三 小夜(2)

 ティレが都の役人を伴って戻ってきたのは三日後だった。

 役人はナターシュの知らない顔で、ワンニと申します、以後お見知りおきをと慇懃に頭を下げた。

 ワンニはエドワルドへ不躾な視線を送っていたが、マグリッテから北王国の王子であると紹介を受けて飛び上がった。同席すると予想していなかったのだろうか。自らの国の生ぬるさを目の当たりにして、口の中が苦い。


「は、そ、それは失礼をいたしました。書記官のワンニと申しましてございます」

「わが国とはこれまで交流がなかったが、それは民らの苦境を見過ごして良い理由にはならぬ。海峡群島の領主としてお見舞い申し上げ、できる限りの力添えを約束しよう」

「は、勿体ないお言葉でございます。しかしながら私どもではご厚意に一遍の感謝を述べることしかできませぬ。大変不躾なお願いながら、都までご足労頂き、王にお目通り願えませんでしょうか」

「状況は理解しているつもりだ。幸い竜はほとんどが無事ときている。都まで騎乗しても構わないだろうか」


 退屈そうにしていたシャナハが、あれ、と声をあげた。


『エドワルドさま、ファゴに乗れるようになったんだっけ?』


 少なくともナターシュは聞いていない。ファゴが騎乗を許したなら、もっと大騒ぎになっていそうだし、彼も黙ってはいないだろう。二人で騎乗することもできるが、そうなると彼を乗せるのは自分以外にない気もする。もしかしてそれを狙っているのか。狡猾な男だ。

 鷹揚なエドワルドに、ワンニは机に頭をこすりつけんばかりになっている。


「もちろんでございます。本来ならばこちらからお礼に伺わねばならぬところ、数々のご無礼、平にご容赦くださいませ」

「気にするな。そちらを待っていては話が進まんからな」


 ワンニは主に都の混乱と連絡の不行き届きを詫び、王や王子王女の無事を強調し、海を隔てて向かい合う南大陸のミジャーラ皇国が復興の援助のために人や物資を届けてくれていると現状を語った。

 ミジャーラとはかねてより友好的な国交がある。マリウスの留学を受け入れ、飛竜と竜使いによる大がかりな部隊を所持している国であり、竜の国には穀物を輸出するなど切っても切れない関係である。港に多くの船が停泊していたし、援助を寄越してくれるなら安心だ。


「建物が崩れ、通りがひび割れて危険な状態ではございますが、余震も落ち着いており、復興と復旧に向けて日々進んでいるところです。しかしながら、山道の状態を把握するまでは至らず、苦労とご不便をおかけしておりまして、お詫びのしようもございません」


 マグリッテがこれ見よがしに息をついた。細身で撫で肩、小役人といった風情のワンニがぎくりと体を強張らせる。


「もちろん、それは承知しています。ここと都では何もかも規模が違いますからね。それでも敢えて言いますが、王は高山地帯を見捨てられるおつもりですか」

「いいえ、いいえ、決してそのようなことは……」


 語調は抑えめで、淡々としている。だからこそ怒りが滲む。ワンニは女領主の怒りをいなすべく遣わされたのだろうが、ぶるぶると震えるばかりだった。エドワルドが無言ながらに同意の視線で貫いていることもあるだろう。

 あるいはワンニ自身、こちらへの援助や様子伺いを進言していたのかもしれない。それほど言うならばお前が行って報告せよ、となっても不思議ではなかった。


高山地帯ナッシアは決して豊かな土地ではありません。エドワルド殿下がお手を差し伸べて下さらなければ、我々はとうに飢えていたでしょう。わたくし、マリウス、ナターシュ。竜や竜使いたち、わたくしたちの暮らしを支えるたくさんの命を、陛下は蔑ろになさったのです。気持ちの問題ではありません、これは厳然たる事実です。……謝罪や賠償を要求しているのではないことはわかりますね、ワンニ?」

「もちろんでございます。マグリッテ様」

「エドワルド殿下もまた本国への報せを後回しに、領民の命、竜たちの命を重んじて、国交の有無など些細なこととご決断下さったのです。我々は殿下の英断に応えねばなりません。良いですか、ワンニ。陛下に伝えなさい。これは相談ではありません。王の妹が国の総意として、殿下にお約束したことです。まずは飛竜五十頭。もちろん訓練のために北王国の方をお招きします。それからナターシュとシャナハを、殿下のもとへ遣ります。つまり、私たちは海峡群島と交流を持つということです」


