西の海に没しようとしており、橙色の光景の中で竜たちの影が長く伸びている。上空はひどく冷え、地震で慌てふためいている間にも季節が変わりゆくのを思い知らされた気分だった。

 もう少し厚着をしてくればよかった、と腕をさすりながら鞍を片づけていると、リフィジが珍しく慌てた様子で駆け寄ってきた。


「ナターシュ様、エディ様をご存じありませんか」

「いえ……。叔母のところでは」

「それが、どこにもいらっしゃらなくて」


 屋敷や別邸はもちろん、厨房や竜舎、町にも人を遣ったが見つからないという。


「尻軽ですぐにあちこちに首を突っ込んで、姿が見えなくなるのは昔からですが……もしお見かけになったら私が探している旨、お伝え下さい」

「はい」


 町の方へ走り去るリフィジの背中を見送っていると、シャナハが囁いた。


『竜に訊いてみようか。騎乗の練習をしていたかもしれないし』

「急ぐ用事みたいだし、そうだね、そうしよっか」


 シャナハがほんの少しだけ腕を切った。竜の気配が濃く立ちこめ、前庭にいた竜たちが揃ってかしずく。エドワルドさまを見なかった? 問いかけに反応したのはファゴだ。


『竜舎にはいなかったって言ってたのに』


 ファゴは高山地帯の竜の中でいっとう気性が荒いが、それは繊細さの裏返しだ。地震やその後の環境の変化に戸惑い、暴れるようになった。

 幸い、かれの房は被害がほとんどなかったため、先に竜舎に戻されている。慣れた場所に戻されて少しは落ち着いただろうが、それでも竜使いたちは休む間もなく働き、周りの竜たちは多くが前庭で過ごしている。以前通りとはとても言えない。

 ただでさえ御しにくいのに、ファゴはいまとても気が立っている。エドワルドが騎乗してみせると宣言したところで、かれが許すとは思えない。見慣れぬ者に襲いかからなかっただけでも上出来だと褒めてやりたいくらいなのだ。

 あたりには人気がない。みな竜舎の再建に向けて土地を均す作業に忙しく、興奮してはいるが健康状態に不安のないかれを構ってやれる余裕のある者はいなかった。

 ファゴは落ち着きなく寝そべったり翼を開いたり、ぐるぐると歩き回ったりと動きを止めない。近づいたナターシュを見て目を輝かせ、歯ぎしりした。犬が尻尾を振るのと同じ、親愛を示す行動である。


「ファゴ、元気? ひとりぼっちじゃ寂しいねえ」


 足を踏み鳴らしているところを見るに、運動不足なのかもしれない。少し飛ばせてやろうか。そうすると、誰かに一言断っておいた方が良いだろう。ファゴがいなくなったといらぬ騒ぎを招きかねない。


『ね、竜舎の裏に誰かいる。それでファゴが落ち着かないんだ』


 ファゴの竜舎は端の棟で、裏手は草地である。大人三人分ほどの高さの断崖を下りると町の外れに出るが、滑落の危険性があるので誰も近づかない。逆に言えば目が届かず、意識もされない場所だ。

 早く早くと催促する赤竜を待たせ、ナターシュは裏手に回り込んだ。案の定、エドワルドが立てた膝に顔を埋めて、竜舎に背中を預けて座り込んでいる。


「エドワルドさま」


 遠くから呼びかけると、肩が波打った。驚きを浮かべた翠の眼は見たこともないほど気弱げで赤く潤んでいる。


「泣いてらっしゃるんですか?」

「そんなわけないだろう」

「じゃあどうしてこんなところに隠れてるんです。ファゴの気が散りますから、どこか余所へ移ってください」

『またそんな言い方する!』


 怒るシャナハが隣に座れと言うので、そばへ寄った。手が届かないだろう距離をおいて腰を下ろす。

 エドワルドは両手で顔をごしごしこすって、何でもないのだと繰り返した。


「だって、眼が赤いですし」

「寝てたんだ。欠伸したから涙が出た。それだけだ。あなたは何も見てない。いいな」

「いいなも何も」


 倣って膝を抱える。山岳の、ほんのわずかな平地で肩を寄せて暮らす高山地帯の町が夕焼けに染まっていた。見慣れた光景だ。


「子どもたちは幾つくらいで竜に乗るものなんだ」

「色々です。わたしは術後、こちらに移って危なげなく走ったり跳ねたりできるようになってからですから、たぶん七歳くらいじゃないでしょうか。あまり覚えていません」

「七つかぁ……それはちょっときついな」


 エドワルドの声音には諦めと感嘆が滲む。それでわかった、また騎乗に失敗したのだ。房の前でうろうろせず、隠れていたのは正解だった。もしこれがファゴの目の前であれば、手のつけようのないほど興奮させていただろう。


「ファゴは、気性は荒いですが繊細です。慣れない環境や新しいことを嫌がるので、いきなりではなく少しずつ慣れさせないといけません。鞍にせよ、竜舎にせよ、乗り手にせよ。運動不足でもあるようですし、少し飛ばそうかと思うんですが……一緒にどうです」