 マグリッテは静かに怒っている。こんなにも強い調子で都からの使者に応対しているところは見たことがない。いつもなら労をねぎらい、使者の報に耳を傾け、丁重にもてなすのに。

 ナターシュとて、怒りや不安、疑問はある。ワンニを問いつめたい。しかしマグリッテがこうも激情をあらわにしては、黙って同意を示すほかはなかった。マリウスも同じなのだろう、くまの消えきらぬ目で恨めしげに睨みつけている。

 ワンニはひたすらに頭を下げ、車椅子の女領主の要求に身を晒していた。

 食糧、衣服や寝具、医薬品、建築資材。物資は乏しく、山道の復旧と流通の回復はいまだ遠い。光が見えず、人心は荒んでいる。民の希望を灯すべく、一国のあるじに相応しき対応を望む。水を流すがごとく、マグリッテの言葉はとうとうと続いた。


「確かに、承りましてございます」


 怒りの言葉が尽きて、痛いほどの沈黙が十分にゆきわたってから、ワンニは頭を下げたまま答えた。表情は見えず、返答も感情のこもらぬ平坦なものであったので、彼自身の心情を汲むことはできない。


『都の役人ってこんな感じだったっけ?』


 シャナハが首を傾げる。

 ナターシュとシャナハは政治から遠ざけられて過ごした。ふたりでいた頃には限られた使用人と御典医しか知らず、高山地帯に移ってからは新年の式典と父王の誕生日に催される祝賀会に顔を出すのみで、教師こそ都から派遣されたが、いわゆる帝王学を教わることもなかった。

 教師が口をつぐむ分野、政治経済、兵法や生物学、算術、その他学問として体系立っているわけではない、生きてゆくために必要な諸々の知識はマグリッテが集めた本を読むか、マリウスと並んで学ぶか、現場に飛び込むしかなかった。

 ダリンについて竜舎で過ごし、あるいは厨房やマシカの惣菜屋で芋の皮を剥き、行商人の話を聞き、わずかな農地を耕す。人々の距離が近い僻地ならではだろう。

 だからナターシュもシャナハも政治を知らない。都から使者が来ればマグリッテは同席させてくれたが、使者が必ずしも政情に明るいわけではなく、教えられる以上を知ることは叶わなかった。

 ワンニは都市計画や治水、環境の保全を担う部署に所属しているそうで、都が地震によって大きな被害を受けた今、寝る時間もないほど多忙であると語った。


「お言葉、議会や陛下に確かにお届けする所存でございます。此度、これほどまでに遅くなりましたことは平にご容赦願いたく……」

「それはわかりました。これからのことをお願いしましたよ。ナターシュ、あなたも同行しなさい。あなたの口から直接、陛下にこちらの状況を伝えるように」

「はい」

「では私も参りましょう」


 軽い調子のエドワルドに、ワンニが再び肩を震わせた。この混乱のさなか、国交のない北王国の王子を都に――王宮に招く。何の前触れもなく。それがいかなる結果をもたらすか計算しているに違いなかった。


「で、ですが、殿下。満足なお出迎えもできませぬゆえ、どうか今しばしの猶予を……」

「足を運べと申したのはお前ではないか、ワンニ。もとより歓待を期待しているわけではない。体面など気にせずともよい、マグリッテ様が仰ったように、今回のことはすべて私の一存で行っている。国と国がではなく、このエドワルド個人がお見舞いに伺うのだ。何なら、ナターシュ姫の随行扱いでも構わん。それすらもできぬと言うか。私が都に行っては困る事情でもあるのかな?」

「い、いえ、とんでもない……滅相もございません」


 マグリッテと二人してワンニを追いつめていくさまは爽快でもあったが、敵に回したくない気持ちの方が強い。


『息ぴったり。打ち合わせでもしたみたいだよね』


 穏やかに見えて計算高く、理詰めの話術を得意とするマグリッテと息が合うのであれば、エドワルドも案外理性的なのかもしれない。向こう見ずで考えなしの部分ばかりが目についたが、万全と評するほかない有事へ備えは、咄嗟の思いつきでできるものではない。もちろん、リフィジやクレム、ホークらの助けもあるのだろうが。