『でかした! よく言ったよナターシュ!』

「二人で騎乗できるのか?」

「短時間なら大丈夫です。さあ」


 腕を引くと、逆らわずについてきた。詰め所に顔を出して出かける旨を伝え、二人乗り用の鞍を持って房に戻る。

 ファゴは不満げな唸り声を発した。飛びたいが、エドワルドは乗せたくないのだろう。


「ファゴ。少しだけ我慢して」


 不承不承ながら姿勢を下げた赤竜に手早く鞍を取りつける。竜舎から連れ出し、開けた斜面に座らせてエドワルドの騎乗を助けた。


上空うえは風があります。あまり身動きせずに掴まって……死んでも離さないでください」

「わかった」


 何がおかしいのか、了承の返事には笑みが多分に含まれている。そっと鞍に上がり、右足でファゴの胴を蹴った。

 助走はわずか三歩、スピカよりもずっと力強い。翼が風を捉えて体が浮く。舞い上がる。

 もっともっとと貪欲なファゴが羽ばたくたび、螺旋を描いて高度が増した。ナターシュは軽く手綱を絞って注意を促し、背にしがみつく人間の存在を思い出させてやる。腰に回されたエドワルドの腕が、力んで緊張しているのがおかしかった。彼とて船の上ではもっと力を抜いているだろうに。

 びょうびょうと耳元でうねる風の音に負けぬよう、叫んだ。


「どうです、竜は!」


 返答は風に流されて聞こえなかった。しがみつかれて身動きもままならず、表情が見えない。ややあって腕の力が緩み、余裕を取り戻したのだと知れた。動作は何よりも雄弁だ。無理に話すのを止めて、夜へ向けて飛ぶ。

 東の海面は既に夜を迎えていた。暗い群青、手招く波に揺らぐ影が落ちる。影が見えている間は飛べる、というのがナターシュが自らに課した制限だった。夜でも飛ぶだけならばできるが、よほど月や星が明るくなければ高さや距離感覚がおかしくなってしまう。竜もことさらに夜目が利くわけではなく、梢や岩場に激突などしてはたまらない。

 夜が世界を覆ってゆく。西の空は朱、明星が輝く中空は白く、東へ向かうに従って徐々に光を失ってゆく空を眺めていると、時の狭間に生きていることを実感する。

 遠くにぽつぽつと見える灯りは、海峡群島に向かう船だ。南北の大陸は暗い影の淵にあり、輪郭さえ定かではない。


「あのあたりが海峡群島です」


 指さしながら身を反らすと、思いのほかすぐに後ろ頭がぶつかった。こんなに近かったのかと不思議な気持ちになる。二人乗りは久しぶりだし、大抵は前に年少者を乗せるから、後ろに人がいる状態での騎乗の感覚が遠い。


「……暗いな」

「よほど明るくないと見えませんよ」


 ファゴを大きく旋回させ、落日に向かって飛んだ。金色の海原に竜の島は黒々と浮かぶ。家々の灯は頼りなく、地震の爪痕が生々しい。赤い空は、間もなく急速に色を失うはずだった。波の反射を除けば、眩しさもほとんどない。

 ファゴの飛翔はスピカに比べて力強く、大人ふたりを乗せているとは思えないほどだった。多少の風にも気流にもびくともしない。もともと体格がよく、体力も持久力もある竜だから騎乗には向いているのだ。乗り手が見つかれば、きっとどこでだって活躍する。気の進まないことだが、戦場でだって。戦場に遣るのに比べれば、エドワルドが乗りこなしてくれる方がいいに決まっている。赤銅色の鱗は彼の赤毛にぴったりだ。

 シャナハが魔法で命じれば、ファゴはエドワルドの前に膝を折るだろう。けれども、それでは意味がない。

 誇り高く、自信に満ちあふれたエドワルドと、並の竜よりずっと気高く繊細なファゴはまったく似たもの同士で、針鼠のように寄り添うことができずにいるだけだろう。どちらかが譲って、長所を補い合うことができればいいのにと思う。

 後ろでエドワルドが何か喋っているが、風が強くて何も聞こえない。竜使いには空で使う手信号があるが、それを彼が知っているとも思えなかった。どうしようもないので放っておく。重要な話をこんなところでするはずもないし、後で聞けばいいだろう。

 腰に回された腕は非常に紳士的で、もしも上空で不埒なことをされたらどうしよう、とほんのひとかけらほど不安に思っていたのを恥じた。やっていいことと悪いこと、最低限のけじめはついているらしい。

 エドワルドは勘がいい。高所を怖がるでもなく、下手に力むでもなく、旋回するとなればごく自然に外側に体重をおく。騎乗するとなればすぐにこつを掴むに違いなかった。

 竜舎横の斜面にファゴを下ろす。先に下りたエドワルドが感慨深げに赤銅色の鱗を撫でていた。もうとっくに餌の時間だ。遅くなっては迷惑がかかる。嫌がる素振りもなく落ち着いている竜の手綱を引いた。

 が、ファゴは動かなかった。おやと思ったのも一瞬、隣の男に手綱を預けて竜舎を指さすと、かれはエドワルドに従って素直に歩き始めた。まるでずっと慣れ親しんだ竜使いの指示であるかのように。

 目を丸くした彼の口元がむずむずと動いて、しかし言葉は出なかった。呑み込んだ喜びを、きっと忘れることはないだろう。

 翌朝、リウリが血相を変えて飛んできて、ファゴがエドワルドの騎乗を許したと報告した。

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