 ナターシュとマリウスが沈黙を保つ隣で、ワンニはついにエドワルドの都入りを了承した。マグリッテが勝者の笑みを浮かべている。


「お疲れでしょうから、今日はお休み下さいな。こちらも慌ただしくしておりますので、十分におもてなしもできませんけれども」

『おばさま、こっわ……マリウスもいつかこうなるのかなあ』


 シャナハの嘆息に内心で頷く。

 同い年の従兄弟マリウスはいずれ妻を迎え、高山地帯の次期領主となることが運命づけられている。子どもの少ない土地で坊ちゃん、坊ちゃんと甘やかされて育ち、マグリッテほどの鋭利さも貫禄もないが、ミジャーラの大学へ留学していただけあって、知識は豊富で頭の回転も速い。なかなか活かす機会もないが語学にも堪能だ。南北大陸共通語だけでなく、南大陸の国々の言葉は聞けば一通りわかるという。決して豊かではない竜の国において、知識は大きな武器になる。おまけに竜の魔法の使い手だ。

 エドワルドもそのあたりの事情は把握しているらしく、侮りは見せていない。むしろ、時間が許す限りリフィジやクレムを側に置いて、蓄えた知識の利用法を具体的に学ばせているふうでもあった。

 考えるだにエドワルドの本気が透けて見えて、ナターシュは戸惑う。彼はいつだって手を抜かない。全力でぶつかっていくように見える――あの夜のことだって。

 シャナハと交替してすぐ眠ってしまったけれど、長く話し込んでいたのだろうか。コーティが整えてくれた絹の夜着は寝乱れていたが乱暴に扱われた形跡はなく、起きてすぐ隣にあった無防備な寝顔に、恐る恐る唇を寄せたのがナターシュにできたすべてだった。

 婚前交渉を禁じる法はないが、王族ともなれば慎み深くあるべきで、あの翠の眼に浮かぶあけすけな欲望の炎に身を投げ出すことにはいささか抵抗がある。けれども、何もかもを捨て去って奔放に身を委ね、誘われる先にあるものに遠い憧れがあることを認めないわけにはいかなかった。

 エドワルドの見ている世界がどんなものか、興味があった。

 シャナハが教えてくれたところによると、彼もまた疎まれ、流された王子なのだという。海賊、蛮族と指さされながら長じた彼はしかし、南北の貿易の生命線を握っている。それが彼の将来をどう拓くのか。時流を読み、地力を蓄え、積極的に攻めてゆく姿勢はこの国にはないものだ。

 海に生き、船を操る彼が空飛ぶ竜を手にしたとき、新たな視界を得たとき、戦略はどう展開するのだろう。彼はこの島を、竜を、ナターシュを、どう使うのだろう。大局を変える劇的な一手ではないかもしれない。しかし盤石の国を夢見る彼は、確たる一歩を「上がり」に向けて進めることだろう。

 しかし、彼の戦略は彼のもの。ナターシュのものであってはならない。エドワルドの妻になろうがなるまいが、自分なりの視野と展望を持たねばならないのだ。いつまでも彼に甘えるわけにはいかない。妻にと欲してくれたのだから、同じだけ返したい。

 ――あなたで良かったと言われたい。

 視線を感じて顔を上げると、マリウスの気遣わしげな紫の眼がこちらを向いていた。大丈夫、と頷いてみせる。

 緊張が緩んだ卓の周りでは、マグリッテとエドワルドが平然と茶をお代わりし、ワンニは浮かんでもいない汗をひたすらに拭っていた。


「では、わたくしは準備をいたしますので」


 適当な理由をつけて屋敷を飛び出す。準備といったところで、持って行くものといえば着替えくらいしかない。コーティは瞬く間に荷造りを終えるだろう。

 前庭へ出ると、たまたま近くにいたスピカが嬉しそうに声をあげた。今朝は朝駆けに出られなかったからだろう。首筋を撫でて鞍を乗せていると、背中越しに声がかかった。

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